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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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憧れと好きの中間

社会人になった最初の日に、私は恋をした。

その人に初めて会ったのは、入社式の時。まだ着慣れないスーツを着て参加した入社式で、私は彼を知った。

彼はその場にいる中で、一番目立つ人だった。

反対に私は会場にたくさんいる、彼からはその存在すら認識されない、その他大勢の中の一人だった。


彼は入社式で新入社員全員を前にして、営業部を代表して挨拶をした。その場に来るということは、その部署を代表する人で、つまり誰の前に出してもおかしくない、とても優秀な人、ということだろう。そして彼は「そう言う人」だということが見るだけで理解できる人だった。


背が高くて、スタイルが良くて、遠目にもわかるくらい端正な顔をしていた。長い足でゆっくりと歩く姿には、言葉にはし難いなんとも言えない雰囲気があって、その場の全員が、彼に引きつけられていた。もちろん、私もその一人だった。

すっかり彼に見惚れてしまった私は、彼が何を話したのかは、正直覚えていない。

でも彼の名前は覚えることができた。


成瀬光輝。

『ひかり輝く』なんて名前、あの人にはこれ以上ないくらいぴったりだと思う。


働き出したら、彼−成瀬さんがどれくらい優秀ですごい人なのかはすぐにわかった。うちの会社は医療機器メーカーを扱っていて、その中で成瀬さんのいる営業1課は一番多い人と広いスペースを使用している花形部署だ。主に病院の電子システムに関わることを扱っていて、最近急激に伸びている部門になる。

成瀬さんはその忙しい部署の中心にいる。彼がいないと成り立たないと言われるほどだ。


まだ若いのに成績一番。取引先からの信頼も厚く、どんな難しい取引先も、しっかり話をまとめてくる。彼でないと対応してくれない社も多いという。2年前は武者修行として海外支社にも行っていたから、本来なら海外事業部に回す案件も、"成瀬枠"という特別枠で、彼が対応することも多いらしい。まだ30代だけど、出世街道の中心を走っていて、将来は幹部候補と言われている。扱う仕事も多いのに、通常なら置くはずのアシスタントも置かず、全ての仕事を一人でこなす。

あり得ないくらい、優秀な人。

優秀で、誰よりも素敵な人。


私は総務に配属されたから、彼の仕事の話は全部人から聞いた話だ。でも彼の仕事はいつも社内で噂になり、彼が今何をしているのか、次に何をするのか、全てが注目の的だった。男性社員も、女子社員も、みんなが彼を見ていた。


「恋をしている」と言ったけれど、実際に私が彼に抱いているのは、単なる憧れで、「恋」と言うにはとても頼りない。

雑誌やテレビで見る俳優に抱く思いよりは少しだけ強くて、現実味がある。だけど、「好き」と胸を張って人に言えるほどではない。

「憧れ」と「好き」の中間。

もし言葉にするなら、そんな言い方があっていると思う。


その理由は簡単だ。

彼は私とは世界の違う人だと思っている。

話したこともないし、これから一緒に仕事することも、きっとない。

彼は毎日とても忙しくしているらしく、朝早くから夜遅くまで社内外で働いているらしい。そんな忙しい人だから、私が彼の姿を見たのも、去年1年間で数回だけだった。声を聞いたのも、最初の会の時しかない。


同じ会社にいるのに、とても遠い人だ。同じフロアにいるけれど、私と彼のデスクの間には、たくさんの距離といろんな物が溢れている。でも、そのデスクの距離以上に、現実の私たちの距離は離れている。気持ちの距離で言ったら、地球何周分、と言うくらい、とてもとても、遠い。


だって、彼は私の存在すら知らないのだから。

そんな状態だから、彼への思いはふとした拍子に消えてしまいそうなくらい、あやふやなものだ。


彼のことを、一度だけ社内で、すぐ近くで見たことがある。社食で遅い時間にランチをとった時だった。社食を出て総務に戻る途中、すぐ目の前を彼が歩いていた。


その後ろ姿を見ただけで、私にはそれが彼だとすぐにわかった。

これから出かけるのか、ビジネスバックを手にして早足で歩いていた。春の入社式の時にみたスタイルのいい体を、青い細身のスーツに包んで、長い足で颯爽と歩く姿は、ただ歩いているだけで人目を引いて、なんだか彼の周りだけ、空気が違って見えた。


