04.名を持たない少女 (2)
目の前が、真っ白な綿毛で覆いつくされた。
伯洛は両手で画板を振って、目や耳に入り込もうとする綿毛を追い払った。
白楊の並木から、大量の種が飛んでいた。
雪のように綿毛を持つ種子が、風に舞い上がり、ゆっくりと墓地に白く降り積もる。
いつものように警備の兵の目を盗み、王宮の隣にある墓地に潜り込んだ。
誰もいない墓地で大聖堂の絵を描こうとした伯洛は、小さな歌声を耳にして驚いた。
聖宮の禁域であるこの墓地に誰かがいる。
なぜ入れたのか。
無数に飛ぶ白い綿毛のためにか、相手は伯洛がいることに気が付いていなかった。
十歳ほどに見える小さな少女が歌っていた。
苔むした黒い墓石に座り、宙を足で蹴りながら歌っていた。
くせのない長い銀髪が、さらさらと風に流され、真っ白な服の裾が揺れる。
どこか切ない旋律は、異国のものだろうか。
綿毛の合間から見える少女の顔は、熟練の職人が作った陶磁器の人形のように美しくなめらかだった。
伯洛はその場から動けなかった。
まるでこの世の光景とは思えなかった。
目に入りそうな綿毛を払おうとして、手を振った少女の目が伯洛を見つけた。
大きな緑の目が伯洛を見た。
「誰ぞ」
鈴を鋭く振ったような澄んだ声が伯洛を刺した。
できる限り柔らかい笑みをつくり、伯洛はゆっくりと近づいた。
「失礼、驚かせました。私は伯洛といいます」
少女の表情が消えた。
彼女は身軽に墓石から飛び降り、まっすぐに伯洛に向き合った。
「文成公でいらっしゃるか。我は斎女と呼ばれしもの」
「巫宮でいらっしゃいましたか。初めてお目にかかります。国王の三男、伯洛です。私は暇を見つけては絵を描くのを習いとしております。ここから大聖堂の絵を描きたいと思い、聖宮の禁域とは知りながら、ついついお邪魔をしてしまいました」
そのとき、伯洛は文成公となって二ヶ月ほどだった。
そして、数ヶ月前に聖宮に入った斎女はまだ潔斎中で、神官以外に会うことはなかった。
お互いに公式の場で、顔を合わせたことはなかったのだ。
「聖宮の禁域に無断に入りましたこと、お詫び申し上げます。また今後は慎みますので、無礼をお許し下さい」
丁寧に会釈をし、背を向けた伯洛に声がかかった。
「公、絵をお描きになるのであれば、お好きなときに来られるとよい」
伯洛は、聖宮の主から墓地に入る許可を得た。
***
その後、伯洛が墓地で絵を描いていると、斎女が姿を見せるようになった。
一言、二言、挨拶を交わす他は、ただ黙って墓石に座って過ごした。
興味深そうに隣の墓石に座って画紙を見る少女に、ある日、ついに伯洛は訊いた。
「なぜ私がここにいることがお分かりになるのです」
気まぐれに訪れているのに、その度に斎女が来る。不思議なことだった。
「塔から見つれば」
少女が首を傾けると、さらりと銀の髪が流れる。
その細い指先が差す北坎塔の尖塔を見上げ、伯洛はやや呆れながら訊いた。
「あの上まで登っているのですか?」
体が弱い伯洛にとって、三十米はあろうかという塔に登ることは想像もつかない難事だった。
「さなり。聖堂にあれより高き所はなし。北を望めば我が里の空こそ見えん。母の教えし歌を歌えどそれを聴き咎む者とてなし」
涼やかな声に感情は乏しく、かえって伯洛の胸が痛んだ。
斎女は同時期に一人のみ。病か老衰かで当代が失われれば、卜占という歴史ある占いを頼りに神官たちが次代を探す。斎女は輪廻をめぐり赤子に生まれ変わると言われる。それを神官たちが見つけあて、聖宮に迎え入れるのだ。一度斎女として認められれば、直ちに家族から引き離され、聖宮から一歩も出ることなく生涯を送ることになる。
