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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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隣の彼

あれから私は社内講習に出るのを辞めた。

それが自分にも、吉田さんにもいいと思ったのだ。橋本さんも講習会の話はしなかった。気を使ったのか、もしくは課長あたりから話を聞いたのかもしれない。

でも、それでいい気がした。


だから、夕方に社内で吉田さんにあった時は驚いた。彼女はちょうど講習会の会場から出てきたところで、たまたま近くの廊下を歩いていた私が視線を上げたら、目があってしまった。そして、今日が講習の最終日だったことを思い出す。

「牧野さん」

そう、彼女に声をかけられて、逃げるわけにも行かなくなってしまった。言われるがまま、講習会場に二人並んで座る。


「この間は、変なことを言ってごめんなさい」

彼女は頭を下げた。頭を上げると、照れたように笑った。

「あの後、奥平さんがきて怒られた。あんなことをしておいて、今更会社にくるなって。聞いたと思うけど、前に私が問題を起こしたから」

机の上で彼女の両手が握られた。


「でも、成瀬くんとね、話したいことがあるのは本当。そのためにここに来たようなところがあるから」

彼女は誤魔化すように笑って、そして大きく息を吸った。

「知っていると思うけど、以前成瀬くんといろいろあって」

そこで彼女は私を見た。私は静かにその視線を受け止めた。それで彼女は理解したのか、そのまま話し続けた。

「成瀬くんはとても優秀で、私は年上だからどうしても負けたくなくて、必死だった。もし、私がもっとうまくやっていたら、私たちのことも変わっていたと思う。私のせいでたくさん迷惑をかけたから、それを謝りたくて」

