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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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ついていない日

そして、1時間後。会議室の片付けに向かったのは私だけだった。

やっぱりと思うけれど、辛い。しかも、資料資料と騒いだ割には、デスクには資料が乱雑に残されている。

あれだけ騒いだのなら、持っていって欲しい。思わず恨めしい目でそれを見つめる。

大きく息を吐いて、まず資料を集めようとした時、デスクの上でキラリと光るものに気がついた。


近寄ってみると、一本の万年筆が置いてあった。黒い細身の万年筆で、窓の光を反射してきらりと光っている。

手にするとそれは適度に重く、そして綺麗に磨かれている。きっと持ち主に大事にされてきたのだと思った。


「誰の…?」

その万年筆をくるりと回すと、名前が彫ってあった。


K.Naruse


Kの後に続く文字列は、書いていなくてもすぐにわかった。思わずその名を呟いた。

「なるせ、こうき」


その名前の人はこの会社に一人しかいない。これは成瀬さんのものだ。

分かってみると、その万年筆の綺麗に光るブラックは、成瀬さんによく似合っている。

掃除が終わったらお礼を兼ねて営業に届けよう、と思っていると、後ろで慌ただしくドアの開く音がした。急いで振り返ると、開いたドアから入ってきたのは成瀬さんだった。


成瀬さんはドアから入るなり、私の姿を認めて目を見張った。走ってきたのか、少し呼吸が早い。さっきはあんなに冷静だったのに、今ははっきりと急いでいた。

「これ、ですか…?」

私は万年筆を差し出した。成瀬さんは私の手の中の万年筆をみると、ほっとしたような顔をして、長い指を伸ばして、私の手から万年筆を受け取る。その仕草はとても丁寧で、やっぱりこれは大事なものだとわかる。

ちゃんと持ち主の手に戻ったのを見て、私まで安心した。成瀬さんは万年筆をポケットに入れると、息を小さく吐いて、私の目を見て小さく頭を下げた。

「ありがとう、探してた」

「名前が彫ってあったので、あとで営業に届けようと思っていました」

そう答えると、成瀬さんは笑ってもう一度ありがとうと答える。


頭をあげて微かに笑顔を浮かべた成瀬さんは、さっきとはまるで違う穏やかな顔だった。

形のいい目を少し細めて、口角をあげて微笑みを浮かべる。元々整った、だけどそのせいで冷たく見えてしまう顔が、こんな風にほんの少しほぐれるだけで、とても優しくなって、人の目を釘付けにしてしまう物凄い迫力がある。思わず見惚れてしまった。


「あ、あの。さっきの事ですが…」

我に帰って、私は成瀬さんに向けて大きく頭を下げた。

「さっきはかばってくれて、ありがとうございました」

しばらく深く頭を下げて、顔をあげると、成瀬さんはもう真顔に戻ってじっと私を見ていた。その黒い瞳に至近距離で見つめられると緊張する。私は視線を下げたまま、もう一度口を開く。

「もし、成瀬さんの仕事に支障が出たら、すみません」

成瀬さんは静かに私を見ていたけれど、しばらくして視線をずらしてため息をついた。


「あんなことでダメになるような仕事はしていない。だから君は何も気にする必要はない」

これ以上ないくらいそっけない返事と態度だった。あまりにも素っ気なくて、こっちが拍子抜けしてしまう。だけど私はもう一度頭を下げる。

「でも…ありがとうございました」


私が顔をあげると、成瀬さんは部屋を出て行くかと思ったのに、じっとこっちを見ていた。私はいたたまれなくなり、恐る恐る声をかけた。

「あの、まだなにか…」

成瀬さんは部屋の中をじっと見回してから、私をみた。

「会議室準備って、2人のはずだよね?」

私は驚いて成瀬さんを振り返る。彼は机にもたれて腕を組むと、じっと私を見た。

「どうして君はさっきも今も1人でやっているの?」

その視線はとても鋭いものだった。当たり障りのない返事をしようと考えて口を開いた時だった。


成瀬さんは目の前に来て、私の目を覗き込んだ。背の高い成瀬さんは、自然と私を見下ろすようになるから、かなりの威圧感があった。これが営業で成績一番の人間の圧かと実感する。

「忙しいみたいだったので、私一人でやろうと思って」

「そうやって先輩を庇っても、いいことはないと思うけど」

成瀬さんは腕を組んで、テーブルに腰を乗せて、こっちを見る。返事に困って思わず黙ってしまう。


すると成瀬さんは小さく息を吐いてそのまま体を翻すと、反対側の机に行って乱雑に置かれた資料を集め始めた。

「あの、片付けは私がやります」

私は走って成瀬さんに駆け寄り、その手を止めようとする。だけど、そのまま成瀬さんは手早く資料を集めていき、追いついた時には反対側の資料はほとんど集め終わってしまった。

