01.七年遅れの立太子式 (1)
光が消えた。
突然手元が暗くなったことに驚き、少年は窓に向かった。
窓枠に手をかけ空を見上げると、西からわいた黒い雲が空半分をおおいつくし、恐ろしい勢いで東の明るい青空まで飲み込もうとしていた。強い風が少年の顔を叩き、部屋に吹き込む。思わず顔を背けると、机や床に散らばっている画紙が、風に飛ばされ舞い上がった。
不吉な予感が少年の胸をよぎる。
よりによって今日この日に。
風に押し戻されそうになりながらも、満身の力で窓をしめた少年は、この年十四になる国王の三男、文成公伯洛だった。
伯洛は風に乱れた柔らかい栗色の髪をなでつけた。陶磁器のように白い顔が、ほのかに色づいた唇をより赤く見せていた。薄い鳶色の瞳をおおう長いまつげが影を落とす。伯洛が細い眉を寄せたとき、部屋の扉が開いた。
「まあ、伯洛。まだこのようなところにおいでだったのですか」
甲高い母の声に、少年は年に似合わない大人びた笑みを浮かべた。
絵具に汚れた木の床を、服の裾を気にしながら美しい装いの王后昭蝉が歩く。
不規則に置かれた作業台の上には絵具や筆が転がり、壁一面に作られた棚には画紙や本が雑然と積み重ねられていた。
「まだ式には時間があるかと思いますが。お母様」
きらびやかに美しい王后の正装をまとった昭蝉は大きく何度も頷いた。若いころから美貌で知られる王后は、三人の子を産んだ後も、その華やかな美しさを保っていた。
「ええ、ええ、確かにまだお時間はありますが、伯洛、貴方のお兄様が太子として立たれる大切な日なのです。万が一にでも遅れることのないようにお早く参るべきですよ。あら、少し御髪が乱れていますね」
衣擦れの音も高く伯洛に近づいた昭蝉は、愛しげに三男の柔らかい栗色の髪をなでた。
「お母様、その、私は本当に式に出なければならないのでしょうか」
ためらいがちにきく伯洛に、王后は目を見開いた。
「何をおっしゃっているのです。貴方は成人してすでに二年、公爵でいらっしゃるのですよ」
「形ばかりの公位です。政はお父様とお兄様たちが取り仕切っていらっしゃる。年若く体も弱い私が出る幕はありません。お兄様たちのお邪魔をせず、この部屋で大人しく絵を描いているのが似合いでしょう」
伯洛の言葉に、昭蝉は眉を寄せ首を振った。
「どうかお母様を困らせないでください、伯洛。わかっていらっしゃるでしょう。お父様やお兄様方は皆頼りがいのある方たちばかりですが、どうにもすぐに言い争いを始めてしまいます。私はお父様たちが怒鳴る大きな声など聞きたくもありません。貴方はお兄様たちをなだめるのが大変お上手なのですから、私を助けると思って側にいてください」
「そう、そうですね」
自信に満ちあふれる父と兄たちを思い浮かべ、母親似の伯洛は苦笑した。
なぜ自分だけ、父と兄たちとは違うのだろうか。
「また絵を描いておいででしたか。指を、式服を汚してはいませんか」
心配そうに母は息子を見た。
伯洛は大人びた顔で笑って見せた。
「大丈夫です。さすがに今日は描いていません。ただ描きかけのものを見ていただけです」
「そうでしたか。まあ、それにしても貴方の絵のお上手なこと。この鳥など今にも飛び立ちそうではありませんか」
年のわりに幼い母は、まるで十代の少女のように無邪気に微笑んだ。伯洛は苦笑する。
「これは渡渡鳥です。飛べないのですよ、お母様」
「ああ、そうですね。そうでしたね。渡渡鳥ですね。貴方は本当に鳥に詳しくて。お母様は難しいことはすぐに忘れてしまうのです。困ったことね。ごめんなさいね」
母が小首をかしげると、金の髪飾がさらさらと音を立てて揺れきらめいた。
「これほどに素晴らしい腕前なのですから、伯洛、一度、簡単なものでいいからお母様の絵姿を描いてもらえたら、とっても嬉しいのですけれどね」
伯洛は困ったように笑った。
「ごめんなさい、その、私は人を描くことができなくて」
「ええ、ええ。知っておりますよ。何度もそうおっしゃっていましたものね」
優しく息子の手を取って、昭蝉は微笑んだ。
「さあ、早く参りましょう。つまらないことでお父様たちのご機嫌を損ねてはいけません」
「本来、七年前に行うはずだった立太子式です。ようやくこの日を迎えたのですから、お父様たちはご機嫌でしょう」
伯洛の言葉に、母は不安げに眉を寄せた。
「それなのですけど、何かとっても不機嫌でいらして。お父様もお兄様も。ですからね、貴方、余計なことは言わないようにくれぐれもお気をつけてください」
また何か論争があったのか。
父と長兄の顔を思い浮かべ少年は苦笑した。
伯洛は母を安心させるように微笑んで見せると、その細い指を強く握り返した。