80.明日
石造りの建物から外に出た狼奇は、涼しい風を感じて空を見上げた。
秋というにはまだ早いが、空は青く高く、気持ちよく晴れ渡っていた。
巨大な聖宮の建物が、大きな影を地に落としている。
じっとりと苔むした人気のない墓地を狼奇は歩んだ。
聖宮の北にある禁域の墓所では、大小の墓石が日陰にひっそりとたたずんでいた。
真新しい墓石の前に起ち、狼奇は喪服の首を片手でゆるめた。
墓碑には、哀悼の辞もなくただ名前だけが刻まれていた。
――征艮将軍 皓之
何をいうべきかと躊躇い、軽く首を振る。
その隣にも、真新しい墓石があった。
――征坤将軍 朱苛
「なあ、余計なお世話だったか」
物言わぬ石に軽く話しかけ、狼奇は更に墓地の奥を見た。
土が四角に掘り返され、埋めるべき棺が来るのを待っている。
空洞の先には、やはり用意されたばかりの墓石が置かれていた。
刻まれた名前は、文成公伯洛。
そのとき頭上から空気を震わせる大音の鐘が響いた。
一つが鳴った後、連鎖するように聖宮の八つの塔から鐘が続く。
もはや鐘の他には何も聞こえない。
狼奇はすぐ側にある巨大な北坎塔を見上げた。
遥か高い塔の上で、鐘が激しく揺れるのが見えた。
驚いた鳥たちが塔を飛び立ち、旋回しながら逃げてゆく。
***
北坎塔の階段を銀髪の少女が駆けあがっていた。
息を乱し、足がもつれるのも構わず、ひたすらに全速力で駆け上がっていた。
最上部に出ると、大鐘が地上からの操作にあわせ、右に左にと大きく揺れている。
耐えがたいほどの大きな鐘の音のなか、少女は床につっぷした。
体を折り、額を床につけ、顔を歪め涙を流して叫んだ。
どれほど叫んでも、すべては鐘の音が打ち消してくれる。
晶瑛は体中から悲鳴を上げて、懐かしい少年を思い泣き続けた。
***
王都冠城の南、蛇水の船着き場から、一艘の船が離岸した。
船頭の声にあわせて、船員たちが慎重に船を操る。
内乱が終わるのを待ちかねていたように、上流下流のあちらこちらから船が冠城に押し寄せていたので、船着き場は大混乱に陥っていた。
事故を起こさないように、船同士でお互いに怒鳴りながら、進路を確保する。
なかなか進まない船の甲板で、船べりに手をかけ見物をしていた少年が鐘の音に顔を上げた。
遠くに聖宮の尖塔が小さく見える。
打ち鳴らされる鐘の音が、船着き場でも良く聞こえた。
あれは葬送の鐘。
自分の葬式の鐘を聞くのも、不思議な気持ちだな、と伯洛は思った。
もう見ることもないだろう祖国を、王都を感慨深く伯洛は眺めた。
「若様! あちこちの港に寄るから大体三週間ぐらいかかるようですよ!」
船員たちの叫び声に負けないように、姜和が大声で叫びながらやってきた。
「まあ、夫曽の通訳なんで、これっぽっちも信用できませんけどね。私も早いこと向こうの言葉を覚えないと」
姜和の姿の向こうには、異国風の衣装を着たひょろっと背の高い貿易商が、にこにことこちらを見ていた。
「そうですか。長い船旅になりそうですね。私はもう何もすることがないので構いませんが、貴方は王のお側にいなくてよいのですか。随分と甘いお人だ、上手くやれるか心配でしょう」
伯洛の問いに、姜和は笑った。
「いいえ、心配なんてしていませんよ。私などがいなくとも、狼奇様は正道を歩みご立派な王になられます。私はそれを確信していますよ。私が若様におつきすることで、狼奇様のお心を慰めることができるのであれば、お安い御用です」
主従そろって甘いのではないかと伯洛は思ったが、ただ黙って頷いた。
ゆっくりと船が動き出す。
川面から跳ねる波しぶきが、顔といわず全身に降り注いだ。
甲板を水が流れる。
顔をぬぐって、遠くなる王都を、聖宮の尖塔を見送りながら、伯洛はふと思った。
異国で落ち着いたら、また絵を描こう。
あの銀髪の少女が、楽しそうに歌う姿を。
降り注ぐ白楊の白い綿毛の中で。
構図はすぐに定まった。
描き始めるのが、待ちきれない思いがした。
伯洛は、滑るように下流に、海に向かって走り出した船の甲板から、じっと小さくなる王都を見つめていた。
いつか、その絵が彼女の元に届けばいい。
***
その日、王宮は日が昇る前から、総動員で即位式の準備に入っていた。
江邑に逃れていた貴族や官吏たちも皆王都に戻っている。
新しい王の即位を祝うために、国中から冠城に人が集まっていた。
王宮の広場には、昨夜のうちから開門を待つ民衆が集まってきていた。
門前のあまりの人の密度に耐えかねて、王宮の門は、朝が来る前に解放された。
即位式が始まるまでかなりの時間があったが、王宮の広場の騒ぎは、刻一刻とひどくなるばかりだった。
ひとかけらの余裕もなく、官吏たちが王宮を走り回っていた。
