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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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苦い過去

私が営業に戻ると少しして成瀬さんが戻ってきた。声をかけようとするのを、私は顔を逸らす事で避けてしまった。どんな顔をしていいかわからない。

ちょうどそこに、講習の時間だと橋本さんが迎えにきた。行こうとすると、隣から伸びた手が私の腕を掴んだ。

「今日は仕事があるから、いけない」

悪い、橋本さんに成瀬さんが返事する。そしてすぐに自分のデスクに戻ってしまう。これ以上声をかけるなとその背中が言っていた。

橋本さんは眉を寄せて、成瀬さんを、それから私を見る。

でも橋本さんは、何かを悟ったのだろう

「わかった。講習のこと聞きたかったら連絡して」

そう言って出て行った。


橋本さんの後ろ姿を見ていると、隣から声がかかった。

「今日は一緒に帰るから」

そう言って左隣の彼が私を見ていた。

「話さないといけないこともあるし」

それがどんな内容かはわかるから、私はため息をついた。


ちょうどそこに課長が入ってきた。入るなり私を呼び出した。

「ちょっと外で話そうか」

そう言って連れ出そうとするから、隣の成瀬さんが鋭く見てくる。

「成瀬、すぐ終わるから牧野さん借りるわ」

課長は有無を言わせない様子で成瀬さんに告げると、私を連れて出ていった。


会議室に入ると、課長は私に向かって頭を下げた。

「牧野さん、ごめん」

課長は頭を上げると苦い顔をした。

「今、交渉してきた。まさか吉田香織が来ていると思わなかった。ごめん」

あいつもよく来られるよな、そう言って課長はため息をついた。

「アイツがまた会社に顔を出すのはよくない。講習会を急に中止にはできないから、後2回でやめてもらうことにした。それから後の会はできるだけ他の講師に担当させて、アイツはこないようにさせる。君には悪いことをした」

「あの」

私はためらった後で切り出した。

「まだ、私、話を聞いていなくて」

それを聞いて課長は苦い顔をした。大きくため息をつく。

「成瀬には思い出したくないことだからな」

そう言って、課長は昔の話をしてくれた。

その話はやっぱり、いい話ではなかった。


***


その日の夜、家に帰って成瀬さんは私に吉田さんとのことを話してくれた。

「あまり、里保が聞きたい話ではないだろうけど、聞きたいことがあったら言って」

そう言って話してくれたのは、とても簡単な話だった。

昔、付き合っていたこと。それは三ヶ月と言うとても短い期間だったこと。その後彼女が仕事を辞めて、それ以降、連絡はとっていないこと。

「本当に、それだけだ」

「さっき、吉田さんと話をしたんですか?」


成瀬さんが営業に戻ってきたのは、私よりも少し遅かった。

少し話をするくらいの時間は十分にあったと思う。

「したよ」

その返事にわかっていても、とても苦い気持ちになる。

「でも、里保が思うような事はないよ」

「話したいことがあるって言っていました」

「俺はないって言った」

「謝りたいって」


成瀬さんは息を吐いてから、話し出した。

「彼女は同じ営業で働いていたけど、会社をやめた後で揉めたんだ」

成瀬さんは苛立ったように前髪をかき上げた。

「転職してすぐに、転職先でもここと同じエリアで仕事をした。そのせいで取引先から混乱を招くとクレームが重なった。結局そのせいで彼女も転職先を辞めることになった」

そう言って成瀬さんはため息をついた。

「対応は俺と奥平さんでやったけど、かなり大変だった。信頼回復にも時間がかかったよ」

思い出したのか、顔は苦いままだ。


「多分、彼女は成績をあげたかったんだ。何かにつけて俺と張り合っていたから」

思い出したのか、成瀬さんは話をしながら、苦い顔をしていた。


お互いに好きだったはずなのに、時が経って苦く思い出すなんて辛いことだと思う。

目の前の、辛そうに歪める顔に私はそっと手を伸ばした。


どうしたら、辛い気持ちを消せるかなんてわからないし、消すことなんてできないのかもしれないけど、その時の辛い思いをしていた彼にも、今の彼にも、何かできることをしたかった。

私の指が頬に触れると、成瀬さんは小さく笑って私の手の上に自分の手を重ねた。

「まだ、知りたい事、ある?なんでも話すよ」

だけど私は首を振った。



本当は課長から、もう一つ、話を聞いていた。

吉田さんがやった事。

それは、成瀬さんの企画を盗んだ事だった。


彼女は営業で働いている間に新しいシステムの企画書を出した。とてもよくできたその企画は、最初に出された会議で絶賛された。


だけど、それは成瀬さんが考えたものだった。


まだ企画書も書いていない、だけど頭の中では完全にイメージされている物だった。

それを、何かの機会に成瀬さんが彼女に話をした。

恋人同士だから、時間も、話すタイミングもたくさんあった。


だけど、その会議に出ていた人で、一人だけ、それが成瀬さんのアイデアだと知っている人がいた。

それが奥平課長だった。

ちょうど同じ話を、成瀬さんは課長と二人でいるときに話していた。いい企画だったからこそ、課長も覚えていた。


課長がそれを彼女に問いただしたら、彼女はあっさり認めた。そのため大事にはならなかったけれど、彼女はそのせいで、というわけではないが、自主的に会社をやめた。

そのアイデアも、今更考えたのは自分ですと、成瀬さんが言うわけにもいかない。とてもいい物だったけれど、結局お蔵入りになってしまった。


「どうしてそんなことを…」

課長はためらってから答えた。

「吉田はいつも成瀬に張り合って、結果負けていた。だから成績をあげようと焦っていたんだろう。本人はわざとではない、魔が刺したと言っていたけれど、許されることではない」