そこまで言って、私を見て笑った。


「牧野さん、成瀬くんと付き合ってるんだってね」


突然そう言われて、驚く。

「成瀬くんが、この間あなたを追いかけて行こうとした時に聞いたの」


私を追いかけようとした成瀬さんを、吉田さんは引き留めた。だけど掴まれた手を成瀬さんは払って、私たちが付き合っていることを伝えて、それから私を追いかけた。

それは彼から聞いていた。


「成瀬くんが女性のアシスタントを働いているって驚いたけど、まさか付き合っていると思わなくて、驚いた。変なことを頼んでごめんなさい」

そして、もう一度頭を下げた。

「だけど成瀬くんには、迷惑をかけたことを謝りたい。謝って済むことではないけど、やっぱりちゃんとしたいの」

吉田さんは伺うように私を見た。


「話、聞いたでしょう?」

そう聞かれて、私は頷いた。吉田さんは笑った。泣きそうな顔だった。

「成瀬くんはとても優秀でね。営業で独り立ちしたら、すぐに追い抜かされちゃって。いつの間にか彼に負けてはいけないって、すごく気持ちが追い詰められて」

彼女は大きく息を吐いた。


「それで、あんな事をしてしまった。今なら自分がどれだけ馬鹿な事をしたのかわかる」

彼女は視線を前に移した。

「こ…成瀬くんには本当に悪い事をしたと思っている。謝っても許されることではないけど」


自分の言葉を誤魔化すように吉田さんは笑った。

「でも、成瀬くんも変わったな。昔の彼からは想像もできない。昔はもっと鋭くて冷たい感じだったけれど、雰囲気も柔らかくなってた」

そう言って髪を書き上げた。

「私には冷たかったけどね」

長く垂らした前髪の隙間からのぞく目が、照明のせいだけでなく、光っていた。


「彼のこと、初めて会った時から好きで…彼は私のことなんとも思っていなかったけど、私が何度も告白してようやく付き合ったの。嬉しかったなあ」

思い出したのか、吉田さんは嬉しそうに笑った。

「だけど付き合ってみたら、うまくいかなかった。仕事では彼にどうしたって負けてしまうし、私はいつもイライラして、二人でいても、笑顔なんてなかった」


成瀬さんと彼女のことを詳しく聞いたのは、初めてだった。周りが羨むような二人だったけれど、実際はそんなことはなかったのだと知った。


「自分より優秀な後輩と付き合うって、すごい、プレッシャーだった」


おまけに成瀬くん、すごくモテたから。彼女は明るく言った後で、スッと表情を変えた。

「だけど、今になって見るとどうしてあんなことをしたのか、わからない。私があんなに意地を張る必要もなかったし、もっと甘えてもよかったなって」

吉田さんは小さく笑った。


「私がもっと違うやり方をしていたら、私たちも違ったのかなあ」

吉田さんは笑った、とても頼りない顔だった。

「好きだった。彼のこと、とても」

そう、前を向いたまま、彼女は独り言みたいに呟いた。


もし、彼女がうまくやっていたら、違うやり方をしていたら、

もしかしたら成瀬さんと吉田さんは別れることもなくて、

私と成瀬さんが出会うことも、付き合うこともなかったかもしれない。


だけど、それはわからない。


現実は一つだけで、

『もし』は、彼女と成瀬さんの間にはなかったのだ。


昔の成瀬さんのことなんて、私は何も知らない。

私の中では、私と出会ってからの成瀬さんが全てだから。

今の成瀬さんと一緒にいるのは私で、それは変わらない。


私は何も言わなかった。

何も、いえなかった。


***


「え?何してるの?」

その日の夜、私は講習帰りの橋本さんを捕まえて近くの居酒屋に飛び込んだ。なぜかそこに課長も合流して、おかしな組み合わせの3人で飲み始めた。

そこで成瀬さんはいいのか、と他の二人から聞かれて、私は素直に白状した。


「実は今、吉田さんと会っています」


そう言ったら、二人は大きな声で聞き返してきた。


「どうして?」

「どうしてそんなことしたの?牧野さん」


実はあの後、私は成瀬さんにお願いをした。よく考えたことだった。

吉田さんと、短い時間でいいから話をしてくれないかって。

外出していた成瀬さんに電話してそう頼んだら、とても嫌な声が返ってきた。

私の知る中で一番不機嫌で、冷たい声だった。


だけど、私はどうしても、5分でもいいから話して欲しいと、頼んだ。

「謝りたいって。どうしても話したいことがあるって」

私の声に電話の向こうでは何の反応もなかった。


最後、電話の向こうで静かな声がした。

「里保の頼みなら、そうするよ」

そう言って、電話は切れた。その電子音が聞こえた時、取り返しのつかないことをした気がした。


私は、弱々しく答えた。

「あのままだと吉田さんが前に進めない気がして」

はあ?と橋本さんが大声を出した。課長も思い切り顔をしかめている。

「前に進むって何?」

「もう進んでるよ。あいつも新しい仕事してるんだし」

「やっぱりまだ成瀬さんのことに、心残りがあると思う」

「え?あり得ないくらいお人好しでしょう」

嘘でしょう?そういってグラスをあけた橋本さんに続いて、課長も苦い顔をした。


「牧野さん、成瀬から話聞いた?」

私は頷いた。

「吉田が成瀬のアイデアをとったことも?」

もう一度私が頷くと、それを見て課長は苦い顔をした。

「じゃあ、どうしてそんな事をしたの」


絶対にいい思い出ではない。終わり方も最悪で、きっとちゃんと別れられていない。

そのせいだろうか、吉田さんはこのことに捕われている気がした。

それは成瀬さんも同じではないかと思った。


「お人好し」

橋本さんは課長の日本酒を奪うように飲んだ。

「そうなんだけど、それもわかっているけど…」

私は弱々しく返事する。


自分のやったことがおかしいことはわかっている。

「もし、それで、万が一、気持ちが戻ったらどうするのよ」

そう言って、橋本さんが私に詰め寄ってきた。隣で課長がそれを諫める。

「それは、多分、ない、と…」

「そんなこと言えないでしょう」

呆れたように橋本さんが言った。私は思わず俯いて、ため息をつく。


吉田さんと付き合っていた時、成瀬さんだってきちんと彼女のことを好きだったはずだ。もし、あの二人が同じ方向を見るようになったら、もう一度気持ちが彼女に向かってしまうかもしれない。