二度と故郷に帰れない少女にかける言葉が浮かばなかった。
ふと、懐に手を当てる。
「よろしければ、いかがですか」
紙に包んだ砂糖菓子を、斎女に差し出した。
長く絵を描くときは、空腹を紛らわすために菓子を持ち歩いていた。
「こは何ぞ」
紙の上に並ぶ色とりどりの小さな花や鳥をみて、斎女は緑の目を見開いた。
「砂糖菓子です。色がついていても味はすべて同じです」
細い指が恐る恐る一つの花をつまみ上げた。
伯洛の目をうかがう斎女に、彼は頷いて見せた。
小さく開けた口から、そっと菓子を舌にのせる。
「甘い」
斎女のあまりにも驚いた顔に、伯洛の方が驚いた。
もしかしなくても初めて砂糖菓子を口にしたのか。
次の瞬間、伯洛は息をのんだ。
「宮、その、申し訳ありません! 考えが足りませんでした。砂糖と米粉の他に何も入っていないとは思いますが、潔斎に差しさわりはございませんか」
青ざめた伯洛の早口な言葉に、斎女は楽しそうに笑った。
「知る者なくば、ことともせず」
なんでもないようにそう言う斎女に、伯洛は大きくため息をついた。
聖宮の中の決まりはまったくわからないが、潔斎はそこまで厳しいものでもないようだ。
「宮、いつもそのような話し方をなさるのですか」
動揺してしまった自分をごまかすかのように、伯洛はどうでもよいことを訊いてしまった。
「北の言を口にせば、鄙のあまりにもの笑いとならん」
王都の言葉と地方の言葉は、大きく異なる。
王都の住人、特に貴族や官僚には、地方の言葉を馬鹿にする傾向があった。
北方の田舎にいたいう斎女は、王都の聖宮で嫌な目にあったのだろう。
王都に生まれ育った伯洛は、いたたまれない気持ちになった。
「何も知らぬ十二に過ぎぬ童女であれば、いかに斎女と奉られようと、令を下すに威が足りぬ」
伯洛を見つめる少女に表情はなかった。
大体において斎女は無表情だった。
ただ、このとき彼女はわずかに片方の口角をあげた。
「格別な言を使えば、格別な者に見えん。ゆえに神官が我にこの言を教え為す」
伯洛は何を言うべきなのかがわからず、ただ痛ましく思い斎女を見つめた。
「幻ぞ、愚かなる」
斎女は笑みを浮かべた。
ついさきほど砂糖菓子を口にしたときの笑みとは別人のような、いっそ禍々しい微笑みだった。
「宮、私は笑いません。貴女の故郷の言葉で話をしませんか」
緑の目を大きく見張り、斎女は伯洛を見た。
珍しく戸惑った風情だった。
やがて彼女は首を振った。
「一人では為せぬ。同じ言の者あればこそ」
「そうなのですね」
伯洛は頷いた。
確かに、北の方言で話されても伯洛には理解できない可能性が高い。
「では、歌はいかがです。宮はあの尖塔の上でお一人で歌われているのでしょう」
眉を寄せ、彼女は訊いた。
「ここで歌えと」
伯洛は笑った。
「ええ、お聴かせください。よろしければ」
難しそうに考え込む少女に、伯洛は言った。
「初めてお会いした折に、少しだけ聴きました。不思議に懐かしい歌だと。もう一度聴かせてください」
しばらく無言で伯洛を見つめた斎女は、やがて空を仰ぎ、口を開いた。
高く透き通る歌声は、鈴の音を思わせた。
耳慣れない旋律に、聞き取れない歌詞。
不思議な、しかしとても美しい歌だった。
途中で、少女は歌を止めた。
伯洛は彼女を見る。
