62.動揺
棄山を、烈侯軍、采侯軍、そして王軍が、取り囲んだ。
ほとんどの兵力は山の麓に残っている。
ただ乱賊の頭目である魁傑の首を狙う兵たちが、集団となり、またあるいは単独で、山道という山道を進んでいた。
一攫千金を狙う兵たちは、競争相手を出し抜くために獣道、抜け道、裏道をくまなく探した。
結果として、乱賊たちは蟻をも漏らさぬ包囲網に取り囲まれることとなった。
大きな岩に足を掛け、朱苛が山頂を見上げた。
近くから棄山を見上げると、とても頂上まで人が登れるとは思えないほどの峻厳な岩山だった。
「逃げ出してくるのは雑魚ばかりですね」
「まだ六日だからな」
野戦用の椅子に座った狼奇は、大きく足を組み、空を見上げていた。
日よけの布が、山が吹き下ろす風をはらんで、乾いた音を上げる。
「一番良いのは、乱賊の連中が恩賞に目がくらんで、魁傑の寝首をかくことだ。そうなったらいいんだけどなあ」
朱苛は、目をつぶって椅子に体を預けている兄を、肩越しに振り返った。
「乱賊でも城をやるのですか」
「やるさ」
間髪入れずに返事が返る。
「こっちに被害が出ずに、魁傑が殺せるなら安いもんだろ」
「三軍の兵士を恩賞で炊きつけなくても、乱賊にだけ言ってやったら良かったのではないですか。頭目を殺せば恩賞を出すと。魁傑の首を狙って山に入った兵士たちがすでに何人も死んでいます」
朱苛が疑問を呈する。
目をつぶったまま狼奇が答えた。
「乱賊だけに言っても、連中、信じないだろうさ。山を登ってくる賞金狙いの兵士たちの気合が、恩賞の話が本当だって感じさせるだろう。金の匂いに敏感な連中はじっとしていられない」
「そういうものでしょうか」
薄目を開けて狼奇は妹を見る。
「例えばだ。自分の周りにいた百人が急に同じ方角に走り出したとする。何が起きたかはわからない。朱苛、お前、一人だけそこに突っ立っていることができるか」
「とりあえず同じ方向に走るでしょうね」
「そういうことだ」
狼奇は両手で膝を叩いて立ち上がった。
山を見張っている兵士たちの元に歩いて行く。
山腹の岩影に見える乱賊の集団に、兵士たちが罵声を浴びせていた。
お互いに矢が届く距離ではない。
「さっさと出て来い、臆病もん!」
「すぐに干上がんぞ! 干物になるか!」
「銀河大将軍はどこいった!」
「隠れてんじゃねえぞ! 銀河大将軍!」
狼奇が楽しそうに笑う。
「煽ってやれ、煽ってやれ」
「あれ、声、届いているのですか」
山を見上げて朱苛が眉を寄せる。
狼奇が笑った。
「お前、知らないのか。その昔、神様は人間があんまりに生意気なんで、人間の邪魔をするために言葉をばらばらにしちまったんだ。でも、罵倒語だけは、世界共通言語に残しておいてくれたのさ。国が違おうと、声が聞こえなかろうと、相手の罵る台詞だけはちゃあんと届くんだよ」
呆れたように朱苛は首を振った。
「与太話は結構です」
見上げると、山の中腹からこちらに向いて乱賊たちが怒鳴っていた。
声は風に流れて全く届かなかったが、確かになんとなく何を言っているのかを察することができた。
朱苛はもう一度首を振り、大きくため息をついた。
***
棄山に夜が訪れた。
煌々とした月が、黒い岩山を白く、神々しく照らしだす。
中腹より更に上、巨大な二枚の岩がお互いを支えあうように折り重なり、空間を作っている岩場に捕虜がいた。
斜め屋根のような大岩のために、一日中日陰となるその場所は、暗く湿っていた。
三人の男が足枷に重りを繋がれ、床に転がっていた。
王軍の士官である。
汗と泥、そして血に汚れ、兵士とは思えないほどに痩せていた。
一人だけ、三人から離れた奥に岩に穿たれた鎖に両手、両足を繋がれた男がいた。
武信公幹蒙だった。
