30.一騎打ち
武信公幹蒙は、前方から大きな土埃を上げ、黒い塊となって向かってくる敵集団を認めて、口元に笑みを浮かべた。
臨王としてふさわしいきらびやかな武装を整えた二十四歳の幹蒙は、自信と気迫にあふれていた。
馬上から、周囲を固める兵たちに叫ぶ。
「我ら舜国の強さを、猪狄どもらに思い知らせてやれ! 一切の情けはいらん! 一兵残さず打ち殺せ!」
将の命に怒声を上げて応える王軍は総勢五万。
うち騎兵は一万ほどだった。
早朝の開戦後、待機を続けていた王軍がようやく戦闘に入る。
西から烈侯軍に追われ、土煙を上げながらなだれこんでくる猪狄の軍は、一万ほどと思われた。
幹蒙は、笑いながら馬の横につく従者を見下ろした。
「しっかり付いて来いよ。ここが勝負どころだ。予備の武器も使い尽くすぐらいにはやってやる。この戦いが終わったら、お前にも褒美をやるからな」
「は、はい」
主人の替えの武器を持って歩く従者は、戦闘には参加しない。
通常は攻撃の対象外となる。
とはいえ、戦場を主人に付いて走るため、思いがけず降ってくる矢や槍のために命を落とす危険があった。
幹蒙の周りは、気心の知れた若武者の騎兵たちが固めていた。
その集団の後ろから、歴戦の老将軍である呂馬が、士官たちに指示を出し、軍全体の陣形を整えていた。
呂馬は長い白眉を寄せ、眉間に深い皺を刻んだ。
おそらくは突出するであろう幹蒙を守りながら、軍全体を指揮しなくてはいけない。
呂馬にとっても勝負どころとなる戦いだった。
「突撃!」
武信公幹蒙の号令とともに、数万の軍が駆けた。
叫び声と鐘の音が、重い馬の地を蹴る音にかき消される。
大地が揺れる。
なだらかな草原は一瞬で穴だらけの茶色の荒れ地となった。
先頭集団が衝突する。
波と波が正面からぶつかるように、兵の集団が砕けて混ざる。
舜国王軍が、崩れかけていた猪狄の軍を勢い良く飲み込んだ。
騎兵が突進して空いた空間に、歩兵が詰め寄る。
呂馬は勢いを保ちながらも、慎重に前線を押し上げた。
突撃の先頭にいた幹蒙は、長い槍を左右に振り回し、手当たり次第に敵兵を撃ち殺していた。
声を限りに雄たけびを上げ、周囲に血しぶきをまき散らす。
あまりの迫力に、猪狄の兵たちは幹蒙の周りから逃げ出した。
それを追いすがり、槍で背を突く。
倒れた死体に槍を持っていかれてしまった時だった。
猛然と走り寄ってきた騎馬が、幹蒙に馬ごと体当たりをくらわせた。
幹蒙の馬が倒れそうになりながらも、たたらを踏んで持ちこたえる。
鞍から振り落とされそうになり、必死に手綱を引く幹蒙に、斬撃が襲い掛かる。
上体を馬に伏せ、一撃を何とかかわした幹蒙は、腰の剣を引き抜いた。
馬を立て直し、改めて襲い掛かってきた武者と向きあう。
返り血を浴びた赤黒い鎧に包み、血まみれの長槍を振り回す男は、明らかに下級の士官ではなかった。
焼け付くような激しい息を吐きながらも、鋭い目は冷静に幹蒙を睨んでいる。
戦場の狂乱に惑わされない抑制された固い闘志が、その全身から発されていた。
「何者か! 我は舜国臨王! 武信公幹蒙なり!」
幹蒙は武者を睨み怒鳴りつけた。
普通であればひるむはずの相手が、はっと目を見張ったあとに、突然天地を揺るがすような大声で笑い出した。
「何がおかしい! 名乗れ! 臨王を相手に無礼であろう!」
赤鎧の男は、笑いをおさめると嘲りの笑みを浮かべた。
「お前が次男坊か! 良く覚えておけ。俺は赤虎将軍、班固だ。時代遅れの王と長男は俺が冥府に送ってやったぞ。愚かな父と兄の後を追いたいか! それが怖ければさっさと尻尾をまいて逃げ出すがいい!」
幹蒙の顔が、朱を注ぐごとく赤くなる。
