72.哀歌
八月が終わろうとしていた。
心なしか、朝夕の空気が涼しい。
朱苛は馬に乗り、自陣を見回っていた。
王都を目指す反乱軍との小競り合いや、くだらない挑発が毎日のように発生している。
いきり立つ兵士をなだめ、戦線を動かさないように、騒ぎを大きくせずに押さえつける毎日だった。
望遠鏡を構え敵陣を眺めてる兵に、後ろから声をかけた。
「どうだ、変わりは?」
「向こうの農民がまた増えてる以外は、変わりません」
声をかけられた士官が、振り返って朱苛に答える。
「狼奇様は大丈夫なんですか」
「大丈夫だ。江邑に残してきた部隊と無事に合流できたと知らせがあった」
「そうですか! 良かった!」
疲れた顔をしていた兵が、一瞬で元気な笑みを浮かべる。
朱苛も笑った。
「もう少しだ。踏ん張ろう」
「はい!」
別人のように明るくなった兵と別れ、馬を陣の外に向ける。
「朱苛様! どちらに!」
後ろから付いてきていた護衛が声を上げた。
「赫星号が退屈している。あそこの丘まで少し走らせてくる。すぐ戻るから、来なくていい」
「今日は動きがないですが、敵陣が近いです。気を付けください」
「わかっている!」
大声で答えると、朱苛は腰を浮かせ、愛馬をあおった。
瞬時に赫星号が走り出す。
一つに括った朱苛の長い黒髪が風を受けて、横に飛ぶ。
なだらかな丘陵が続く草原と、夕暮れの空。
三百六十度、遮るもののない広々とした視界に朱苛は思わず微笑んだ。
愛馬は楽しそうに駆けている。
街中にはない解放感がそこにあった。
目指す丘の上に着くと、馬を止めた。
見渡す限り緑の草原が続き、遠くに青い山脈が見えた。
馬の首を軽く叩く。
「赫星号、お前といた四年、本当にあっという間だったね。ありがとう」
戦場でいつも一緒だった愛馬に声をかける。
朱苛にはわかっていた。
戦場に出るのはおそらくこれが最後だろうと。
兄が王位をめぐる争いに負ければ、妹である朱苛は連座し処刑されるだろう。
朱苛だけではなく、一族の主だった者は皆死ぬことになる。
兄が勝てば、玉座を確かなものにするため、有力諸侯のどこかに嫁ぐことになる。
征坤将軍の号を返上し、烈侯家の女として、政略の駒となる。
征坤将軍でもない、朱苛でもない、ただ王の妹として、妻となり子を産み母となる。
今まで幾多の名もない女たちがそうしてきたように。
朱苛は自分が可愛げのない女であることを知っていた。
運よく優しい夫を得たところで、結局は夫の愛を失い、憎しみを糧として生きることになるのだろう。
――母のように。
ふと風に乗って歌が聴こえた。
首を巡らせると、離れたところにある敵陣で、農民たちが輪になって歌い踊っていた。
踊っていない者たちも、車座になって手を叩いている。
楽しそうだった。
これからの戦いの中で死ぬかもしれない。
生き残ったところで、反乱罪で処刑される。
万が一、反乱が成功したところで、彼らには統治者がいない。
報酬も、安全も、未来も何も手に入らないだろう。
何一つ明るい未来は見えないのに、彼らは楽しそうだった。
彼らは王家の墓を作るために、駆り出された農民だ。
陵墓の工事は何年もかかる。
家に帰ることもできず、ただ働きでこき使われる。
真面目に働いたところで生きて故郷に帰れるのかもわからない。
多分、もう、どうでもいいのだろう。
最後が来る前に、歌って踊って楽しんで、何が悪いのだろうか。
遠く空と接する山の端に、太陽がかかる。
山の稜線に丸い形が崩れ、つぶれるように赤くにじんできらめいた。
山脈は黒く、空は蒼く、風に波打つ草原が赤く染まった。
風に飛ばされた黒い髪が目の端に映る。
美しい光景に、朱苛は笑みを浮かべた。
ああ、この景色を皓之に見せることができたらいいのにと。




