53.新しい朝
朱苛は、自室の鏡の前に立っていた。
開け放した窓からは、賑やかに朝の挨拶を交わす小鳥たちの声が聞こえる。
鏡に映る自分は、常と変わらず、男用の武官の服を身に着けていた。
問題がないか何度も見直し、顔の表情も確認した。
昨日の祭りの気配が、髪一筋でも残っていないように。
大きくため息をついて、廊下に出る。
何も変わらない朝であるはずだった。
だが、廊下を踏む足が、少し浮いているような不思議な感覚がした。
***
「おっはようございまーす!」
深々と椅子に座って水を飲んでいた狼奇は、部屋に飛び込んできた甲高い少年の声に額を押さえた。
「うるせえぞ、弧張 。お前、なんで朝からそんな元気なんだ」
狼奇のあからさまに不機嫌な顔と声は、まったく少年の目に入っていなかった。
弧張は部屋の中を飛び跳ねるように、足早に歩き回る。
「えっ? 聞きたい? 聞きたい? どうしよっかな!」
「なんなんだよ、一体」
うんざりした様子の狼奇に、弧張は椅子の後ろから覆いかぶさった。
「あのね、昨日、お祭りでね、芽衣ちゃんに髪飾りをあげてね、こうね、好きだってね告白したんだ。そしたら芽衣ちゃんも俺が好きだって!」
「芽衣ちゃん」
後ろの弧張を振り返って、狼奇が訊く。
「そう! 角の商店の女の子で、栗色のくるんくるんの巻き毛で、笑ったら左頬にえくぼが出来て、滅茶苦茶可愛いんだよ!」
「そうか、そうか、良かったな」
狼奇は笑って、満面の笑みを見せる弧張の頭を、拳で軽く叩いた。
「もうね、今朝ね、顔を洗う水がきらきらに光っていて、水ってこんなに綺麗だったのかなって!」
「頭、大丈夫か、おい」
狼奇は苦笑して部屋の中を踊るように回る少年を見る。
「いいなあ、なあ、弧張。会わせろよ、その芽衣ちゃんに」
「えっ、やだよ! 絶対やだ!」
「なんでだよ」
ふと気づくと、開け放された扉の外に、朱苛が立ち尽くしていた。
「よう、朱苛。おはよう、行くか」
「……おはようございます」
地を這う低い声に、狼奇は不思議そうに妹を見た。
***
朝議のために、馬に乗って太守公邸から出発した狼奇と朱苛は、いつもの道を通って貞固館に行くことを早々に諦めた。
昨日の七夕祭りの残骸が、道という道に放置されていた。
臨時のお立ち台や、舞台の骨組み、お面や仮装の衣装が所構わず放置されている。
道の片隅で寝入っている者までいる始末だった。
天気も良く、爽やかな七月の朝のはずだが、あちらこちらから食べ物の腐った匂いと、酒の香りが漂う。
「いやあ、酒臭いなあ」
「兄様の口もかなり臭いますよ」
「本当かよ。今日は無言で通すか」
「駄目でしょう」
渋い顔で首を振る妹を横目で見て、狼奇は笑った。
ついでに大きくあくびをする。
そのとき、近くから若い女の声が上がった。
「あらあ、いつぞやの将軍様じゃあございませんか!」
狼奇は慌てて口を閉じて声の方向に向き直る。
いつの間にか、貞固館の勝手口の前まで来ていた。
大きな籠を背負った若い女が、馬上の狼奇に笑いかけていた。
「ああ、何だ、前に調理場の李負と喧嘩してた奴か」
「そうでございますよ! あのときは、このひっどい暴力女から助けていただいて、ほんとにありがとうございます!」
「何が暴力女だい! ふざけんじゃないよ!」
勝手口の前で、前掛けをした李負が両手を腰に当て、仁王立ちで怒鳴った。
「よお、昨夜も遅くまで太守府で働いてたのに、朝から仕事か?」
狼奇は、李負に笑いかけた。
「うるさいよ! 売りにくる奴が朝しか来ないんだから、朝から働くしかないじゃないか」
「何を思ったのか、今朝に限ってこの女もようやくあたしから魚を買うといいだして。こっちが驚いちまいましたよ」
「うるさいね! 余計なこと言うんじゃないよ!」
「 疸水の魚を」
狼奇は、李負をまじまじと見た。
李負はいかにも嫌そうな顔をして叫ぶ。
「いいかい! 貞固館で出す料理に使うだけだ! あたしは絶対食べないからね!」
狼奇は笑った。
楽しそうに声を上げて笑った。
「わかってるよ、わかってる!」
笑いをおさめて女を見る。
「ありがとう」
「ふん!」
女たちに手を振って、狼奇は馬を進めた。
朱苛が呆れたように兄を見る。
「相変らず、というか。兄様はどこの街に行っても知り合いができるのですね」
「お上品な連中と嫌味な話するより、街の連中と話すほうが楽しいからな」
顔に笑みを浮かべたまま狼奇は答えた。
「いい朝だ」
狼奇は空を見上げる。
強い夏の日差しが、今日も暑くなるであろうことを告げていた。
「いいね、どんなときでも、新しい朝が来る」
貞固館の正門に着いた狼奇は、身軽に鞍から飛び降りた。
***
その一週間後、江邑から討伐軍が出発した。
采侯領に逃げ込んだ魁傑を頭目とする乱賊たちを討ち、捕虜とされた武信公幹蒙を救出することが使命である。
総兵力は烈侯軍四万、王軍三万、采侯軍二万。
総大将は臨烈侯、征乾将軍の狼奇である。
采侯領での戦いであるからには、臨采侯皓之を総大将に推す声もあったが、兵力の差から狼奇が総大将となった。
臨王である文成公伯洛は、江邑で吉報を待つ。




