74.入城
王都冠城の城壁に、初老の男が立っていた。
晩夏の強烈な日差しも気にならないのか、きっちりと襟まで詰めて軍装を整えている。
王都を守る沈約だった。
城壁上の通路を歩きながら、見張りの兵士たちにねぎらいの声をかける。
あまりの暑さにだらけていた兵士たちも、そのときだけはばね仕掛けのおもちゃのように姿勢を正し、元気よく返事を返した。
沈約は最南端に位置する城壁から、遠く南を眺め、次いで西を見た。
八月が終わろうとしていた。
王都で籠城を開始して、そろそろ五ヶ月が経過する。
ときどきは城門を開け、商人たちの通行を許しているが、近隣の里の避難民たちは劣悪な環境で城内に留まっている。
外に出れない王都の住民たちの不満も、危険なまでに鬱積していた。
遠く南の江邑に逃げた王家と朝廷の高官たちはいつ帰ってくるのか。
西に集まる農民を主体とする反乱軍は、王都にやってくるのか。
沈約は何より彼の主であった烈侯梁桀が戦死してから、烈侯軍との連絡が途絶えがちになっていることを気にしていた。
梁桀であれば、細やかな通信を絶やすことはなかったのだが。
後を継いだ若い狼奇はそこまで気が回っていないだろう。
ふと顔を上げると、王都の南を流れる大河である蛇水に、対岸から数えきれない船が渡されてくるのが見えた。
異変を察知した見張りの兵士たちが走り出す。
どこの軍なのか。
沈約は兵士に声をかけて、城壁を駆け下りた。
「警戒しろ!」
***
江邑から王軍が戻った。
王都の大門が開け放たれ、続々と兵士たちが入城する。
報せを聞いた冠城の住民たちが、軍を一目見ようと道に殺到し大きな歓声を上げた。
王宮の広場で、沈約は王軍を迎えた。
王軍の重鎮である将軍呂馬が帰ってきたのかと予想したのだが、現れたのは背の高い金髪の青年、采侯家の長男征艮将軍皓之だった。
「五ヶ月に及ぶ王都の防衛、ご苦労だったね。王都が無事だったのは、君のおかげだろう」
非の打ちどころのない笑みを浮かべてねぎらう皓之に、沈約は頭を下げた。
「過分なお言葉、痛み入ります。采侯軍もお帰りだったのですか。烈侯軍はどうしたのでしょうか」
「烈侯軍は来ない」
「は?」
沈約が顔を上げると、そこには変わらない皓之の笑みがあった。
「捕えろ!」
皓之の声が鞭のように響く。
一瞬にして、後ろに控えていた采侯軍の兵士たちが沈約に襲い掛かり、地面に体を押しつけた。
それを合図として、次々と沈約の部下たちが制圧される。
「何をなさるのですか! なぜこのようなことを!」
沈約の叫びに、皓之は小さく笑みを浮かべて答えた。
「臨烈侯、琅奇が謀反を起こした。烈侯軍はすべて捕える」
「そんな馬鹿な!」
皓之は背後を振り返り、兵士たちに声を上げた。
「王宮を制圧しろ!」
***
聖宮の北坎塔から、晶瑛は王都を見下ろしていた。
塔の先端は地上三十米、強烈な風が体に叩きつけられる。
すぐ側には身の丈を超える巨大な大鐘があった。
吹き飛ばされそうに細く小さな少女は、しっかりと迷いのない足取りで柱をつかみ、身を乗り出して地上を見渡す。 短い銀の髪が風に吹き飛ばされる。
晶瑛は、妙な胸騒ぎを覚えていた。
王都に王軍が戻り、五ヶ月にわたる籠城から解放された城内は歓喜に満ちている。
しかし、この気持ち悪さは何なのか。
晶瑛は、道々で集まり、踊る住民たちを見、そしてぐるりと城壁に沿って王都を眺めた。
大門が閉まっていることに気が付き、晶瑛は眉をひそめた。
解放したと聞いていたのに、閉門され城壁に兵士が詰めている。
目を王都から更に外に向けた。
西から、街道に土煙が見えた。
目を凝らすと、騎兵の集団であることがわかった。
敵なのか、大門を閉じたのは敵から王都を守るためなのか。
北坎塔から晶瑛が下に降りると、侍女の雨桐が待っていた。
「ああ、晶瑛様、大変です」
両手を組んで握りしめ、泣きそうな顔で雨桐が言う。
「どうしたの」
晶瑛はわずかに年上の少女に優しく訊いた。
「王宮が、采侯軍に占領されたって。帰ってきたのは王軍だけではなかったのです! しかも城外には烈侯軍が来ていて、采侯軍が門を閉じたって。王都が戦場になるのでしょうか?」
晶瑛は緑の目を見開いた。
神玉が預言を与えたのは、烈侯家の狼奇である。采侯家の者ではない。
「南の大門に向かいます」
きっぱりと晶瑛は言った。
烈侯軍を王都に入れなければならない。
采侯軍の好きにさせるわけにはいかない。
「危険です! 外は采侯軍の兵士でいっぱいです!」
雨桐の手を振り切って、晶瑛は外に向かう扉へ向かう。
「皆様! 晶瑛様を、宮をお止めください!」
聖宮の建物はその造作のすべてが壮麗で大きい。
長く広い廊下を歩いていた何人もの神官たちが、晶瑛に走り寄った。
白い長衣がひらめいて揺れる。
十人を超える大人たちに囲まれ、晶瑛は前に進めなくなった。
「どきなさい」
