40.危険を見る者
物見櫓の上で、狼奇と朱苛は、眼前に広がる陣地と、東西に流れる大河を見ていた。
遠見をするために作った櫓は七米ほども高さがあった。
骨組みだけの簡易な櫓は、十人も立つといっぱいになるような狭さだったが、今は二人だけなので、多少の余裕があった。
大河の岸辺に、周辺一帯から徴用した船がびっしりと並んでいる。
大きな船には、馬ごと兵士が乗り込み、小さな船には、工兵や貨物が乗る。
王都の南を流れる蛇水は、非常に川幅が広いため物見櫓の上からでなければ対岸を見ることができない。
流れは極めてゆるやかで、広大な大地を右に、左にと蛇行して流れていた。
河から渡る涼しい風に、狼奇は目を細めた。
「本格的に暑くなる前に終わらせてほしいもんだな」
「対岸も準備をしていますね。渡河次第、始まりそうです」
望遠鏡に片目を当て、朱苛は答えた。
「王軍だけでなく、采侯軍も渡る。相手のことは皓之が良く知っているだろうし、心配はないだろ」
「ですが、討伐軍が背水の陣となります」
「そうだな。不利ではある。でも船は確保しているし、逃げられないわけではない。大体この兵力で乱賊なんぞに負けるか?」
「王軍の士気が落ちています」
「まあな。だが、待ちに待った王都解放の決戦だ。嫌でもやる気を出してもらうしかない。こっちは待機組なんだから見てるしかない」
薄く笑う兄を、朱苛は無表情に見つめた。
「ではなぜ船を用意させているのですか。それも内密に」
遠くを見ていた狼奇は表情を消して、妹を振り返った。
「誰にも知られないように調達しろと言ったのに、お前に知られるとは使えねえ連中だな」
「同じ軍なのですから、漏れるのは当然です」
「まあ、それはそうだ。黙ってろ」
「何に使うのです」
「王都の食料が不足している。矢なんかの消耗品も足りない。沈約から報せがあった。最悪の場合でも、冠城に補給だけはしておきたい」
朱苛は顔を岸辺に向けた。
出陣に向け、何百、何千という兵士たちが怒鳴り声を上げながらうごめいている。
「乱賊に負ける可能性があるとお考えなのですね。補給の準備は別に隠すことでもないのでは」
「不吉を口にする者は憎まれるものだ。特にこれから華々しい戦果を上げようと思っている場合にはな」
誰に、とは口にしなくても朱苛にはわかった。
二人は言葉もなく、岸辺の兵士たちを見つめた。
初夏の日差しはきつく、屋根のない櫓の上は暑かった。
「猪狄の侵攻を受けてから、王領では徴兵があった。一戸につき一名だ。だが、男がいなくて、徴兵に応じることのできなかった家もある。そういった家も免除はなくて、女が集められたそうだ」
「女を徴兵したのですか」
狼奇の話に驚いて朱苛は振り返った。
「飯炊きや洗濯に使っているようだ」
「そういえば、文成公が、江邑で冠城らしき料理が出るようになったと言っていました」
「それだな。冠城周辺から集められた女が厨房に入ったんだろ」
二人の間に重い沈黙が落ちた。
「武信公は王家の陵墓を作るために、更に人を集めると」
「ああ、危険だ。が、誰も止めないだろうな」
会話は途切れ、風が物見櫓の上を流れた。
しばらくして、朱苛が小さくつぶやいた。
「本当に、武信公は王になるのでしょうか」
「このままいけば」
重い沈黙だった。
良くない未来がやってこようとしている。
この数ヶ月、望み続けた王都解放が目の前に迫っているというのに、朱苛の心は沈むばかりだった。
「お前は俺に王になれ、とは言わないんだな」
狼奇の声に、朱苛はゆっくりと顔を向けた。
「言えません。私には、兄様に逃げるなとは言えないのです」
片方の眉を上げて狼奇は顔をしかめた。
朱苛は苦く笑う。
「兄様が正式に跡継ぎとして立たれるとき、私は何も言いませんでした。兄様は私が烈侯となる、跡継ぎとなると言い出すことを待っていましたね。私はそれを知っていました。知っていて何も言わなかったのです」
「そう。そうだ。不思議だったんだ。お前は餓鬼のころから親父の跡継ぎになるために、頑張ってきたんだろう。なんで何も言わないのかと」
朱苛は黒い目で真っすぐに、兄の同じく黒い目を見た。
「私は逃げたのです」
狼奇は驚いた。
「二年前でしたか。父様が正式に兄様を跡継ぎにすると宣言しました。私はそれに抗議をすることもできた。でも何も言いませんでした。烈侯となるということは、七百万の領民の命を預かることです。一つ判断を間違えると、何十万という人が死ぬのです」
淡々と朱苛は話した。
二十一歳とは思えない、落ち着きがあった。
「私は戦闘で何度も部下を、兵を失いました。私の未熟さが、将としての判断の誤りが人を殺したこともありました」
狼奇は静かにうなずいた。
彼とて同じ経験はある。
「烈侯となる。その責任に私はとても耐えられない」
朱苛は一つため息をつき、青い空を見上げた。
「父様は単に兄様が男であり、私が女であるからそう決めたのでしょう。私はそれに甘えて、隠れて、何も言わなかったのです」
狼奇は軽く笑った。
「そうだな。それが賢い選択だ。なんで好き好んで恐ろしく重い責任を負わなければいけないんだ。逃げれるなら逃げた方がいいんだよ」
