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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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予期せぬ出来事

忙しい日というのは、突然やってくる。


今日は仕事に余裕があると思っていたら、営業からデータ整理の依頼が入った。課長が部署内を見渡したが、みんな目をそらしてしまう。面倒そうだし、今の仕事も遅れるから、進んで引き受けたくもない。自分は手が空いているからと手をあげたら、案の定、手をあげたのは私だけで、やっぱり私に回ってきた。


頼まれた仕事を見ると、すぐに面倒なものだと理解する。

データに抜けているところが多々あって、それに一部手書きで追加があったり、それが汚くて読めなかったり、ひどいものだった。どうしてこんな状態で放置したのかと思う。

「これ、かなり面倒じゃない?」

そう言って隣から私を見る橋本さんの顔はしかめられている。

「面倒そうだから、みんな避けてたのに。どうして手をあげたのかなあ…」

呆れたように橋本さんは顔を私に向ける。私は肩を竦めた。

「うん、でもみんなが嫌がるかなと思って」

「いつもそう言って人が嫌がる仕事を引き受けるよね」


確かに。言われて思わず頷く。仕事外でも飲み会のお金集めとか、場所探しとか、みんなが避けるようなことを、引き受けてしまうことが多い。そう言う性格と言って仕舞えばそれでおしまいだけど、損な性格だと思う。

「まあ、そうだね」

そう言って言葉を濁すと、橋本さんは苦笑いした。

「お人好し」

橋本さんは笑った後に、今日は用事があって手伝えないんだよね、と謝ってきたから、大丈夫、と返した。


「牧野さん、ごめん」

振り返ると、同じ課の1つ上の先輩が私の前で手を合わせている。

慌てて立ち上がると、彼女の拝むように合わせた手がちょうど私の目の前だった。

「今日、会議室当番だよね、私、ちょっとバタバタしていて行くのが難しくて…」

そう言ってちらりと上目遣いで私を見る。


言われて初めて思い出した。

うちの会社では会議室の管理は総務で担当している。当番は2人ペアで、事前に予定が組まれていて、当日の会議室と資料の準備を行う。壁にかかったホワイトボードを見ると、今日の会議室担当の欄に、私と目の前の彼女の名前が並べてあった。


正直ここでこれが来たか…と気持ちが落ち込む。

私の同期や年の近い先輩はほぼ全員、彼女に会議室当番や終業間近の残業などの、面倒な仕事を押し付けられている。被害者はキリが無い。だけど上司には愛想よく接するから、泣きを見るのは後輩ばかり。そして、後輩だから、文句をいうこともできない。


よりによって、今日この人と会議室当番なんて、ついてない。どうせ私が一人でやるのだろう。

時計を見れば10時40分。会議は11時だからもう準備しないとまずい。文句も言えないし、私は胸の前で両手を振る。


「あ、大丈夫です。私、やります」

言いながらホワイトボードの会議予定をチェックする。同じフロアの大きい会議室。重役メインの会議だった。急いで秘書課に資料を取りに行かないといけない。

先輩は私の返事に笑顔を見せてゴメンね、と付け加えた。

確信犯、と思いながら愛想笑いをして私は急いで準備のために立ち上がる。すると橋本さんも私を見て立ち上がった。私は慌ててそれを止めた。

「大丈夫。一人でできるよ」

大変だったらすぐに呼んで、と言ってくれる橋本さんに感謝して部屋を出た。


会議室に行って、電気と部屋の棚に置いてあるプロジェクターをセットしてスイッチを入れ、スクリーンを降ろす。部屋を出て、1つ上のフロアの秘書課に向かう。私みたいな新人には秘書課はハードルが高い。緊張しながら資料を受け取ると、急いで戻ってテーブルの上に資料を並べるうちにドアが開く。視線をあげると、早足で部屋に入ってきた人がいた。


入ってきたのは成瀬さんだった。

銀色のノートパソコンを腕にして、ダークネイビーのスーツを着て颯爽と歩いてきた。入ってくるなり、前の席について、さっと自分のパソコンを立ち上げる。資料を配りながら、ついその動きを目で追ってしまう。こんな距離で姿を見られるなんて、初めてかもしれない。

その間にも会議室には人が集まってくるけれど、成瀬さんはそれを気にせず、パソコンだけを見ていた。私はそれを横目に見ながら急いで書類を置いて回る。あと少しで配り終わる、というときだった。


