45.帰還
南都江邑で、王后昭蝉は、毎日胸が潰れる思いで祈りを捧げていた。
どうか、伯洛が無事でありますように、と。
次男である幹蒙は、昔から良く戦場に行っていた。
だが、三男である伯洛は、戦いになど行ったこともないのだ。
幼いころから病弱だった心優しい息子が、恐ろしい戦いの場でどのような目にあっているかと思うと、昭蝉の目に自然と涙が浮かんだ。
慰めは、長男の婚約者だった媚白が、彼女を励ますために日々訪れてくれることだけだった。
その日も昭蝉が貞固館の祭壇に祈りを捧げていると、女官が慌ただしく走りこんできた。
「文成公がお帰りです!」
「まあ!」
軍が戻るという知らせはなかったので、昭蝉は驚いた。
ただ喜びに震え、服の裾を両手でからげ、もつれる足で迎えに走った。
貞固館の門に、五、六騎の騎馬の武人がいた。
そのうちの赤みを帯びた鹿毛の馬に、顔を見知っている知っている烈侯の娘、朱苛が乗っていた。鞍の前にはぐったりとした少年が乗っている。
「伯洛!」
高く叫んだ昭蝉が駆け寄った。
「伯洛! 大丈夫ですか! 朱苛、何があったのです!」
動転のあまり声がうわずる昭蝉に、朱苛が低く答えた。
「お怪我はありませんが、熱があります」
朱苛は身軽に鞍から飛び降りると、表情を消して昭蝉に告げた。
「武信公が敵に捕らわれました。王軍は老将軍が取りまとめて帰還されます。少し時間がかかるとのことでしたので、先に私が文成公をお運びしました」
「幹蒙が!」
叫んだ昭蝉は、両手で口を覆った。
ふらつく体を後ろから女官が支える。
軍装は白く土埃にまみれ、汗を吸って重くなっている。
朱苛は、額の汗を片手の甲で拭うと、鞍の上に声をかけた。
「文成公、着きました。降りられますか。私の肩を踏んでこちらに」
朱苛の鞍なので、伯洛は鐙に足がつかない。
肩を差し出し、両手を組んで足の踏み場を作った。
ぐったりと馬のたてがみに身を伏せていた伯洛は、かすかに首を振った。
口が動くが声がきこえない。
「公?」
眉をひそめて朱苛が伯洛を見上げたとき、後ろから涼やかな声があがった。
「まあ、女性が殿方にそのようになさるべきではありません。誰か、おりませんか」
朱苛が振り返ると、そこには美しく装った二十歳ほどの娘がいた。
背に波打つ豊かな金髪、大きな碧い瞳、なによりも人形のように美しく整った顔に、朱苛は息をのんだ。
「ああ、媚白」
昭蝉の呼びかけに、朱苛は彼女が皓之の姉であることを悟った。
初めて見る美貌で高名な采侯の令嬢の姿に、朱苛は呆然となり、身動きもできなかった。
媚白に呼ばれて、門前を守っていた兵士たちが集まり、伯洛を鞍から下ろした。
伯洛も特に抵抗なく彼らに身をまかせている。
昭蝉が伯洛に顔を寄せ、名を呼びかける。
伯洛は小さく頷いたようだった。
そのとき、門から怒鳴り声が聞こえた。
「征乾将軍だ! 通るぞ!」
蹄の音も高く、十騎ほどの馬が駆けこむ。
狼奇が馬から飛び降りた。
「ああ、征乾将軍!」
昭蝉が悲鳴じみた声を上げる。
「幹蒙は、幹蒙は無事なのですか」
狼奇は片手で後頭部をかいた。
「乱賊は捕らえたと言っています。おそばにいた者たちの話でも、命に別状はなかろうかと」
安堵した昭蝉が、伯洛を運ぶ兵士たちと共に館の中に向かった。
それを見送り、狼奇は全く動かない妹に声をかけた。
「おい、朱苛、どうした?」
それでも朱苛は身動きもしない。
兵士が一人、狼奇のそばに寄って耳打ちをした。
「は? 何だと?」
狼奇が辺りに響き渡る大声で訊き返す。
伯洛を運び、玄関に向かっていた昭蝉や、媚白が怯えた顔で振り返った。
狼奇は、目じりを吊り上げ更に叫ぶ。
「なにが女だ! 男も女もあるか! お前は将だろう!」
朱苛を睨みつけ、狼奇は畳みかけるように怒鳴りつけた。
「何のために餓鬼のころから吐くほど食べて、体を作った! どうしてまめがつぶれるまで剣を振った! ふざけんな! 胸を張れ!」
雷に打たれたように、朱苛は震えた。
一つ、大きく息を吐き、決然として顔を上げる。
「もちろん、私は将です」
黒い目にはうっすらと光るものがあったが、頬に落ちることはなかった。
***
先行して烈侯軍が帰着した後、十日かけて王軍、采侯軍が帰還した。
今回の出撃において、損害を受けたのはほぼ王軍のみであり、数も大きくはない。
しかし、何よりも総大将である臨王の武信公が乱賊の捕虜となってしまったことが痛かった。
残った将だけでは、代わりの総大将を立てることすらできない。
討伐軍は朝廷との調整のために、戦闘の継続を断念し、江邑に戻るよりほかなかった。
乱賊から身代金の要求、捕虜交換の連絡は未だにない。
朝廷の首座を空席のままにしておくことはできない。
文成公伯洛を臨王として推戴することが、朝廷の満場一致で決せられた。
文成公は当年とって十四歳。
病弱であり、成人後に主だった業績もない。
王家、二大侯家、朝廷の均衡が崩れようとしていた。