「でも兄様は、正式に跡継ぎとなるとき、逃げませんでしたね」
妹の指摘に、狼奇は苦く笑った。
「ああ、もう一回逃げた後だったからな」
「一回逃げた?」
朱苛が驚きの顔を見せる。
狼奇はにやりと笑って見せた。
「大学に入った後、十五の頃だったかな、色々嫌になってさ。家出をしたんだよ。お前、気づいていたか?」
「いえ、全く」
「そうか。家を出て、前の住んでたところに走って帰ったんだが、住んでた家は当然もう別の見たこともない家族がいてさ。昔一緒に荒れ地で駆けまわって遊んでいた友達も、上等ないかにも貴族らしい服を着た俺を見て、近寄っても来ないんだ。良く分かったよ。俺にもう帰るところはないんだってね。一人で荒れ地に座り込んでたら、夕方になって親父が迎えに来やがった。結局、烈侯家の屋敷しか、行くところがないんだ。まあ、だから烈侯となるのは、仕方がないって諦めもつくさ」
静かに朱苛は訊いた。
「王になることからは、逃げますか」
責めるわけでもない妹の声に、狼奇は苦笑する。
「逃げれるものなら逃げた方が賢いだろ。舜国全土、国民は二千万だ。俺に背負えるはずがない」
朱苛は何も言わず、ただ笑みを浮かべた。
そうして、また一つ息をつく。
「武信公は怖くはないのでしょうか。王となることが」
「全く怖がってるようには見えないな」
「そうですね。そう見えます」
物見櫓の上には二人しかいない。
誰が聞くわけではないが、はばかって二人とも口にはしなかった。
武信公はその危険を理解していないだろう、と。
「昔、猪狄の制度を聞いて、不思議に思いました。彼らの国に王家はなく、選挙で国を統治する者を決めると。国を統治する、その恐ろしさを知っている最も賢い人たちは選挙になど出ないでしょうに」
朱苛の疑問に、狼奇は笑った。
「そうだ。危険を知っている者は出てこない。権力を手に入れたなら、色々贅沢はできるだろう。だがそんな贅沢はどうでもいいと思うような善良な者ほど選挙になど出てこないだろう。つまりだ、危険を予測できない愚か者か、予測できても自分ならなんとかできると思う自信過剰のうぬぼれ屋しか上の方にはいないわけだ。それでも国が回っているんだから大したもんだ」
皮肉に満ちた狼奇の声が終わる瞬間、朱苛が反射的に顔を上げた。
「あれは?」
朱苛が指さす上流方向に船が見える。
対岸からこちらに船が向かってくる。
「何だ? 敵か!」
狼奇は下に向かって叫んだ。
垂直の梯子を飛ぶような速さで降りる。
周りに声をかけながら、狼奇と朱苛が川岸に走り着くと、すでに烈侯軍の兵士たちで黒山の人だかりとなっていた。
船はだんだんと近くなる。
船べりに武装した兵士と馬が乗っているのが見えた。
「乱賊か。真昼間からなんで一艘で来てるんだ」
狼奇の疑問に朱苛も首を傾げる。
「向こう岸で戦いが始まる、というのは相手側も理解しているものと思っていたのですが」
特段敵味方で顔を合わせて取り決めをするわけではないが、戦いというのは準備をしている間に、漠然とお互いに了解ができるものである。その慣行が乱賊に通じていない可能性はあった。
烈侯軍の兵士たちが、近づく敵に向かって好き勝手に罵詈雑言を叫び始めた。
石を投げる者までいる。
「うるせえな。静かにしろよ」
狼奇がため息をつくと、朱苛が彼の肩を掴み、耳に口を寄せて叫んだ。
「兄様、あれを! 連中、王軍の鎧を、軍服を着ています。烈侯軍、猪狄のものも交じっています!」
狼奇は音高く舌打ちをした。
「まずいな。先の戦いの戦死者のものを使っているのか。突撃後に見分けがつかなくなるぞ」
「印を変えますか」
「今更間に合わんだろ」
浅瀬に近づいた船から、敵兵が馬と共に飛び降りた。
その数、二十騎あまり。
船の周囲で派手に水しぶきが上がる。
そのまま川岸までやってくるかと思えば、浅瀬で騎乗した敵軍同士で小競り合いが始まった。
「どけ! 俺が先だ!」
「ちくしょう! 何しやがる! 俺が先陣だ、一番に乗り込むんだ!」
その騒ぎを見て、狼奇は思わず声を漏らした。
「は?」
「……先陣で乗り込んでも勝てなければ意味がないでしょうに、一艘で来るとは」
深刻な顔で朱苛が言った。
川岸にたどり着く前に、もみ合う敵兵たちの一部が取っ組み合って馬から落ちる。
先に進もうとする兵の足を、後ろの兵がかき抱く。
「くそう! 俺が先陣だ! 先陣になって、魁傑様から領地をもらうんだ!」
「あほか! 魁傑様じゃねえぞ! 銀河大将軍だぞ!」
その瞬間、狼奇は頭を掻きむしって大声で怒鳴った。
「もういい! お前ら、適当にあいつらぶちのめせ!」
将軍のお許しが出たので、烈侯軍の兵士たちが嬉々として叫び声を上げながら水際に向かった。
今回の戦いは待機するだけだと思っていた彼らにとっては、思いがけない気晴らしである。
手際よく叩きのめして捕虜としていく光景を見ていた朱苛がつぶやいた。
「銀河大将軍……」
どうやら、乱賊には、正規軍の常識が通じないようだった。
この先の苦労を思い、朱苛は頭痛を感じて額を押さえた。