「あれ、これ」

席について資料を見ていた人が、声をあげた。さっき私が配った資料をみて、いぶかしげな顔をしている。

「ねえ、君」

そのまま私に向かって声をかける。私は小走りでその人のもとへ向かう。

「受け取った資料ってこれだけ?朝、もう一つ資料もつけるように言ったんだけど」

「え?」

その人の声に、周りがざわめいた。みんなが手元の資料を見る。声を出した人は資料を手にして、もう一つ配るものがあると声を出す。

「すみません。受け取ったのはこれだけですが、今、急いで確認してきます」

私はあわてて返事した。時計はもう5分前。急がないと会議が始まってしまう。けれど、その人は片手をあげた。

「いや、君はこっちをやってよ。準備はもう一人いるはずでしょう?…あれひとり?」


私は焦る。今の言葉でみんなが`一人足りない`ことに気が付いてしまった。私は急いで声を出す。

「すみません、いますぐ秘書課に行って確認をとってきます」

私がそう返事すると、ちょうど来ていた秘書課の課長が立ち上がった。

「いや、いいよ。君、まだこっちの準備があるから。言われて対応していなかった秘書課のミスだから、取りに行くよ」

そう言って、目線で仕事を続けて、と言ってくれる。けれど、それを制するように、他の人が声を出す。

「君がいなくなったら、会議が始められないよ。君は残って」

そうなると秘書課の課長は部屋を出られなくなる。最初に声をあげた人が、今度ははっきりと不満げな声を出す。

「大体、準備が出来ていないってなんだよ。もう一人は?もう一人いるはずだろう」

そう言ってその人は資料を机の上に投げると、椅子に座って腕を組んだ。イライラした態度を隠すことなくこっちを見る。


「君、急いで。一人で無理なら、早く担当を電話で呼び出してよ」

その声にみんなが周りを見渡して、その後、私に視線が向く。

どう見ても、私一人なのははっきりしている。会議室内がざわめき出した。

このままだと先輩のこともバレてしまうし、何よりもこの状況を逃げきれない。頭の中でどうしよう、と思っても何も思い浮かばない。その時だった。


「その資料なら、こちらで再度提示します」

静かな落ち着いた声がした。


声のした方を見ると、成瀬さんが顔をあげてこっちを見ていた。

「今日はこれまでの流れを振り返りながら説明します。お話しされている追加資料は以前会議で出されたものですよね。」

そう言って私の知らないシステムの名前を言って、成瀬さんは私が配った紙の資料を手に持つ。

「それについても、あくまで確認のため、ですが、説明しますし…一度お配りしている資料ですから、内容は皆さんすでに頭に入っていると思います」

そう言ってぐるりと会議室内を見渡した。

その顔はとても冷たく鋭くて、彼の言い方と態度からは、以前の話を忘れたのか、という言葉の裏の意味が感じとれる。

成瀬さんは手にしていた資料をパサリとデスクの上に置いた。その静かな音すら会議室内に響くようだった。あれほど騒がしかった室内が、今は彼の放つ冷気で、いつの間にかしんと静まり返っていた。


この顔で、あんな風に言われて、反論できる人なんているのか。その声や、視線の冷たさに場が凍りついている。

「ですので、今日、ここで改めて配る必要はないと思います。いかがですか?」

そう言って、もう一度成瀬さんは全員を見渡した。

「わざわざ手元に資料を追加しなくても、会議はできます。時間の無駄なので始めましょう」

その言葉に、さっきの人が苦い顔をする。腕組みしたまま、大きく息を吐いた。イライラした態度だった。


見方によってはかなり反抗的な態度だ。自分は助けてもらっているくせに、上司に対して言い過ぎではないかと思ってしまう。心配になって彼の顔を見ると、成瀬さんは涼しい顔で会議室内を見ている。

そんな私へ成瀬さんが顔を向ける。「君、準備終わったなら早く出て。会議を始めるから」


その顔はさっき同様、とても冷たくて、鋭かった。

私は無言で室内を見渡す。みんながチラチラと私を見ていたから、いたたまれなくて私はそっと一礼して部屋を出た。部屋を出て、思わず大きく息をつく。

「助かった…」

振り返ればかなりまずい状態で、もしかしたら、大きな問題になっていたかもしれない。

でも、一つだけ、言えることは

「私のこと、かばってくれた」

事情を察した人はいたはずだけど、実際私を庇ってくれたのは、成瀬さんだった。

成瀬さんだけだった。


そう思った後で、間近で見た成瀬さんの、あの刺すような、とても冷たい鋭い顔が思い出される。

私をかばったことで、彼の評判を落としてしまうかもしれないと不安が押し寄せる。あの態度や言い方に反感を持つ人も確実に、いたはずだ。

そして、あの視線は憧れていた私でも、少し怖かった。


私はドアをにらみつけた。なんだか気持ちがもやもやするけれど、私には何もできない。不甲斐ない自分にため息をついて、総務に戻った。


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