39.初陣
伯洛は馬の背に揺られながら、ただひたすら数を数えていた。
――一、二、三、四
二十を過ぎたあたりから、何もわからなくなり、また一から始める。
随分と前から頭は朦朧としていて、何も考えられなかった。
体を預けている白い馬が、顔を前に向けたまま瞳を動かし、ちらりと鞍に乗る伯洛を見た。
馬さえも、彼の体たらくに呆れている。伯洛にはそう思えた。
伯洛は移動する際、大体において馬車を使っていた。
しかし、戦場に向かうのに馬車に乗るわけにはいかない。
江邑から出発するときに、これをと示された白馬に、伯洛は眉をひそめた。
王子だから白馬なのだろうか。
そんな目立つようなことはしたくない。
戸惑う少年に、熟練の馬番はこう言った。
――これは白馬ではございません。葦毛が年を取って白くなったんです。人間でいうところの白髪ですな。年を取ると気性が穏やかになって、扱いやすくなりますから。
初めて戦場に赴く伯洛に、足の強い、気性の荒い馬など乗りこなせるはずがない。
確かに、妥当な選択だと思われた。
伯洛は乗馬に慣れていない。
それでも出発した日は馬上で姿勢を保ち、馬の歩みに合わせて体を上下させ、鞍に落ちる腰の衝撃を和らげることが出来ていた。
しかし、翌日には鞍を挟む腿に力が入らない。
腿と言わず、腰、肩、体中が痛みに悲鳴を上げていた。
腿で鞍を挟み込まなくては、体を支えることができない。
どうしようもなくただ馬に体を揺られていると、鞍に叩きつけられる体が更に痛む。
何千、何万という兵士たちが歩き、あるいは馬に乗り北に進む。
長く伸びる隊列の中、馬の背の上で伯洛はひたすらに休憩の時間を、その日の行程が終わるのを、数を数えて待ち続けた。
目に入るのはただ人の頭と地面だけ。
側に付く従者が、大丈夫か、水を飲むかと、あるいはもう少しだと声をかけてくれていたが、伯洛には返事をすることもできなかった。
ただ、終わりが来るのを待ち続けた。
一週間を超える苦行が終わり、陣を構える場所に着いた。
陣地が作られている間、伯洛は横になり、ひたすら眠り続けた。
兄の命令とはいえ、なぜ体の弱い自分が、戦場にでなくてはならないのか。
皆の足手まといになっているだけなのに。
体の痛みに苦しみ、熱にうなされながら、伯洛は兄を恨んだ。
***
草を渡る風が、熱気を運ぶ。
六月の日差しは強く、眩しい日向では草いきれに息がつまるほどだった。
王都冠城の南を流れる大河、蛇水を見渡す高地に、討伐軍は陣を構えていた。
蛇水の対岸には、乱賊の拠点が見える。
陣地の中央に設けられた大天幕に、討伐軍の主だった将が集まった。
昼とはいえ、天幕の中は薄暗い。
諸将たちの顔は影に沈みがちだった。
「さて、皆良く集まった」
上座に座る武信公幹蒙が、朗々とした声を張り上げた。
総大将である幹蒙は、自ら作戦を説明した。
正面から王軍三万五千が匪賊を攻め、右翼采侯軍二万がそれを支える。
左翼烈侯軍三万は予備兵力となる。
総大将の策に、異議を唱える声は勿論、質問をする者さえいなかった。
座る兄の背後に立ち、それを見ていた伯洛は、不安を覚えた。
将たちの顔は良く見えない。
彼らは兄の策に賛同しているのか、それとも何も言いたくないのか。
蒸し暑い天幕の中、伯洛の額から汗が流れた。
それは暑さのためなのか。
伯洛は、眩暈を感じた。
***
軍議の後、将たちは大天幕の外で立ち話をしていた。
それぞれの陣が離れているため、顔を合わせて情報を交換できる機会は貴重なのだ。
大柄な武人たちが寄り集まり、大きな、ともすれば野卑な声で笑い、肩を叩きあう。
沈黙ばかりが続いた大天幕での会議とは、打って変わって会話は弾んでいた。
伯洛は誰か将の話を聞きたいと思っていたのだが、気後れして誰にも声をかけることが出来ないでいた。
朝廷とはまるで違う。
肌を焼く日差しの下で、遠慮のない大声で話す武官たちは、あまりにも伯洛から遠かった。
高い天井の涼しい部屋、あるいは廊下で顔を寄せ合い、声を潜めて話す文官たちに、伯洛は好意を持ったことはない。しかし、余りにも遠い武人たちの姿を見ると、自分がいるべきはやはり文官の世界ではないのか、と思われた。
朝廷の会議で、なぜ文官と武官たちがお互いに一線を引いていがみ合うのか、伯洛には良くわかった。あまりにも世界が違いすぎる。
ふと小柄な人物が目に入った。
大きな男たちに囲まれて、若い女性が笑っていた。
女としては背が高くても、周りが更に高く分厚い体をしているので、彼女は華奢に見えた。
しかし、堂々と他の将たちと話をしている。
征坤将軍、朱苛だった。
彼らの話が終わるのを待って、伯洛は朱苛に近づいた。
まだ彼女であれば、気後れを感じなくても良い気がしたのだ。
「征坤将軍、少し良いですか」
「文成公」
声に振り返り、朱苛は驚きの声を上げた。
勢いよく黒く長い髪が空を跳ねる。
「もちろんです。何か御用でしょうか」
「その、先ほどの軍議ですが。皆、兄上の策に疑問はないのでしょうか」
伯洛の問いに、朱苛は少し目を見開いたが、すぐに社交的な笑みを作った。
「無論です。公もお聞きになられたように、皆、異議なしと申しました」
目の前に壁を感じ、伯洛も薄く笑った。
当然のことではある。
なぜ臨王の弟に本当のことを言うだろうか。
「そうですね。詮無いことを聞きました」
伯洛が背を向けたとき、朱苛が声をかけた。
「公、お体は大丈夫ですか。初陣なのですから、ご無理をなさいませんよう」
伯洛は振り返った。
女将軍は、真っすぐに彼を見ていた。
その目には、いたわりには、偽りがないように見えた。
「ありがとう。熱は下がりました」
「お食事はとられていますか。少しお痩せになられたようです」
その言葉に母を想いだし、伯洛は苦笑する。
「そう、そうですね。あまり食欲がないのです。体調のせいかもしれませんが」
「戦場であれば、ろくなものは出ませんが、無理にでもお食べになられた方がいい。江邑は、冠城とは全く違う料理でしたでしょう。それでもお食べになられていたのですから、戦場の食事も大丈夫です」
朱苛の言葉に、伯洛は気が付いた。
「そういえば、江邑の料理が口に合わなくて困っていたのですが、いつの間にか、冠城の料理が出るようになっていました」
やや呆然とそう言った伯洛に朱苛は苦笑した。
「なるほど。誰かが気を利かせたのでしょう。お口に合わなければ厳しいかもしれませんね。御無理はなさいませんよう」
一礼をして去っていく朱苛の背を見送り、伯洛は眩暈がした。
なぜ自分はここにいるのだろう。




