60.襲撃
王都の北部にある聖宮は、ほのかな夜明けの光の中、神々しく輝いていた。
天にそびえる八つの尖塔が、壮麗な彫刻を施した大聖堂を守るように建っている。
最も涼しくなる早朝の五時、巨大な聖宮の門扉が開かれた。
待ちかねた王都の住民が、大礼拝室を目指して我先にと押し寄せる。
斎女の礼拝が始まるまでまだ一時間もあるが、少しでも前の席に座るために、多くの者が開門前から聖宮に詰めかけていた。
「おはようございます」
「どうぞお静かに」
大礼拝室に続く広い廊下で、神官たちが住民に声をかける。
石造りの荘厳な聖堂に、凛とした声が響くと、怖い教師に叱られたように、皆姿勢を正し、足音を立てないように、走らないように、気を配りながら前に進んだ。
人波に埋もれるようにして、赤毛の少女が歩いていた。
蘭々である。
聖宮の門扉の前で一晩を明かした。
夜が更けるにつけ、門前に集う人たちは増え、あちらこちらで雑魚寝する人たちのいびきが聴こえたが、蘭々は一睡もできなかった。
懐の中には、毒の塗られた短刀がある。
服の上から、蘭々はずっとそれを触っていた。
手を離すと、落としていないかと不安になってしようがないのだ。
大礼拝室では、最も祭壇に近い席から、次々と参列者で埋まっていた。
先に席を確保したものが、家族や友人を呼び寄せるので、人の数より席の埋まりが早い。
蘭々は前から十列目の席を取った。
「お嬢ちゃん、お隣いい?」
すぐに声をかけられ、左右は見知らぬ人たちに埋められた。
一つの横長の腰掛に、大体十五人が座ることが出来る。
周りの人たちは、連れ立ってやってきた仲間とおしゃべりをするのに夢中だった。
色硝子の入った高い天井窓から、薄暗い光が落ちる。
太い柱が林立し、広大な空間の屋根を支えている。
人々の話す声が、盛大に反響し、隣の声さえ聞こえない有様だった。
誰も見ていない暗い席で、蘭々は慎重に懐を探り、手袋を取り出した。
手が震えたが、何とか左右にはめることができた。
白い手袋が、暗闇にも目立つ。
蘭々は両手を握りしめて胸元に隠した。
六時近くになると、大礼拝室は満員になった。
「婆ちゃん、着いたで」
がっしりとした体格の男が、背中に背負った老婆に話しかけた。
「ほうか、ほうか。ありがたいことやなあ」
満席の大礼拝室を見渡し、男は楽しそうに話している女の集団に、申し訳なさそうに声をかけた。
「すんません、座るとこ、一つだけ婆ちゃんにゆずってもらえませんかね」
五十ほどの太った女が笑っていった。
「あらまあ、いいですよ、ほら、あたしはまだ若いから」
「何言ってんだい! あんたがあたしたちん中で一番年寄りだろうに!」
一緒に来ている五人の仲間が楽しそうに笑った。
「うるさいね。いいかい、あたしが席を席を譲るんだよ! ここで良いことしておけば、ご利益間違いなしさ! あんたたちが羨ましがっても遅いんだからね!」
「いやあ、助かります! ほら、婆ちゃん、終わったら迎えに来るけん」
男は老婆を席に座らせると、自分は壁際に退き、立って待つ人たちの群れにまじった。
六時ちょうどに鐘が鳴った。
大礼拝室にある小さな鐘だけではない。
八つの大塔の先端にある、巨大な鐘が一斉に打ち鳴らされるのだ。
王都に朝を告げる重い鐘声が、しばらくの間空気を震わせ、長い残響を残して消えた。
誰一人話す者はいない。
夏とは思えないひんやりとした空気に、誰かが身を震わせる。
大礼拝室の最奥、聖壇の更に奥にある扉が、音もなく開くと、少女が現れた。
息を呑む音が、大礼拝室に響いた。
短い銀の髪を揺らし、全身を白い神服に包んだ斎女が、ゆっくりと聖壇に進んだ。
美しく穏やかな顔に、感情は見えない。
誰もが目を凝らして、必死に壇上を見つめた。
斎女は大礼拝室に集まった人たちに背を向け、祭壇に向かい、膝をついた。
塵が落ちる音さえも聞こえるような静寂の中、鈴を鳴らしたような声が、聖句を読み上げ、祈祷が始まる。
歌うように高く低く響くその声に合わせ、集まった人たちも、自分が覚えている個所を一緒に朗詠する。
広大な大礼拝室に、老若男女の様々な音程の声が響いた。
一心に聖句を唱える者、目を閉じ自らの願いを、祈りを口の中でつぶやく者、それぞれが時間を経つのも忘れ、祈りに没頭した。
蘭々は心臓の高鳴りを押さえることができない。
周りを見回すと、皆、頭をたれ、祈りを捧げている。
彼女だけが取り残されたような思いで、斎女の背を見つめていた。
斎女が祈祷を終えて立ち上げば、自分も立つ。
立ち上がって声をかける。
できる限り斎女に近づく。
話しかけて、手を伸ばす。
斎女が手を取ろうとしたら、その手の甲を切りつける。