その背中に声をかけようとした時、急に成瀬さんは振り向いた。そして腕の中の資料を私の腕の中に押し付けた。

「この部屋を使った人間が片付けるのは当たり前だろ」

差し出された紙の束を、反射的に私は受け取ってしまう。

「でも、成瀬さんに手伝ってもらうわけにはいかないです」

作業を続けようとする手を止めようとして私は手を伸ばした。その拍子に彼の腕に手が触れる。


驚いて、成瀬さんがこっちを見た。私は急いで手を離して、すみませんと謝った。成瀬さんが呆れたような顔になる。

「普通の子なら、手伝ってもらえるのはラッキーだって、喜んで甘えるところだと思うけど」

確かに、社内一の人気の成瀬さんと二人きりで仕事できるなんて、喜んで手を上げる人が多いだろう。


だけど、やっぱりそんなことはできないと思う。

だってこの人はとても忙しくて、大きな仕事をしているのだから。


成瀬さんは少し背をかがめて、私を見た。少し遠かった彼の顔が、私の近くに来る。

「忘れ物を見つけてくれた、お礼だから、気にしないで」

その言い方はさっきよりも少しだけ、優しかった。私は俯いてもう一度首を横にふる。

「でも、成瀬さんの方が忙しくて、たくさん重要な仕事をしてますから、こんな仕事を手伝ってもらうわけにはいかないです」

その言葉に、成瀬さんは腕を組んで息を吐いた。


「どんな仕事だって大変なのは変わらないよ。俺の仕事も君の仕事も同じように大切で重要だ。大きいとか小さいとか、ない。俺の方が大変で君が楽とは限らない」

そう言ってじっとこっちを見た。


たくさんの重要な仕事をしている人が、こんな考えをするなんて思わなかった。

とても驚いて、そして思う。この人は仕事に厳しくて冷たいと言う噂だけど、こんな雑用にも手を貸してくれて、本当は優しい人なのかもしれない、と。


「でも…そんな訳には」

困って言葉を濁らせる私を見て、また眉を寄せた。

「君、真面目だね」

思いも寄らないことを言われて、私は返す言葉に困ってしまう。

「頑固だし」

自分がそんなに頑固だったかと、思わず不安になる。だけど、目の前の人は気にしていないように、また私を覗き込んだ。

「そんなに人のいいことを言っていると、また人に利用されるよ」

そう言って今度こそはっきりとため息をついて苦笑いする。同じ事をさっきも言われたな、と苦笑いする。


「でも」

「でも?」

私は顔を上げた。

「でも、仕事はごまかさずにやりたいですし、それが誰かのためになるなら、それでいいです」

成瀬さんは形のいい目を見開いて、私を見た。私はそれを逸さずに見つめ返した。

逸らせたら、気持ちが嘘だと思われてしまう気がして、しっかりと見つめ返した。


先に動いたのは、成瀬さんだった。

「じゃあ、あとは君に任せるよ」

私は大きく頷いた。

「頑張ります。ありがとうございました」

もう一度お礼をすると、成瀬さんはもう一度私の方へと振り返った。

「頑張って。牧野里保さん」

その言葉と共に私を見た。


なぜ私の名前を知っているのか、と思って、彼が首から下げた社員証を見ていることに気が付く。私の動きで考えている事が予想できたのか、成瀬さんは息を吐いて笑った。

端正な顔が自然に緩んだ笑顔は華やかで、しっかりと私の胸を高鳴らせた。


今日、この人は私にたくさんの顔を見せてくれた。

その中でも今の顔が、一番心に残った。

優しくて、気取っていなくて、成瀬さんの素の顔が見えたようだった。


瞬間、素敵だな、と思った。

やっぱりこの人はとても綺麗だと思った。


だけどあっという間に元の顔に戻って、背を向ける。部屋を出る直前に振り返って、成瀬さんは綺麗な唇を開いた。

「お疲れ様」

そんな素っ気ない言葉を残して、会議室を出ていく。私はしばらく、彼の出て行った扉を見つめていた。


結局、私はこの一件に時間を取られ、仕事も大幅に遅れてしまった。

遅れているくせに、資料のまとめ方に悩んで、ようやく完成して会社を出たのは23時すぎだった。

さらに辛いのが、これが完全な雑用と言うことだ。別に評価されるものでもない。

終電のために走って会社のエントランスを通り抜けながら、やっぱり今日はついていないと大きなため息をついた。


それから数週間がたった。もちろんあの後、私と成瀬さんに何かが起きるわけもなく、私は淡々と仕事を続けて、成瀬さんは大きな仕事をして社長特別賞を取ることになった。たくさんのうわさ話を聞いても、その姿は見られない。それすら、いつも通りだった。


そんな中、人事異動がある、と言う噂が流れてきた。

「人事異動ってなんだろうね」

今日も私は変わらず橋本さんと社食でご飯を食べている。


「どうやら、成瀬さんにアシスタントがつくらしいよ」

「え?」

橋本さんの言葉に、私は思わず手を止めた。橋本さんは嬉しそうに笑った。

「ついに成瀬さんが、アシスタントをつけることにしたみたい。それでみんな騒いでいるみたい」

「へえ」

橋本さんは笑ったまま私を見る。

「選ばれたら、どうする?」

「私たちには関係ないよ」

私は俯いて、できるだけ平静を装って返事した。

思い出すのはこの間の、なんとも微妙な初対面だった。

彼と話したのは、あれが初めてで、そして最後かもしれない。だから大切にしたいけど、思い出すとため息が出てしまう。


社食を出ると、すれ違う人たちが大声で騒ぎながら歩いてくる。何人かが私をチラリと見た気がしてなんだか居心地が悪い。総務に戻ると、いきなり課長が私に声をかけてきた。


「あ、ちょうどよかった、牧野さん!」

課長は待ってましたと私を手招きする。

「探したよ、もう」

「お昼です、すみません」

私はホワイトボードを指差した。課長は私に一枚の紙を差し出した。


「牧野さん、明日から営業に異動ね。成瀬君のアシスタントになったから」


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