47.母と息子
会議の後、自室で横になっていた伯洛に、侍女が母の訪れを知らせた。
伯洛は寝椅子から起き上がり、立ち上がって王后昭蝉を迎えた。
「お母様、どうかなさいましたか」
優しく笑う息子に、昭蝉は足早に近づいて、手を取って寝椅子に座らせた。
そうして、自身も隣に腰を下ろす。
「ああ、伯洛、お顔の色がまだ悪いですね。無理をなさってはいけません。会議でお疲れなのでしょう」
「会議と言っても私はただ座っていただけです。大丈夫ですよ」
昭蝉は美しい顔を寂しそうに歪ませ、ゆっくりと首を振った。
「貴方は小さなころからお体が弱かったのです。朝廷のことがお好きでもないのにこのようなことになってしまって、お辛いでしょう。お兄様が、幹蒙が早くご無事に帰ってくださればよいのですが」
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですよ。何ができるというわけではありませんが、お兄様がお帰りになるまでは、出来る限りのことはいたします」
伯洛は柔らかく母の手から自分の手を抜き取った。苦い笑みを浮かべる。
「王宮にいたころ、画室にこもらずにもっと朝廷に出ていれば良かったのに、とは思います」
昭蝉も悲しげな笑みを浮かべた。
「ほんの三、四カ月前のことが、一年も二年も前のことのように思います。王宮にいたときは、お父様がいて、お兄様が二人いらしたのですから、貴方が表に出る必要はなかったのです。お好きに過ごしていただければそれでよいと、お父様も思っていらしたのです」
伯洛は頷いた。
そう、少し前までは、彼はただ王宮の片隅で趣味の絵を描いて暮らす、権力とは無縁の三男坊だったのだ。
誰も彼が玉座に座るなどと想像だにしていなかった。
「お兄様たちは、十歳のころからお父様に連れられて戦場に出ていらっしゃいましたね。私には、一度もお声がけがなかったのですが」
ふと不思議に思って伯洛は言った。
「それは貴方、私がお父様にお願いしていたのです。伯洛を戦場などに連れて行ったら、体にどのような負担があるか、とても恐ろしくて。今回、戦場から帰られた貴方がこんなにも高熱で苦しまれているのを見て、私は自分が倒れてしまうのではないかと思いましたよ」
母の言葉に、伯洛は目を見張った。
それでは、母が止めていなかったら、父は自分を戦場に連れて行っていたのか。
「伯洛、良く眠れていますか。ここは王宮とは違って、壁も床も薄くて、夜は風や木立の音がうるさいでしょう。お部屋は問題ありませんか、隙間風は吹きませんか。寝台が固すぎるのではありませんか」
息子を労わる昭蝉に、伯洛は優しく、優しく微笑んで見せた。
「大丈夫ですよ、お母様」
心から息子を案じる母の目に、伯洛は心の声を深く封じる。
――戦の陣地、天幕に比べれば夢のように心地よい寝室です。天幕はほとんど外と変わらないのです。風がひっきりなしに天幕を叩き、葉擦れの音がうるさいほどに聞こえ、人が歩く音、話す声が絶え間なく一晩続くのです。
「いつでもお母様は、私の体調を気にしてくださいますね」
――大事にされ、守られて、こんなにも弱い男に育ってしまいました。
「当たり前ではありませんか。母親なのですから。私がもっと強いお体に産んであげられたなら良かったのに」
――もし、貴方がかばっていなければ、もっと早くに戦場に出ていたかも知れないのに。
――こんな年になって、初めて戦場に出て、大勢の前で恥をさらすこともなかったかもしれないのに!
目の前の母だけではなく、亡父にも伯洛はなぜなのかと、問いただしたかった。
――なぜお父様は、お母様の願いに任せて、私を放っておいたのですか。父親として無責任でしょう! 三男などどうでもよいと思っていたのですか!
怒りが、抑えきれない怒りが伯洛の手を震わせる。
「伯洛? 寒いのですか?」
母の声に、伯洛は大きく息を吐いた。
目を閉じ、何度も呼吸をして、息を整える。
そして、顔を上げると、ゆっくりと微笑んだ。
「十歳のころでしたか。私がひどい咳で苦しんでいるとき、お母様は一晩そばにいてくださいましたね。ただ息を吸うのも苦しくて、喉が裂けるかと思うほどに咳が止まらず、死ぬような苦しみでした。お母様は私の背をずっとなでてくださいましたね」
「ええ、ええ、聞くだけでも苦しい咳でした。私が代わってあげることが出来ればと、どれほど願ったことでしょう」
伯洛は笑った。
「もう、咳は出ません、大丈夫ですよ」
そして静かに立ち上がる。
「お母様、私はこれからしばらく忙しくなります。残念ですが、お会いすることは難しくなるでしょう」
昭蝉は大きな目を見張って息子を見上げた。
「まあ、そんなにお仕事があるのですか。貴方はまだお若いのですから、宋義に任せることはできないのですか」
伯洛は小さく微笑む。
「そうですね、宋義に任せるものは任せますが、私も一応臨王ですからね。為すべきことはいたします。勉強しなくてはいけないことが山とあるのですよ」
つらそうな母の顔に、伯洛の胸が痛む。
だが、伯洛は笑みを崩さなかった。
伯洛は自分の弱さを、幾重にも思い知っていた。
完全に打ちのめされていた。
体が弱いだけではない。
たった一度、玉座に座っただけで、気にくわない人間を追放したくなるほど、心が弱いのだ。
これほど愛情を注いで育ててくれた母を恨みたくなるほどに、子供なのだ。
「伯洛、くれぐれも無理をなさらないでください」
「お母様も王宮から離れて、ご不便も多いことでしょう。これから江邑はもっと暑くなります。お体には十分に気を付けてください」
昭蝉は悲しそうに息子を見上げ、首を振った。
伯洛は微笑んだまま彼女の手を取って、立ち上がらせると、そのまま扉へと送った。
母を送り出し、扉を閉めた伯洛は、そのまま扉にもたれかかったまま動かなかった。
唇を噛み、天上を見上げ、眉を寄せる。
もし、自分が十分に強ければ、強い心を持っていれば、母を悲しませずに済んだのに。
天井を睨みつける目から、涙がこぼれる。
伯洛は静かに目を閉じた。
脳裏にあの光景がよみがえる。
宵闇に光る星、斎女の高く澄んだ声。
城壁に立つ彼女は、凛として強く美しかった。
ただ一人、聖宮を、王都を背負って立つ十四の少女を伯洛は想った。
そして、戦場の将と兵士たち。
体はこの上なく痛めつけられてしまったが、伯洛は戦場に行って良かったと思っていた。
兄、幹蒙に感謝をするべきだった。
どれほどの醜態をさらしたのだとしても、何も知らないよりはよほど良い。
母が近くにいれば、必ず自分はより楽な方に流れるだろう。
母が休めと言えば、休んでしまうかもしれない。
伯洛は自分の心の弱さを十分すぎるほどに知っている。
だから、伯洛はもう母には会えない。
兄が彼を戦場に連れて行ったように。
少しでも、強くなるために。