「お前が父上と兄上を殺したのか! 今このときお前を俺の前に差し出した天に感謝をするぞ! さあ、自らの不運を呪え! この俺が仇を取る!」
叫ぶや否や、幹蒙は剣を天にかざし、恐ろしい勢いで打ち下ろした。
班固は長槍で軽くそれをいなす。
幹蒙は槍の間合いをかいくぐり、一合、二合と斬りかかる。
怒りにまかせた幹蒙の斬撃は重く、激しく、余裕を見せていた班固も、いつしか必死に応戦を始めていた。
二人の馬が相手の馬の尻尾を追いかけるように回り続ける。
周りの兵や従者たちは、その勢いに近寄ることもできなかった。
幹蒙が馬ごと体当たりをすると、上体を大きく崩した班固が一瞬顔を青くした。
慌てて左手を鎧の中に入れる。
その隙を見逃さず、幹蒙は班固の左手を下から斬り上げた。
上体をそらしてよけようとしたが間に合わず、班固の左手が宙を飛んだ。
驚愕に顔を歪めた班固が、自分の腕を目で追う。
その瞬間、幹蒙は右側から班固の首に剣を叩きつける。
斬撃は鎧に当たり、上体を崩した班固が地に落ちた。
地上の五、六人の歩兵たちが地に転がった班固にわっと群がった。
敵将を殺す手柄を争い、お互いに肘を打ち合う。
「どけ! どけ! 俺の獲物だぞ!」
慌てて幹蒙も馬から飛び降り、班固に群がる歩兵たちを押しのけようとした。
その瞬間、歩兵の首が飛んだ。
ばね仕掛けのおもちゃのように飛び起きた班固が、両足を踏ん張り、片手に握った短剣で、次々と歩兵たちを殺していく。
班固の左の二の腕からは滝のように血が落ちる。
失血の中、血走った目で確実に敵をしとめる、恐るべき技量だった。
幹蒙は息を呑み、思わず一歩さがった。
それを見逃さず、班固は体を翻し、剣を口にくわえ、馬に飛び乗り走り去った。
「ま、待て!」
叫ぶもすでに遅く、班固は土煙の中に消えた。
剣を片手に、幹蒙は呆然と周りを見た。
少し離れたところでは、変わらず斬りあいが続いている。
ただ幹蒙が立つこの場所だけは、物言わぬ兵士の死体が転がるばかりだった。
「幹蒙様! ご無事ですか!」
従者が駆け寄ってきた。
「ああ、お前、生きていたのか」
虚脱したように、無表情に幹蒙は答えた。
「幹蒙様、ご覧ください、これを!」
従者が差し出したのは、班固の左腕だった。
がっしりとした大きな腕は、歴戦の男の力強さを感じさせた。
しかし、何より幹蒙の目を引いたのは手の先だった。
しっかりと何かを握りしめている。
その指の隙間から光るものは、何なのか。
幹蒙の心臓が大きく鼓動を打つ。
声も出ない。
ぎこちなく足を進め、従者からその腕を奪い取る。
震える手で、握りしめられた指をほどく。
切り離された腕になぜその力があるのか、指は中々動かなかった。
一本ずつ、無理やりに離す。
班固の腕が地に落ち、幹蒙の手にその石が転がり落ちた。
てのひらにずっしりと重い巨大な宝玉。
透明なその石は、土煙と血しぶきが宙を舞うこの場所においてさえ、神々しいきらめきを放っていた。
見誤るはずのないその金剛石。
王都の聖宮にあるべきものを、なぜ班固が持っていたのか。
「幹蒙様、これ、やっぱり、その」
従者の震える声に、幹蒙は我に返った。
剣を持った手を、迷いなく振る。
次の瞬間、剣は従者の腹に沈んだ。
「か、か、幹蒙様、どうして」
信じられないと首を振り、驚きに目を見張りつつ、主人を見上げて従者は地に倒れた。
「これは王となる者だけが持つべき神玉」
幹蒙の目に、狂気が宿る。
「お前ごときが知ってはならないものだ」
歓喜が、沸き立つほどに熱い血が全身を巡る。
天を仰ぎ、両手を広げ、幹蒙は吠えた。
「天は我に味方した! 俺が王だ!」
大地は血の池と化し、死にゆく者の叫び声が天まで届いた。