48.母と娘
江邑の中心部にある太守公邸の廊下を、朱苛は足早に歩いていた。
歩むにつれて、一つにまとめた長い黒髪が揺れる。
七夕の祭りを控えた江邑では、朝から晩までひっきりなしに楽の音が聴こえた。
仕事もそこそこに、住人たちは踊りに楽にと祭りの練習に励んでいた。
奥まった部屋の扉を叩き、応えの声を確認して中に入る。
「母様、お呼びですか」
朱苛の声に、窓際で寝椅子に座り、扇で風を顔に送っていた四十がらみの夫人が振り返った。
烈侯夫人、朱苛の母、麗宜である。
美しく整えた眉をひそめ、麗宜は娘にとがった声を投げた。
やや肉付きのよい体を優美な衣装に包み、ゆったりと腰を掛けた風情は、いかにも大貴族の夫人だった。
「呼ばれずとも顔を見せるべきでしょう。前に来たのはいつですか」
父親似の朱苛は、あまり母に似ているところがない。
男物の軍装が身についている女将軍は、無表情に頭を下げた。
「申し訳ございません。出陣の準備がありまして」
「またですか! つい先日帰ってきたばかりではありませんか」
麗宜は高い声を上げた。
「武信公を乱賊よりお助けし、王都を解放しなくてはいけません」
「朱苛、貴女が行かなくてはいけないものなのですか。烈侯軍には狼奇がいて、采侯軍には皓之が、王軍には呂馬までいるのでしょう。乱賊相手に勢ぞろいで行く必要があるのですか」
扇を音高く閉じ、手に打ち付けて麗宜が立ち上がった。
娘にゆっくりと近づく。
朱苛はまっすぐに前を向いたまま答えた。
「乱賊は、臨采侯が何年も鎮圧するのに苦労をしている凶賊です。武信公をお救いするためにも、万全を期す必要があります」
「そうですか。それはわかりました。しかし、朱苛、あなたはもうそう度々戦場に出るべきではありません」
母の言葉に、朱苛はぴくりと片方の眉を動かしたが、何も言わなかった。
「貴方は二十一になったのです。烈侯家は狼奇が継ぐと決まったのですから、一刻も早く軍服を脱いで、嫁ぐ用意をしなくては」
十分に予想していた内容なのに、その言葉は朱苛の胸に重く落ちた。
「私が軍を退く時期は、兄様が決めるでしょう。今はまだ非常事態ですから」
そう言って朱苛は、話題を変えた。
「ところで、母様、この戦乱が終わった後のことですが、父様の遺骨を烈侯領内の墓所にお移しするときに、冠城に葬られている兄様のご母堂の遺骨も合わせてお移ししようかと」
娘の言葉に、麗宜は激高した。
足早に近づき、朱苛を見上げ大声で叫んだ。
「なんですって! 朱苛! 貴方は何を言っているのですか! あの女を、どこの馬の骨とも知れない女を烈侯家の墓所に入れるというのですか!」
母の怒りに朱苛は、胸の内でため息をついた。
宥めるようにゆっくりと声を落として話す。
「兄様のご母堂は、烈侯の母となる方です。粗略にはできません」
「貴方は私が父様に裏切られたときの口惜しさをわかっていないのですか!」
麗宜は扇で娘の肩を叩いた。
形よく塗られた赤い口紅が、叫ぶ口元を禍々しく歪ませる。
「母様、もう昔のことです。十一年も前に亡くなった方です」
「何を馬鹿な! 私はあの時のことを今でもまざまざと思い出せます!」
高い母の声が、頭に響く。
朱苛は苛立ちを顔に出さないようにするだけで精一杯だった。
「その、母様、どれほどお怒りなのかは私も存じております。しかし、兄様はこれから烈侯として重い責任を背負ってゆかれるのです。少しでもお心が安らぐようにして差し上げねば」
「いいえ、朱苛、貴女は何もわかっていないのです! 重い責任? 烈侯を継ぐのであれば、戦をするのも、朝廷に出るのも当然のことでしょう!」
母の剣幕に朱苛もあおられ、声が高くなる。
「母様! 侯家を守るのが、軍を統率するのが、どれだけ大変なことなのか、お分かりですか。ただ一軍を率いるだけでも、数えきれない準備、知識、経験、人を使う気配り、人の上に立つ度量が必要なのです!」
娘の大声に負けず、麗宜は即時に言い返した。
「それが侯爵の役割でしょう! 侯家の子供なら誰もが当然にやる仕事です!」
朱苛の頭に血が上る。
戦場で、兵を率い、戦う。
朝廷での陰湿な議論に隙なく対応する。
それがどれだけ大変なことが、この人は全くわかってもいないくせに、自分がやったこともないくせに、なぜ大したことがないように断言するのか。
「全く貴女は! 侯家の娘としての自覚がないのですか。采侯家の娘は、媚白は、美しく配慮の行き届いた立ち居振る舞いで素晴らしい令嬢だと、江邑で皆が口をそろえて誉めそやしているのですよ! いつまで経っても男の格好をして! 同じ侯家の娘として恥ずかしくはないのですか!」
朱苛の脳裏に、先日見た媚白が浮かんだ。
波打つ豊かな金髪、透き通る碧い瞳、白い顔。
この世のものとは思えない、美しい娘。
「私は、将軍です。戦いに行くのが仕事です」
喉の奥から、絞り出すように朱苛はそう答えた。
「朱苛、いいですか!」
母の声を遮り、朱苛は続けた。
「母様、兄様が来る前は、私は烈侯家のただ一人の子供でした。母様はもうお子が望めない。だから、私は母様のために、父様のために、烈侯家の立派な跡継ぎとなるために、武芸に励みました。男にも負けずに功績をあげ、将軍号を王から拝領いたしました」
娘の絞り出すような暗い声に、やや鼻白み、麗宜は一つため息をついた。
「ええ、ええ、わかっていますとも。子供が親のために一生懸命に勉学、武芸に励んでくれることほど、親にとって嬉しいことはありません。子供のときであれば良いでしょう。しかし今、貴女は大人の女なのです」
声を落として麗宜は続けた。
「貴女が将軍である。それは十分にわかっています。しかし、貴女は烈侯家を滅ぼす気ですか」
朱苛が伏せていた顔を上げて母を見る。
麗宜は厳しく娘を見つめた。
「女が子供を産まないで誰が産むのです。他家に嫁いで烈侯家の血を残し、政治に不可欠な姻戚を作るのは女にしかできない役割です。そして良い縁を得るには、良い女に見えなくてはいけないのです。そんなこと、言われなくてもわかっているでしょう」
朱苛は、唇を噛んで母を見た。
一言さえも言い返せなかった。
どうやって母の部屋から退出したのかもわからないまま、朱苛は二階の自室に戻った。
顔色の悪い主人を気遣う侍女たちをさがらせ、一人、露台に出た。
暦はすでに七月。
祭りを控えて、楽し気な楽の音が、近く、遠くに響いていた。
楽しそうな笑い声が通りから聞こえてくる。
露台の柵を両手でつかみ、朱苛は空を見上げた。
夏の日暮れは遅い。
まだまだ明るい東の空に、薄く赤い星が輝いていた。
いつかは来るとわかっていた。
ただその時が今だとは思ってはいなかった。
空を見上げる日に焼けた頬に、涙が落ちた。