二人は微かに笑みを交わし、また少女は歌い始めた。
***
ある日、伯洛は斎女に絵を見せてほしいと頼まれた。
大聖堂ではない彼が描いた絵が見たいと言った。
伯洛が墓地に持ち込んだ絵を墓石に置き、一枚一枚めくりながら、斎女は訊いた。
「鳥、草木、建物ばかり。人はいずこに」
いつも訊かれることなので、伯洛は慣れた言い訳を口にした。
「私は人を描けないのです」
斎女は小さく笑った。
「然もありなん。公は人をお描きになれぬ」
そのようなことを言われたのは初めてだった。
「なぜそのようにお思いになるのです」
「この鳥を見遣れ。公がいかにこれを哀れに思し召しか、などか見知らざる」
斎女の指が差す渡渡鳥に、伯洛は絶句した。
ちらりと伯洛を見ると、斎女は脇に置かれた砂糖菓子を一つつまんだ。
あれ以来、伯洛は必ず菓子を持ってくるようになっていた。
少女は紙をめくった。
「あるいはこの大聖堂。まことに清らげなること限りなし。我の知る聖堂にやあらず」
皮肉な笑みを浮かべて、斎女は伯洛を見た。
「公が人を描かれば、その者をいかにお思いか、立ちどころに広く知れよう」
誰にも教えたことがない理由を、造作もなく言い当てられた。
初めて伯洛は、彼女が選ばれた斎女であることを実感した。
伯洛は大きく息を吐いた。
そして、十二の少年に似つかわしくない苦い笑みを浮かべる。
「宮はまさしく天に選ばれた斎女でいらっしゃる。私はなぜ王の子に産まれたのでしょう。体も弱く、政にも向かない。人より勝るところと言えば、絵を描くことぐらいしかないのですが」
しかも彼女は百九十年ぶりに認められた大斎女であるという。
天が与え、周りにそれを認めさせる力が彼女には備わっている。
「公は、王の子に生まれしことがご不満か。親を選びたりける子供はあらね」
思いがけず冷たい言葉に、伯洛の背筋が冷えた。
「……いえ、いえ、そうではありません」
伯洛の失言だった。誰しも生まれる場所を選ぶことはできない。
しかも、斎女はつい一年前に親と故郷に永遠の別れを告げたのだ。
王の子供がこの国で最も恵まれた立場にあるということは、伯洛にもわかっていた。
「そういえば、宮、お名前はなんとおっしゃるのです。ご両親が名付けた御名がおありでしょう」
「公、それを訊かれてなんとされる。とうに我が名は失せにけり」
それが伯洛が覚えている最後の会話だった。
しばらくして斎女の潔斎が終わり、大聖堂での披露目があった。
その後、聖宮の墓地に斎女の訪れはなくなった。
***
二年前に少女が残した足跡を指でなぞり、伯洛はこれからどうなるのかと考えた。
斎女の預言、あれは本当なのだろうか。
斎女の許しなく、長兄は王太子として動き出した。
父王は長兄を連れて、西方にある王家の陵墓に向かっていた。
陵で先祖に立太子を報告する儀式は、本来、斎女による塗油の後でなければできないはずだった。
手にしていた木炭を知らず握りしめると、軽い音とともに二つに割れた。
ため息と共に地面に捨てる。
伯洛が立ち上がると、塀の向こう、王宮から叫び声が聞こえた。
「公! 伯洛様! いずこにおいでですか!」
その切迫した呼び声は、一人のものではなかった。
十人を超える者が彼を探している。
何があったのか。今までこのようなことは一度もなかった。
腰を掛けていた墓石から、勢いよく立ち上がる。
その途端に、伯洛の頭から血の気が引いた。
唇をかみしめ、貧弱な体を襲った眩暈を振り払い、彼は走って墓地を出た。