彼がふと顔を上げて視線を窓の外に向けた。日差しが眩しいのか、目を細めてほんの少し、足を止めて窓の外を見ていた。

廊下の窓から差し込む午後の光が、彼の背中を照らしていた。彫りの深い鼻から綺麗な顎のラインにかけて、日があたる。

彼は光に照らされて立っていた。まるで彼が本当に光り輝いているかのように。


私は思わず立ち止まって、その後ろ姿に見惚れてしまった。光をまとった彼は、名前の通り光り輝いていて、そう、とても、美しかった。


綺麗な人は、後ろ姿もキレイなんだ。


彼が立ち止まっていたのはわずかな間で、彼はすぐに窓から視線を外して歩いて、エレベーターを止めて乗り込んだ。滅多にない彼を見る機会は、あっという間に終わってしまう。

彼の姿が見えなくなってから、私は彼が立っていた場所に立ってみる。そしてついさっきまで彼が見ていた窓の外を見つめて見た。


どうしてそんなことをしたのか、わからない。

でも、多分、少し彼のことを知りたかったのだと思う。

あの人は、何を見ていたのか、この窓を見て、何を考えていたのか。

彼のことを、彼の存在を感じて見たかったのだと思う。


だけど、窓の外には、雲ひとつない青空が広がるばかりだった。

眺めていても彼の考えも、彼自身のこともわかるはずはない。それでも、私はなかなかそこから動けなかった。


窓の外には澄んだ青空が見えた。

雲ひとつない、青い空だけが広がっていた。


***


「受付の人が、成瀬さんに告白して振られたらしい」

その噂を聞いたのは、社食でお昼ご飯を食べている時だった。

思わず手を止めて、隣のテーブルを目で追う。隣のテーブルでは私よりも少し年上の先輩が3人、顔を寄せ合いながら食事しながら話していた。


一緒にランチしている同期で同じ総務の橋本さんは、ちらりと目線を隣に向けて、ちょっとうんざりした苦笑いを私に向けた。

「すごい情報網だね」

そういうと、ため息をついた。隣ではまだ話はつづいているが、橋本さんはランチを黙々と口へ運んだ。私は隣が気になってしまい、手が止まったままになる。


成瀬さんは、その見た目からも、その仕事ぶりからも、当然、とても人気がある。全女子社員の憧れの的と言っていい。確かに誰が見ても同年代の男性では最優良物件だろう。

こんな風に告白して、ダメだった、みたいな話はよく聞く。そして噂にならないものは、きっとその倍以上あるのだろう。

ただ、それを成瀬さんが受けた、という話は聞いたことがない。

噂では断る時も、優しく丁寧に断るらしい。でも、その態度も優しいから、とても諦められない、と言う声も聞いた。断ることは、反感を買いかねないことだと思うのに、余計好かれてしまうなんて、何だか素敵な人というのは、それだけで全部がうまくいくのだろうか。


「成瀬さんって私は苦手だなあ」

橋本さんの声に私は我に返る。

橋本さんは一度、書類のやりとりを成瀬さんとした。ものすごくスマートな対応で、周りの人はみんな成瀬さんに見惚れていたらしい。だけど、その後で橋本さんは

「何だか成瀬さんって近寄りがたい」

そう、苦い顔をした。

「すごく素敵だけど、なんと言うか温かみがないと言うか」

冷たいっていうのかな、そう付け加えて橋本さんは肩を竦めた。

「うちの彼氏はゆるい系だから、その感じるのかな。あの人とは大違いだから」

橋本さんの彼氏は大学から付き合っている人で、かなりのんびりした人なのだそうだ。そう言って橋本さんは笑った。


社内人気一番の成瀬さんには、一つ有名な、どちらかと言うとよくない噂がある。

それは、仕事がとても厳しいと言うものだ。

噂になるくらいだから、その厳しさもかなりのものなのだろう。

そんな厳しさを教えてくれるような話を聞いたことがある。

一度営業でミスがあった。大きな契約が飛ぶようなミスで、そうなれば損害も大きい。当然、社内が騒然とした。それを一人で走り回り、挽回し、最終的に元の通りに話をまとめたのは成瀬さんだった。