蘭々は何度も、何度も、その手順を頭の中で繰り返した。
荒くなる息を押さえようと必死に深呼吸する。
手袋があって良かった。
手は気持ちの悪い汗でびっしょりと冷たくなっていた。
手袋がなかったら汗で滑って、短剣など持てなかっただろう。
蘭々にとっては、長い、長すぎる祈祷がようやく終わった。
斎女は立ち上がると、大礼拝室を見渡し、微かに微笑むと背を向けて去ろうとした。
今だ、今だ、と叫ぶ心に押され、蘭々は立ち上がる。
「斎女様!」
無様なまでに震える声が、斎女を呼んだ。
斎女が振り返って緑の目を見開く。
蘭々に気が付いたのだ。
常にない様子に、周りの神官たちが驚いていた。
斎女は祭壇の階段を降り、蘭々に向かって近づいてきた。
突然のことに、神官が慌てふためく。
「宮! いけません!」
神官の制止を無視し、斎女は中央の廊下を歩いた。
間近に斎女がやってきたことに、集まった人たちが歓声を上げた。
「どいてください」
蘭々は隣に座る人たちを押しのけ、中央の通路に出た。
足早に斎女が、晶瑛が、近づいてくる。
「蘭々」
嬉しそうな晶瑛の顔。
蘭々に手を伸ばそうとする、その白い手。
すぐにやらないと。
晶瑛の言葉を聞いてはいけない。
できなくなってしまう。
その焦りが、蘭々を動かした。
手早く懐から短刀を取り出し、鞘を外す。
目の前まできた晶瑛が大きく息を呑む。
晶瑛の後ろに続いていた神官たちの形相が変わる。
そのとき、後ろから悲鳴が聞こえた。
「蘭々! 何しよるんで!」
「お婆ちゃん?」
短刀を手に持ったまま、蘭々の動きが止まる。
目の前には信じられないと目を見開く晶瑛の顔。
蘭々の動きが、完全に止まった。
斎女を守ろうとする神官の手が斎女の背にかかる寸前で、蘭々の背後から覆いかぶさるように男が体を密着させた。
上半身を抱え込まれた蘭々が、なんとか首を後ろに動かすと、彼女に毒の刀を与えた男がそこにいた。
蘭々の短刀を握った右手を、男の右手が上から握りしめると、斎女に向かって突き立てる。
「あっ」
瞬くほどのその瞬間、すべてがゆっくりと、克明に蘭々の目に映った。
自分ではない力で、前に突き出される短刀。
自分の左手が、その刃に伸び、力任せに刃を握りこみ、進む方角を変えた。
左のてのひらが、焼けるように熱くなり、白い手袋はあっという間に真っ赤に染まった。
蘭々の後ろにいた男は失敗を悟ると、蘭々を離し、素早く身を翻した。
斎女は神官たちに背から後ろに引き倒され、蘭々から離される。
蘭々は床に倒れ、口を、全身を震わせた。
息ができないのか、喉を押さえる。
「蘭々!」
「近づいてはいけません!」
斎女の悲鳴、神官の怒声に大礼拝室が蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
「医者は! 医者は!」
「行けません、皆さん、触らないで! 毒の可能性があります!」
神官の警告に、集まった人たちは驚いて体を引いた。
後から、後から駆け付ける神官たちが、人を追い出し、事態の収拾に走った。
晶瑛は、神官たちに押さえられ、蘭々に近づくこともできず、手を握ることもできず、ただ彼女の目が光を失うのを絶望とともに見つめていた。
***
朝の礼拝に集まっていた信徒をすべて帰し、大礼拝室の中には、聖宮の者だけが残っていた。
聖宮内で医療を司る者が、蘭々の死体を調べる。
「毒ですね、間違いありません」
「なぜ」
床に座り込んだ晶瑛が呆然と訊いた。
「先代も毒でお亡くなりになりました」
神官の一人が、静かにそう告げた。
晶瑛は驚いて周りを見回す。
全員がそれを知っているようだった。
「先代は老衰で亡くなったのではなかったのですか」
震える声で、晶瑛が問う。
「大神官に口止めをされていて、本当のことを申し上げられなかったのです。先代は、王の長男を王太子に指名することを拒みました。神玉が選んだ王ではないと。王はそれが許せなくて、先代を毒殺したのです」
晶瑛は首を振った。
「なぜそんな愚かなことを。斎女が代わったところで、神玉が選ぶ王が変わるはずもないものを」
神官たちは静かに答えた。
「王は神玉の不思議を信じていなかったのです。単なる迷信であると」
神官の一人が膝をついて、晶瑛に深く頭を下げた。
「宮、どうかもう朝の礼拝はおやめください。王家が、朝廷が何をしてくるかわかりません」
晶瑛は、両手を床について震えた。
「私を殺したところで、次の斎女の預言も変わらないのに」
蘭々の遺体に手を伸ばそうとして、神官に止められる。
「愚かなことを、なんて愚かなことを」
緑の目から、涙がこぼれた。