課長は大きなため息をついた。


「それで、流石に成瀬もダメージを喰らったから、しばらく海外に出した。だけど、あいつはそれで懲りたのか周りと仕事の話をすることは無くなったし、アシスタントをつけようとしなかった。データの管理にも厳しくなった。どこかでそれを気にしていたんだろう」

私は思わず言葉を失った。


確かに昔の成瀬さんは『人を信用しない』と言われていた。私と仕事をするようになってからも、最初のうちは大事な仕事は絶対に、見ることすらできなかった。

それは彼の性格だと思っていた。


だけどそれが、彼女とのことが原因なら、納得ができる。

一緒に働いていた人、ましてや恋人だった人が仕事を盗むなんて…


私も成瀬さんと家で仕事の話をする。本当に何気なく仕事の話が出てくる。

自分が考えたいいアイデアを、大切なひとに真っ先に伝えたいと思うのは、おかしいことではない。

だけど、そんな時にした話が、どこかで利用されたりしたら…

考えるだけで、とても嫌な気持ちになる。

そして、きっと、とても傷つく。

…もう、人を信用できなくなるかもしれない。


「もう、彼女と話す事はないよ」

俯く私の頭に、成瀬さんの掌が載った。

「俺には、里保だけだよ」

それを聞いたら、目からじわりと涙がこみ上げた。


「彼女とのことなんて、もう全部忘れてしまったけど、里保とのことなら、全部覚えてる」

頭の上の手がそっと私を撫でる。

「ふとした時に思い出したり、こんな風に一緒に過ごしたいと思うのも、自分以外の人のことばかり見ていると焦ったりするのも、里保が初めてだ」

顔を上げると、揺らいだ顔をした成瀬さんがいた。

「君が大切だ…だから、信じて欲しい」

仕事の時はいつだって自信に溢れているこの人が、こんなに頼りない顔をするのは初めて見た。


私は腕を伸ばして彼を抱きしめた。私の腕の中で、彼は大きく息を吐いた。いつもは包んでもらう一方の私が、今日は彼を抱きしめる。私は彼の頭を撫でた。

「大変でしたね」

そう言ったら、腕の中から返事が聞こえた。

「そうだね。その時は色々…大変だった」

私は彼の背中にそっと手を添える。ゆっくり自分の方へ彼を引き寄せた。

「私、絶対に成瀬さんを裏切ったり、見捨てたり、しません」

返事はなかった。だから私はそのまま続けた。

「ずっと一緒にいますから、私のこと、信じてください」

私は彼の背中を撫でた。

「私のこと、成瀬さんは信じてくれますか?」


腕の中の彼の体に、ほんの少し、緊張が走った後で、彼が顔をあげた。

「信じてるよ」

その顔はとても真剣で、黒い瞳がまっすぐに私を見ていた。


信じることより、信じてもらう方が、ずっと大変だ。


私の腕の中の彼の腕が伸びて、今度は私の体が引き寄せられる。

「里保は俺のことを信じてくれる?」

私は頷いた。

「信じます」

腕の中で小さく、よかった、と呟く声がした。


「一つお願いしてもいいですか」

「何?」

「キスしてください」

私の返事に、顔をあげた成瀬さんは目を丸くして、それから笑った。

「いいよ」

成瀬さんは顔を上げて、すくうように、下からそっとキスをした。すぐに顔を上げて私を覗き込む。

「もう一回」

私がそういうと、苦笑いした成瀬さんが、もう一度私の唇に自分の唇を合わせて、

今度は私の下唇を少し噛んで、だけどまるで私の輪郭を確かめるようにゆっくり離れていく。

離れた唇に、わずかに、だけどしっかりと痛みが残る。


そのキスは少し痛くて、痛いくせにとても甘い。


「あとは?」

そう、果てしなく優しく聞いてくれるから、私はもう一度わがままを言う。

「じゃあ」

「なに?」


「私が寝るまで、手を繋いでいて」

それを聞いて、驚いた顔をする。

「そんなこと?」

私が無言で頷くと、成瀬さんは手を伸ばして、私の手を握った。

「今日も明日も、里保が望むなら、毎日そうするよ」


優しく繋がれた手を、私は握り返す。


いつも手を繋いでいて。

絶対に離れないように。


その夜、私は何度もそう呟いた。




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