だけど、そのミスを犯した担当に、成瀬さんはみんなの前ではっきりといったらしい。


「君のミスで、多くの人に迷惑がかかった。このせいでたくさんの仕事に遅れが出た。それは君のせいだ。全員に謝れ」

固まる周囲の前で、成瀬さんはもう一度言い放った。

「中途半端な仕事をするようなら、この仕事やめろ。迷惑だ」

その表情はとても冷たく、言い分は正しいことはわかっても、思わず怯んでしまうほどだったと言う。居合わせた同期が『思い出しても怖くなる』といっていた。


そんなところを見たことはない。でもなんとなく、理解できる。

入社式の時の彼の姿は素敵だった。だけど、彼の持つ雰囲気はお世辞にも暖かいものではなかった。冷たくて鋭い氷みたいな印象だった。

「あれだけの仕事している人が、優しくて抜けてる、なんてあるはずもないからね」

橋本さんは笑った。確かにそうだろう。


成瀬さんは仕事も徹底的に完璧にこなす。当然のように周りにも同じ事を要求する。でも、みんながそれをこなせるわけではない。ついていけないことも、ミスしてしまうこともある。

だけど、彼はそれを許さない。望む結果を出せない時には、すぐに厳しく注意をし、応えられない時は切り捨てる。


通常、営業では一人につき一人アシスタントがつく。社内外の様々なサポートはアシスタントの仕事だ。でも、成瀬さんにはアシスタントはいない。彼の仕事量には一人どころか二人アシスタントがついてもいい。それを置かないのは二つの理由があるという。


一つめの理由は「彼は人を信用しない」と言うものだ。

基本的に、人の作った資料は使うことはない。プレゼンも自分でする。取引先との面会も日程調整から自分でする。おかしいと思ったデータは自分でさらい直す。

アシスタントにも、大きな仕事をさせない。やらせてもそれをしっかり確認する。場合によっては原型がないほどに変えてしまう。

その理由は人を信用できないから。人を、人のやった仕事を信じられないから。

信じるのは、自分だけ。

そのスタイルに、アシスタントを続けられる人はいなかった。成瀬さんの下で自分を磨きたいと手をあげてアシスタントになった人も、結局続かなかったと言う。その理由は、噂通りなのか、実際はよくわからない。


もう一つの理由は成瀬さんのアシスタント希望者はみんな彼のプライベート狙いで、ミーハーな気持ちで希望する人が多い。そういう人を、成瀬さんはばっさりと切り捨てる。考えれば当たり前のことだけど、その態度に耐えきれず、すぐに降りてしまう人が続いた。

それを繰り返して彼のアシスタント希望者は、いつの間にかいなくなってしまった。

そんなたくさんのことがあって、彼のアシスタントは空席のまま、長い時間が過ぎている。おそらく社内でも、かなり人気のはずのそのポジションは、同時にとても嫌悪されるポジションでもある。


「牧野さんは成瀬さんファンだからね」

「そんなんじゃないよ。好きとかじゃなくて、憧れ」

即座に否定した私の言葉を、橋本さんは苦笑いして聞き流す。

「純粋に仕事に対する尊敬で。別に好きとか、そんなものではないよ」

「まあ、思うのは自由だからね」

私の弁解を橋本さんは楽しそうに笑って聞いていた。からかわれているのが恥ずかしいし、気まずい。そんな私を見て、橋本さんはまた笑った。食事を終えると私たちは総務に戻る。いつもの毎日の繰り返しだ。


コンビニにいく橋本さんと別れて、一人総務へ戻る。ふと前に成瀬さんがいた場所を通し、私はそこで立ち止まって空を眺めてみる。

あの日以来なんとなく、私はこの場所で立ち止まって空を見上げてしまう。


あの日みたいな、青い空が見える日もある。反対に真っ黒な雨の日もある。

たくさんの空を、ここから見上げてきた。

今日はいつかと同じ、どこまでも青い空が見えた。同じような青い空だけど、あの時と違うのは、今日は青い空に白い雲が散っていることだ。


いつか彼と同じ空を見ることができるだろうか。

そんな夢みたいなことを思って、私は小さく笑った。

だって、私と彼の住む世界は違うのだから、何も起こるはずもないのだ。


そう思って、私はため息をつく。


世界中どこにいても、同じ空だなんて、そんなの嘘だ。

私たちの見上げる空は、全く違う。

同じだけど、違う空だ。


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