そう考えたら、急に怖くなる。


俯いたままの私に反対側から心配そうな声がかかる。

「え、牧野さん、大丈夫?」

「言いすぎたかな、ごめん…」

その時、空いている隣の席に、人がやってきた。


空いた椅子に静かに座って、反対側の課長に声をかける。

「遅くなりました」

その聞き覚えのある声を見上げたら、そこにいたのは成瀬さんだった。


「どうして…?」

その声はとても小さかったから、お店の喧騒にかき消されてしまった。

「成瀬、遅いよ」

課長がそう言って、ほっとしたように笑った。成瀬さんがすみませんと返す。

そして私を見て、

「どうした?」

と声をかけてきた。


「もう、来ないかと思いました」

そう答えたら、成瀬さんは笑った。

「迎えにきた」

どう答えていいかわからなくて、私は黙ってしまう。だけど成瀬さんはもう一度私の顔を覗き込んだ。

「どこにも行かないよ、里保を置いて」


そんな私たちのやりとりを聞いて、気を利かせた課長が橋本さんを連れて立ち上がった。そのまま先に帰るという二人が席を離れると、成瀬さんは私の正面の席に移動しようと立ち上がろうとした。

その腕を私は思わず握って止める。


「今日は、隣がいいです」


そう言ったら、成瀬さんは目を丸くして驚いたけれど、笑って座り直してくれた。


「怒っていますか?」

「怒っていないよ。今は」

今は?気になって顔を向けると、成瀬さんは苦笑いした。

「最初はいい気がしなかったけどね」

電話の向こうの声は、聞いたことがないほど不機嫌だった。

もう会えないかもしれないと思うくらいに。


だけど、今はとてもすっきりした顔をしていた。

「でも、話してよかった。どこかに残っていた何かを解消できたよ。多分、彼女もそうだと思う」

そして私の方を見た。

「ありがとう」

私はため息をついた。

「でもあの二人にはとても怒られました。信じられないくらいお人好しだって」

隣で笑い声がした。


「おかしいですか?」

思わずそう非難するように言ったら、成瀬さんは楽しそうに笑ったまま、私を見た。

「いや、確かに信じられないくらいお人好しだから」

「そんなことないです」

思わず不満げな顔をしてしまったら、頭の上に彼の手が載った。


「でも、里保のそういうお人好しのところも、俺はすごく、好きなんだよ」


それを聞いたら、涙が出そうになった。


「だから、それはそのまま、変わらないで欲しいな」


成瀬さんは私の顔を見て、私の頭を撫でると、

「これを飲んだら、早く帰ろう」

そう言って笑った。



家に帰る途中、彼の家まで歩きながら、一つだけ、気になって質問をした。

「あの万年筆って…」

そう言ったら、成瀬さんはとても、不機嫌な顔をした。


「あれはね、大学の先輩からの就職祝い」

「大学の、先輩?」

そう繰り返すと、成瀬さんはため息をついた。

「君の知っている人。吉田さんではないよ」

「それって…」

「奥平課長だよ」


ええ?と思わず目を丸くした。

「あの人は同じ高校で同じ大学で、同じゼミだった。長い付き合いで、兄みたいなものだよ」

課長が自分の物を買うときに、就職の祝いで自分にも買ってくれた。そう付け加えた。


でも、と私は課長を思い出す。

「課長は使ってないですよね」

課長のデスクにはいつもたくさんのボールペンが散乱している。同じ万年筆を見つけられない。

「あの人は、失くした」

成瀬さんは呆れたように笑った。そしてすぐに私に視線を向けた。

「吉田さんがうちで働いていた頃、まだ課長もその万年筆を使っていて、俺にも同じものを買ったって、皆に自慢してた。だけど少しして、酔っ払った時に無くしてしまった。しばらく皆から揶揄われていたから、それで覚えていたんだよ」

「そうですか」


「何も心配するようなことは、ないよ」


振り仰いだ顔は、とても優しく微笑んでいた。

私もそれに頷いて、彼の手をとって歩き出した。


そうして、ふと、今日は彼の家には行きにくいから、自分の家に帰ろうと思っていたことを思い出した。

だけど、私の足は、私たちの足は彼の家に向かっている。


そして、それがとても自然なことで、私もそれを当然のように思い始めている。


彼と一緒に暮らすようになって、まだ本当に少しだけど、いつかこれが日常になればいい。

そう思った。


ふと隣を見上げると、彼の横顔が見えた。

隣に彼がいてくれることがとても嬉しくて、私は繋いだ手に力を込めた。


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