晶瑛は鋭く神官たちに命じた。
最も年配の男が、晶瑛の前に膝をついた。
「いいえ、いけません。先の大礼拝室での騒ぎをお忘れですか。神玉の預言をどうにかしようと、宮様のお命を狙う不埒な連中がいるのです。どうか、聖宮にお留まり下さい」
晶瑛は神官を正面から睨みつけた。
「貴方には羊の顔がわかりますか」
「は?」
意図を図り損ねて神官が瞬く。
「私は故郷で羊の世話をしていました。一頭、一頭、すべて見分けがつきました。しかし、貴方がたにはわからないでしょう。羊である、ただそれだけで区別はないのです」
晶瑛は彼女を取り囲む神官たちを見まわした。
「斎女とて同じです。貴方がたは私を近くで見ている。だから先代との区別もつく。しかし、王都の民、この舜国の民衆にとっては、だた斎女であるだけです」
誰一人、何も言えない。
「私が死ねば、次の斎女が立ちます。何も問題はない。私に名はありません。ただ斎女であるだけです。私の命を惜しむ必要はありません。神玉の預言を守らなければなりません」
動けない神官たちに、晶瑛は静かに命じた。
「どきなさい」
晶瑛を止める者は、誰一人いなかった。
神玉を信じない者たちのために、大神官が神玉を盗み命を落とし、何の罪もない黄雀と蘭々の母子が巻き込まれて死んだ。
これ以上犠牲を出さないために、神玉がなくとも、預言は守る。
晶瑛は固く心に決めていた。
***
冠城の内部を、馬に乗った采侯軍の士官が見回っていた。
解放された喜びに浮ついていた王都の住人達も、王宮が王軍ではない軍に占拠されたことに気づき、意気消沈していた。
士官は、大路が交差する要所に置いた歩兵たちに声をかける。
「どうだ、問題はないか」
「ここはまだ大丈夫ですが、南がまずいです」
槍を構え、武装した歩兵が、暗い顔で上官に答えた。
「何がまずい」
士官は馬から降りて、部下に確認する。
「住民が大門に殺到しています。烈侯軍を中に入れろと。どうやら、数日前から臨烈侯が次の王であるという話が流れていたようです」
「なんだと?」
初めて聞く話に、士官は目を見開いた。
「何か、斎女の預言を描いた絵があるとか。外部の商人が持ち込んだようです」
「わかった。合図があるまでここを離れるな」
士官は馬に飛び乗り、冠城の南へ向かった。
進むほどに、道に人があふれ、まともに進むこともできない。
「どけ! そこをどけ!」
叫んでも、住人たちはちらりと振り返るだけで、自分たちが南に行くために道一杯に広がり、押し合い圧し合いを繰り広げていた。
王都の住民相手に武器を使うこともできず、どうするべきかと士官が舌打ちをしたとき、背後から馬車がやってきた。
大路の先は、人があふれて馬車はとても進めない。
止まった馬車から降りたった人物を見て、士官は息を呑んだ。
白い長衣を着た十四ほどの少女だった。
高名な銀の髪、緑の目、人形のように美しい顔。
白い小さな手には、身長を軽く超える長い黄金の錫杖を持っていた。
間違えようもなく、斎女だった。
斎女はまっすぐに大門に向かおうと殺到している人垣に進むと、後ろから声をかけた。
「道を空けてください」
鈴のように澄んだ透き通る声に振り向いた男たち、女たちは驚いた。
「えっ! 斎女様!」
二の句も告げず、隣あう者たちが肩をたたき、後ろを振り向き、ぎょっとして左右に体を引く。
あっという間に大路の真ん中に、空間ができた。
手にした錫杖の先端にある輪を軽く鳴らすと、斎女は前に進んだ。
その後ろに三人の神官が付き従う。
大路にいた王都の住人たちは、固唾をのんで斎女を見守った。
しばらく歩き、大門にたどり着くと、斎女は門を守る兵に静かに声をかけた。
「門を開けてください」
「いや、その、しかし」
住民たちから門を守るために、二十人ほどの兵士がそこにいた。
上官の指示を求めて顔を左右に巡らせたが、誰も頼れる者がいない。
「我が声が聞こえぬか! 門を開けよ!」
突如、鋭く響き渡る大声で叱咤した斎女の声に、兵士は背筋を伸ばした。
「は、はい!」
錆ついた蝶番が、耳障りな音を立てる。
どのような敵の攻撃をも防ぐずっしりと重い大門が、ゆっくりと時間をかけて押し開けられた。
門の向こうには、二百騎の烈侯軍がいた。
突然、城門の向こうが静かになったことを不審に思っていた彼らは、予告もなく開いた大門を、あっけにとられて見つめていた。
先頭にいた青年が、馬を降りる。
一人、門を通り、正面で待つ銀髪の少女の前に立った。
「巫宮、なぜここに」
狼奇は、やや呆然と聖宮にいるはずの斎女に訊いた。
晶瑛は小さく微笑んで、狼奇を見上げた。
「お帰りをお待ち申し上げておりました、陛下」
その言葉に、固唾をのんで見守っていた大勢の住民が一斉に歓声を上げた。
叫ぶ声が大路に響き渡る。
王の帰還を喜ぶ住人達に笑みを見せ、晶瑛は金の錫杖を北に指した。
「王宮の玉座へ」




