71.王都へ
江邑の街では、何事もなかったかのように人々が働き、暮らしていた。
ただ街に立つ警官の数が増え、不審な人間、烈侯家と関わりのある者を見なかったか、と聞いてまわるぐらいである。
道を歩けば、何事もないいつもの光景である。
だが毎日のように誰かが捕まり、牢に放り込まれていることを、ほとんどの住人が知っていた。
噂話をすることさえ危険を感じるのか、表向きは皆、何も知らない顔をして日常を送る。
しかし、人目を忍んで昨日は誰が捕まったのかと囁きあった。
江邑の中央、官庁街にある主計所で、昼休みの鐘が鳴った。
ただでさえ音の響く大部屋が、大あくびの声や椅子を引く音で、一度に騒がしくなった。
家に帰って昼ごはんを食べる者は、そそくさと部屋を出る。
弁当を持参している五人の女官吏たちが、主計所の中庭に集まった。
横長の腰掛けに並んで座る。
「ねえ、太守様、捕まったのかな」
夏空を見上げながら、ぽつんと一人が口に出した。
「私はまだ聞いてないよ。逃げきれたんじゃない」
「本当に太守様が謀反を起こしたんだと思う?」
官吏たちはあたりを見回して、人がいないことを確認すると、声を落として続けた。
「そんな悪い人に見えなかったよね」
「あたしたちの話聞いてくれたし。あの後すぐ王都の嫌な人たち来なくなったし」
「そうだよ。あれ、太守様が手をまわしてくれたんだよ」
女たちは、お互いに顔を見合わせ、ため息をついた。
「太守様も、太守府の人たちも、悪い人じゃなかったよね」
「どっちかっていうとその後冠城から逃げてきた人たちの方が、相当感じ悪いよね」
「そうそう、江邑を事あるごとに馬鹿にしてさ」
しばらく黙々と官吏たちは食事を続けた。
「兵士の数は、太守様の烈侯家の方が多いって誰か言ってたよ。今江邑にいる王軍と采侯軍とどっちが勝つかなんてわからないよ」
「太守様が勝ったらいいのに」
「どうしたらいいのかな。何かできること、あるのかな。所長に相談してみる?」
「駄目、駄目! 危険だよ! あの人、出世して王都に行きたいんだよ。上の人の言いなりだよ」
慌てて一人が仲間を押しとどめると、皆一斉にため息をついた。
その時、ふと思いついた一人が口を開く。
「聞いた? なんか法務所の人たち、捕まった人たちの処分できるだけ遅らせるために、訴追書類の確認一回で済むのを三回やってるって。それもできるだけゆっくり」
五人の女官吏は顔を見合わせた。
「うちもやる?」
「やれるかな」
「ばれないように」
「お馬鹿なふりして」
お互いに頷くと、立ち上がって執務室に戻った。
休憩時間の終わりを告げる鐘が鳴る。
嵐を呼ぶ積乱雲が、もくもくと地平から湧き出していた。
***
貞固館にある大会議室では、高官がいつものように集まっていた。
朝の会議は、日一日と、沈鬱さを増していた。
王位を狙う謀反人である臨烈侯、狼奇の行方が掴めない。
それどころか、江邑から逃げだした烈侯家の主要な家人たちを捕えることすらできていなかった。
江邑の住人で烈侯家と付き合いの深かった者たちを捕えて尋問しているが、結果ははかばかしくない。
「貞固館の門前まで来ていた狼奇を逃がしたのが痛かったね」
臨采侯、皓之の明るい声に、数人が首をすくめた。
「残念ながら、文成公の行方も手掛かりがございません」
滑らかに受けるのは、宰相宋義の部下、董辰である。
宋義は仏頂面で黙っていた。
「やる気がないのかな、それとも能力か」
皓之の皮肉めいた発言に、追跡の任を負っている武官たちが慌てて言い訳をした。
「臨采侯、我々は最善を尽くしております! 江邑の連中が、捜査に協力をしないのです。我々を余所者だと思っているのか、わかりましたというだけで、何も手がかりとなる情報をよこさないのです」
「まあ、余所者なのは確かだけどね。それを言うなら狼奇だって余所者のはずなんだけどな。で、租税調査のほうはどうなっている? 謀反の訴追容疑に使えるはずだが」
皓之に視線を向けられた文官が、両手を組み合わせ、上ずった声で言い訳をする。
「その、一向に主計所から報告が上がってこないのです。計算途中でもいいからよこせと言っても、あと少しなどと言って」
隣の文官が、首を振った。
「まったくもう、江邑の者は、ろくに仕事もできないくせに、言い訳だけは一人前で」
「困ったね。いつまでもこうしてはいられない」
皓之の発言に、場は静まり返った。
「私は軍を率いて王都、冠城に向かう。烈侯軍に先に入城されるとやっかいだ。王軍からも兵をお貸しいただこう」
皓之はまっすぐに王軍の将軍である呂馬を見た。
老いた将軍は、ただ若い青年を見返すことしかできなかった。
「王都でも布告を出す。臨烈侯狼奇は、謀反人であると。私が王宮を、王都を守り、最終的には烈臨軍を打ち負かそう」
皓之が王宮に入る。
それは謀反ではないのか。
居並ぶ高官たちは、愕然と顔を見合わせた。
「臨采侯の仰ること、ごもっともにございます。謀反人から王都を、玉座を守ることが何よりも肝要かと存じます」
董辰の言葉に、皓之は満足そうに頷く。
「江邑の守りは、宋義殿、呂馬殿にお任せします。王都に戻った後、冠城の政務を立て直す必要がある。私は行政に不案内なところがあるので、董辰殿に手伝っていただきたいのだがいかがか」
「私などでよろしければ」
恭しく董辰は、皓之に頭を下げた。
「その! 董辰は私の部下ですが!」
立ち上がった宋義が声を荒立てて抗議する。
「ああ、そうでしたね。申し訳ないですが、お貸しいただけますか。途中、烈臨軍と戦いがあるかもしれませんのでね。お若い董辰殿に随行をお願いしたい」
にこやかに皓之は笑って、宋義にきっぱりと言い渡した。
宋義はただ、頷くことしかできなかった。
***
会議の後、宋義は荒れた。
自分の執務室に戻ると、意味もなく、下官を叱りつけた。
報告が遅い、そんな連絡は聞いていない、茶が熱いと。
「宋義様、会議で何かございましたか」
見かねた部下が宋義に質した。
「董辰だ! あ奴、わしを裏切りったのだ! 臨采侯に取り入って新たな地位を得るつもりなのだ!」
部下は驚いた。
「董辰は、宋義様が引き立てて、ここまで来たのに」
宋義は大声で怒鳴った。
「そうだ! わしが院試に受かっただけの学生だった董辰に目をかけて、分不相応な地位につけてやったんだ! 少しばかり仕事ができるからと思い上がりやがって! その地位を、環境をわしが用意してやったから、腕をふるえたんだ。あの程度の奴ぐらいいくらでもいる! それを自分の力だと思いあがったんだ!」
宋義は力任せに、袖机を蹴倒した。
引き出しが押し出されて床に落ち、派手に音を立てた。
部下は、深々とため息をついた。
「身分の低いものは得てして恩知らずなものです。各所の因縁や縁戚、歴史の重みというのを理解しないのですよ。やはり、しっかりした家の者をお使いになるべきです」
「全くだ!」
宋義は怒りに任せて、書類を両手で引きちぎった。
二度と卑しいものを信用するかと。




