79.聖宮
暦が九月に変わった朝、聖宮は時ならぬ来客に、上を下への大騒動となった。
斎女が呆れて、普通の来客と同様沃慈殿に招くように言い渡し、ようやく騒ぎが収まった。
聖宮の威厳を示す壮麗な広間に入ってきたのは、狼奇だった。
飾り気のない衣装に、緊張のかけらもないごく自然な足取りだった。
晶瑛は、かすかに笑みを浮かべた。
「昨日の決闘にお勝ちになったと聞いてはおりましたが、お姿をこの目で拝してようやく安心いたしました。本当に、ご無事で良かった」
「どうも。恐縮です」
狼奇は軽くそう答えたが、内心は動揺していた。
斎女はごくわずかにしか感情を見せなかったが、本心から彼の無事を喜んでいるようだった。
昨日から数限りなく賞賛と慰めを受け続けていたが、その言葉は何一つ狼奇の胸には届いていなかった。
このとき狼奇は初めて、自分が生き残って良かったのだと感じた。
「これをお返しに来ました」
洗練されているとはいいがたい所作で、懐から宝玉を取り出す。
「神玉!」
小さな悲鳴が壁際に控えていた神官たちから上がる。
「ああ、ありがとうございます」
晶瑛は何事もないように礼を言った。
そして扉に手を差し向ける。
「安嘉堂へご案内いたしましょう。どうぞそのまま神玉をお持ちください」
小さな少女に従って、狼奇は聖宮の広い廊下を歩いた。
安嘉堂に神官は立ち入れないということで、斎女と二人だけで歩いていた。
足音が無限にこだまする。
ときおり廊下をすれ違う神官たちは皆同じような静かな足取り、抑制された表情で、会釈をして通り過ぎた。
「ここです」
斎女は金色の鍵を取り出し、扉の錠を開けた。
少女が重そうに扉を開けようとするので、狼奇は後ろから片手を伸ばし扉を押した。
突然軽くなった扉に、斎女が驚いて振り返る。
戸惑ったように狼奇を見上げた。
「ありがとうございます」
「いえ」
正八角形の部屋は、床に白い大理石が敷き詰められ、高い天井にある明かり窓から眩しい光が落ちていた。
何もない部屋の真ん中にある石台に、斎女が歩み寄る。
「ここに、どうぞ」
狼奇の腰ほどの高さの石台は、上部に赤い別珍の座布があった。
そのくぼみに狼奇は、神玉を置いた。
「改めてお礼を申し上げます。私は斎女でありながら、大切な神玉を守れず失った苦しみに、長くさいなまされておりました。神玉を失ったこと、それを誰にも告げることはできませんでした。ようやく、ようやくこの苦しみから解放されました」
斎女は震える白い手を光り輝く神玉に伸ばし、ゆっくりと撫でた。
陶器のように滑らかな頬に、一筋涙が落ちる。
狼奇はその涙に、十四歳の少女が背負っていたものの重さに気が付いた。
火球が落ちた宵の城壁、あるいは二日前に南の大門でその姿を見たときには、自信と威厳に満ちていた。
人知れず、秘密に苦しんでいるようには見えなかった。
「宮、それほどの苦しみを、どのようにして耐えたのですか」
涙にぬれた頬のまま、晶瑛は狼奇を見上げた。
「祈りました。毎日、ただひたすらに祈りました。自分の至らなさ、愚かさを、変えることのできない過去の出来事をすべて天に預け、ただ祈りました」
狼奇は、斎女に手巾を手渡した。
顔を拭く少女を見つめながら、静かに言った。
「私は多くの人を殺しました。命を賭けて戦う武人であれば当然のことです。この手で殺した者も、人に殺させた者も、間接的に死に追いやった者も数えきれないほどです」
ほの暗い空間に光を与える天井を見上げる。
「それなのに、今更、友人を決闘で殺し、妹が自刃したことに耐えきれない思いがします。ずっと血を流してきたのに、本当に今更ですが」
狼奇を見上げ、晶瑛は静かに頷いた。
「お察しいたします。私にも覚えがあります。私は斎女として、あまねく信徒に等しく慈愛を与えなければいけないのに、一人の少女を忘れがたく悼んでいます。同じ故郷の言葉を話す、同じ年の少女を」
晶瑛は蘭々と過ごしたわずかな時間を懐かしく思い出していた。
「誰一人としてひいきをしてはいけないと、そう教えられてきました。しかし、彼女を忘れることはできません。忘れようとも思いません。特別な一人を忘れることができなくとも、それ以上に、今、目の前にいる信徒に、そして私の目に見えないところにいる信徒のために祈り、愛することはできるはずです」
きっぱりと言い切った少女を見つめ、狼奇はかすかに笑みを浮かべた。
「そうですね、確かに、そうです。ありがとうございます」
そして、一人、狼奇は扉に向かった。
重い扉を引き開け、ふと振り返る。
「一つ、教えてください。祈れば苦しみから逃れられますか」
神玉の側に立つ斎女は静かにうなずいた。
「祈っている、その間だけは」
白い光が天井から降り注ぎ、きらめく宝玉と銀髪の少女を照らした。
「また来ます」
斎女は狼奇を見上げて微笑んだ。
「いつでもおいでください。私はここで、いつでもここでお待ちしております」
狼奇は頷いて、静かに扉を閉めた。




