31.転機
烈侯梁桀は、小高い丘に設けた本陣から戦場を見下ろしていた。
見るからに逸品とわかる豪華な鎧、左右に林立する旗は、彼が総大将であることを示していた。
鷲のように鋭い目が、じっと戦場を見つめる。
口元には薄い笑みが浮かんでいた。
総大将として、満足のいく状況だった。
烈侯軍は、奇襲によって動揺した猪狄を正面から叩き、大きな損害を与えた。
敵軍は今、東に控えていた王軍に死に物狂いで襲い掛かっている。
後は敵将を討ち、数を大きく減じた猪狄兵をできる限り撃ち殺していくだけだ。
日が暮れるまでに片が付く。
すべてが目論見通りに動いている。
息子と娘の将軍としての働きにもこの上なく満足していた。
どうにも朝廷での立ち回り、論戦に長けていない兄妹ではあるが、武将としては十分すぎる力がある。
二人ともまだ若い。年とともに自然と権謀術数にも慣れるだろう。
泰然として構えていた烈侯の元に、急使の馬が駆けつけた。
「臨采侯より総大将に申し上げます!」
太い眉を烈侯は寄せた。
臨采侯皓之は、王軍の更に東に付かせている。
猪狄が王軍を突破した場合に備えているはずだった。
「東、王都冠城方面より、多数の武装兵が接近中。采侯領内で近年暴れている乱賊、魁傑の軍団と思われます!」
「多数とはいかほどだ」
いささかも動揺を見せず、烈侯は訊いた。
「えっ、あっ、その数千かと。いや、万に達するかもしれません」
「随分とあいまいだな。臨采侯はその魁傑とやらを知っているのか」
「はい、それはもう。何度も領内で戦っておりますので」
使者はまだ若く、ずいぶんと動転しているようだった。
「で、臨采侯はどうすべきと言ったか」
「い、いえ、その烈侯にご報告しろとしか」
「使えんな」
短く烈侯は言った。
側近の一人が馬を近づけた。
「梁桀様、この者を返しても埒があかないかと。こちらより使者を出しましょう」
「いや、わしが行く。臨采侯と直接策を決めた方が早い」
勝利が目前にあり、もうすぐにこの掌に落ちようとしていた。
考え抜かれた作戦を乱す闖入者の忌々しさに烈侯は軽く舌打ちをした。
***
側近十人ばかりと、馬を進めていた烈侯梁桀は、王軍と猪狄の交戦地域の近くにまで来ていた。
万全を期して戦場を回避し、南に大回りをしていくには時間が惜しかった。
水を引き入れたまま放置された農地の畔道を縫うように進む。
戦場の喧噪を聞きながら、梁桀は馬を急がせた。
突然、農地の間に放置された小さな雑木林から、突然、歩兵が二十人ほど飛び出してきた。
決死の叫びをあげ、兵士は烈侯たちの馬の脚、体に次々と切りかかる。
側近たちが即座に応戦し、あっという間に歩兵たちは切り殺されていった。
そのとき、烈侯の馬が目の前に飛んできた剣に驚き、畔道から足を踏み外した。
田の泥に足を取られた馬がどうと横に倒れる。
烈侯が田に投げ出された。
日にきらめく豪華な鎧は明らかに大将のもの。
大手柄を求め、雄たけびをあげて、猪狄の兵が走り寄る。
泥を飛ばし、少しでも前に出ようと必死に走る。
泥に投げ出された烈侯は、横倒しになった馬に下半身を取られ、抜け出すことが出来なかった。
側近たちが馬を降り、叫びながら駆け寄ろうとするが、やはり泥に足が止まる。
動けない烈侯に、猪狄の刃が襲い掛かった。
***
急報を受け駆け付けた狼奇は、筵に横たわった父と、その隣に項垂れひざまずく妹を見た。
「親父」
声まで蒼白にして、狼奇は駆け寄る。
地に膝をつき、顔を覗き込むと、生気の失せた目がぎょろりと狼奇を見上げた。
「狼奇か」
「ああ、俺だ。どうしたんだ」
死にゆくもののかすれた声に負けないほどに、狼奇の声も乾いていた。
父のどす黒い顔は、もう時間がないことを示している。
思いがけず、梁桀の手が動いた。
息子の胸倉をつかむと、力強くぐっと引き寄せる。
狼奇の耳に、梁桀は唇を寄せた。
「逃げるな、王となれ」
かすれきった小さなその声に、狼奇は雷に打たれたように硬直した。
すぐに胸倉をつかんでいた手が落ちる。
大きな目が焦点を失い、光を失った。
朱苛が父の手を握り、顔を伏せて肩を震わせた。
妹の小さな嗚咽が、やけに遠く聞こえた。
***
不測の事態で総大将を失った舜国討伐軍は、将軍たちの合議により、軍を取りまとめ江邑へ引き上げることと決した。
王都からの脱出者を襲い、金品を巻き上げることに味を占めた乱賊が、東からなだれ込んできている。猪狄を掃討しようとすると、東西から挟撃されることになる。それよりは、南に退却することで、乱賊と猪狄にお互いを攻撃させた方が良い。
撤退する舜国討伐軍は、王軍三万八千、烈侯軍七万六千、采侯軍二万。
それぞれ一万二千、四千、二百を失った。
対する猪狄は、総勢五万五千のうち、三万の骸を戦場に残した。
采侯領からやってきた乱賊との乱闘の後、残兵は乾坤山脈の奥に消えた。
軍が消えた戦場は、その後しばらく、近隣の住民が歩き回っていた。
王都冠城内に逃げなかった民衆が、死体の間を歩き回り、鎧、剣はもちろん、小銭などの金目のものを拾って歩いた。
日が暮れると、烏や野犬が死体を食い荒らす。
広大なかつて草原だった荒れ地に凄惨な光景が残された。