その足元を縫うように、一人の少年が歩いていた。
開け放たれている扉の端から、遠慮がちに顔をのぞかせる。
「狼奇様、いる?」
「よう、弧張か、どうした」
いつもと変わらないくだけた口調が返ってきたが、部屋を見て、弧張は足を止めた。
豪華な広い部屋の中央に狼奇が立っている。
その周りを三人の女官が取り囲み、王の正装を整えていた。
見たこともない狼奇の立派な姿に、弧張は気後れを感じた。
「ごめん、忙しいよね。やっぱいい」
「どうした」
狼奇は女官が止めるのもきかず、弧張の前にまでやってきた。
衣装が床につくのも気にせず膝をつき、顔を覗き込む狼奇に、小さい声で弧張が言った。
「あのね、さっき、厩に行ったんだ。そしたら赫星号がすごく痩せてて。もう何日も餌を食べてないんだって」
狼奇は苦笑した。
「ああ、あの馬は賢いからな。主人が死んだことをわかっているんだろう。まあ、好きにさせてやれ」
「そんな! 赫星号が死んじゃうよ! そんなのやだよ!」
涙を浮かべた弧張を見て、狼奇は息を吐いた。
「そうだな、確かにそうだな」
次いで笑みを浮かべる。
「なあ、弧張、お前、赫星号の世話をしてみるか。お前を主人として認めたら、赫星号も餌を食うかもしれん。難しいとは思うけどな。やるか?」
弧張はぱっと顔を明るくした。
「やる! 俺、やるよ!」
狼奇は笑った。少年の頭を両手でかき回す。
「よし、上手くいったら、あの馬はお前にやるよ」
「本当? 俺、やるよ! ありがとう、狼奇様!」
弾むように走って出て行った少年の背を、狼奇は笑みを浮かべて見送った。
***
王宮の広場に、割れんばかりの歓声が響いた。
露台に立つ新王は、若く堂々としており、誰もが熱狂的に声を上げた。
侵入してきた外敵を倒し、内乱を沈めた新王は、国を良くしてくれるだろうと、誰もが期待をしていた。
何度も露台に出ては手を振って戻る、ということを繰り返し、狼奇はすっかり疲れ果てた。
「大体なんで服がこんなに重いんだよ」
休憩室で椅子に座り込み、思わずぼやいた狼奇に、軽々しい合いの手が入る。
「いやあ、でもねえ、その衣装のおかげで八割増しにいい男に見えますよ! 馬子にも衣装ってやつですね!」
満面の笑みでご満悦なのは、夫曽である。
片手で一張羅に包んだ太鼓腹を何度も叩く。
特等席から即位式を見物したので、これから五年は自慢話に困らない。
「失礼な奴だな」
狼奇は苦笑する。
「ところで弧張は? 見ないんだが」
夫曽は軽く答えた。
「ああ、弧張なら芽衣ちゃんとこでしょ。なんでも両親と一緒に江邑から見物に来てるって」
「何?」
狼奇が目を見開く。
部屋に控えていた官吏を呼び寄せた。
「おい、弧張と芽衣ちゃんを探せ」
「は、ここに連れて参りますか」
王宮の下仕えは、戸惑ったように新しい王の命令を確認する。
「いや、いい。俺が見に行くから。弧張には気づかれるなよ。いいな、勅命だ」
狼奇が真剣にそう言い渡すのを横目に、夫曽がつぶやいた。
「勅命、軽っ」
それを聞き咎めて、狼奇が夫曽をにらむ。
「いいんだよ、俺は軽いのが信条なんだ。そのうち何でも適当に変えてやる。選挙をやったっていい」
夫曽が驚いて目を瞬く。
「へ? 選挙って猪狄みたいに? あっちだって上手くいってるって話はききませんよ?」
「まあ、駄目ならやめればいいさ。どっかの賢帝を見習って良さそうな奴を養子にするってのもある」
「いやいや、そんな簡単なもんじゃないでしょ」
あまりにも気軽に言う狼奇に、夫曽はあきれ果てた。
「いいんだよ。最初の王がどんだけ凄くても、何代か続けば馬鹿が出るんだ。大昔からわかってんのに、同じ失敗を繰り返すのも能無しだろ。駄目なら止めりゃいい。何でも試してみればいいさ」
「はあ」
夫曽が二の句を継げずにいると、露台の方角から官吏がやってきた。
「陛下、露台においでください」
「今行く」
答えると、狼奇は椅子から勢いよく立ち上がった。
大股に露台に進む。
王の姿に、広場の民衆が熱狂的に声を上げた。
狼奇が片手を上げると、更に歓声が大きくなる。
笑顔で叫ぶ民衆の目に明るい未来しか見えなくても、いつかは駄目になることが狼奇にはわかっていた。
わかっていても最後まで悪あがきをするしかない。
笑みを浮かべ、狼奇ははるか南を見晴るかした。
今、船はどこまで進んだだろうか。
日一日と、玉座の重みが身に染みる。
自分にどこまでできるのか、自信などありはしない。
それでも狼奇は最善を尽くすことを、自分自身と今はもういない人たちに誓った。
「せめて」
大歓声の中、狼奇が口から漏らす言葉は、誰にも届かない。
「せめて、最後の渡渡鳥を食い尽くしてしまわないように」
―完―