遠目にも逞しく見えた体はずいぶんと細くなり、顔からも肉がそげ、ただ丸い目だけがぎょろりと目立った。
幹蒙が見張りに声をかけた。
「水だ、水をくれ」
乾いた弱い声が喉から漏れる。
声よりも息の方が大きいほどだった。
岩に座っていた見張りの男が、ぞんざいに吐き捨てる。
「うっせえな、寝てろ」
「もう丸一日水を飲んでいない。水をくれ、死んでしまう」
息も絶え絶えに幹蒙は要求した。
「俺だって昨日も今日もろくに水飲んでねえんだよ! なんでお前にやらきゃならないんだ!」
そのとき、下から弓を背負った乱賊がよじ登ってきた。
「あ? 交代か? もうそんな時間だっけ?」
「違う! 大将軍が狙われた! 金に目がくらんだ裏切り者がいる! 一人じゃねえぞ! 探してつるし上げろ!」
「なんだと!」
血相を変えた見張りが、下から登ってきたばかりの仲間と共に、山頂に続く鎖を手に取って、岩に足を掛けよじ登っていった。
山頂から、野太い男の叫び声が聞こえた。
うるさく音を立てていた登攀用の鎖が、やがて動かなくなる。
岩場に力なく寝ころんでいた捕虜の男たちが、むくりと起き上がる。
「おい、誰もいないぞ」
「本当か、よく見ろよ」
三人の男たちは、何度も何度も闇を見回して、乱賊たちがいないことを確かめると、突然、気が狂ったように手近な石で、足枷につながれている鎖を叩きだした。
「くそっ! くそっ!」
「うっ!」
暗闇の中、目を血走らせ、少しでも大きい石を、岩を探して、岩の床を腹ばいになり、手を伸ばした。
火花が散るほどに石で鎖を打ちまくる。
見張りがいつ帰ってくるかわからない。
逃げようとしていることが見つかれば、どんなひどい目にあわされるかもわからない。
時間との勝負だった。
石と鎖のぶつかる音と、荒い呼吸が闇に響く。
ある瞬間、ついに一人の鎖が切れた。
「やった!」
「俺の鎖を! 頼む!」
お互いに助け合い、三人の男は足枷に繋がれた重りから解放された。
「よし! 逃げよう!」
三人が立ち上がった時、奥からしわがれた声がした。
「待て、お前ら、俺を、王を置いていく気か!」
解放の喜びに武信公の存在をすっかり忘れていた捕虜たちは、顔を見合わせた。
「ど、どうする」
武信公に聞こえないように彼らは声を潜めた。
「武信公が逃げたことがわかれば、乱賊たちが絶対に追ってくる。俺たちだけなら見逃されるかもしれん」
三人は顔がつくほどに寄せ合う。
「しかしだな、俺たちが逃げおおせた後、武信公が解放されたら、必ず俺たちは処罰されるぞ」
「やばいな。多分、死刑だ」
「なあ、良く考えろ。武信公を助けて連れて帰ったとして、我々が公を助けるのをためらったとか、捕虜になってる間に生意気なことを言ったとかで、結局殺されるかもしれない」
「いや、いくらなんでもそれは」
「お前、武信公に処刑された奴のことを忘れたのか。奴はただ呂馬様の功績を認めてほしいと言っただけだったんだ。ただそれだけで死を賜ったのだぞ」
唾を呑む音が闇に響く。
武信公を置いていっても、連れて帰っても彼らには命の危険がある。
一人の男が、足元から岩を拾った。
「やろう」
荒い呼吸が、響く。
残りの二人もできる限り、尖った岩を探して手に取った。
岩を手に近づく三人の男たちを見て、幹蒙は目を見開いた。
「お前ら、何をする気だ!」
月は黒い影となった男たちの背にあり、顔は全く見えなかった。
「止めろ! 俺はお前たちの主だぞ!」
その言葉を言い切る直前に、石が口元に直撃する。
幹蒙は悲鳴も出せずに、血を吐いた。
三人の男たちは、無言で石を振り上げては、打ち下ろした。
ただ一心に打ち続けた。
幹蒙が確実に死ぬように。
ただ自分たちが生き残るために。




