16.王宮から遠く離れて
賑やかな鳥の鳴き声に、伯洛は目を覚ました。
雨戸の隙間から、眩しい朝日が差し込んでいる。
聞きなれない鳴き声は、大きく耳障りで、まるで御伽噺に聞く怪鳥のようだった。
寝台から起き上がると、体が悲鳴を上げた。
七日間、馬車で揺られ続けたのだ。
そもそもが病弱な十四の少年には、つらい旅程だった。
窓を開け、雨戸を開けると、その音に気付いた侍女が、部屋に入ってきた。
「お目覚めでございますか」
「支度を」
「はい、すぐに」
頭を下げて侍女が下がるのを見送り、伯洛は窓の外を見た。
舜国、南方の都、江邑の街並みが見えた。
王都は勿論、その中にある広大な王宮からほとんど出ることのなかった伯洛にとっては、何もかもが不思議な、馴染みない光景だった。
橙や緑の色鮮やかな瓦が、でこぼことしながら続く屋根。
高さがまちまちな建物。
路のあちこちには、穴や水たまりができている。
ふと隣の建物をみると、屋根の上に立派な低木が生えていた。それだけではなく屋根瓦のあちらこちらに草が生え茂っている。王都冠城ではそのような建物は一度として目にしたことはない。
「公、失礼をいたします。お待たせをいたしました」
侍女が洗面の用意と着替えを持って帰ってきた。
机に置かれた鏡を伯洛は覗き込んだ。
十四の少年の顔は青く、目の下に黒い隈が出来ていた。
「お母様はどうされているかわかりますか」
「すでにお目覚めですが、寝室で臥せっていらっしゃるとか」
「そうですか。挨拶に行きます」
「かしこまりました。お伝えにまいります」
王宮から付いてきた数少ない侍女が、慌ただしく部屋を出て行った。
***
王后昭蝉の寝間に、伯洛は足を運んだ。
薄い帷が上げられた寝台で、王后は上半身を起こし、幾重にも重ねた枕に体を預けていた。
この貞固館で最も立派な寝室ではあるが、王宮とは比べることができない簡素さだった。
「おはようございます、お母様。お加減はいかがですか」
息子の声に、昭蝉は表情のない顔を上げた。
目の下には黒い隈がくっきりと浮き出ている。
「ああ、伯洛、まるで生きた心地がいたしません。まだ悪い夢を見ているようです。本当に、本当に二人は亡くなってしまったのでしょうか」
王后は伯洛の手をきつく握った。
わずか一週間で、母の手は肉が落ち骨ばってしまっていた。
落ちくぼんだ大きな目を見開いて、昭蝉は息子に訴えかける。
「敵が掲げていたのは王と倫在公の首だと誰が言ったのでしょうか。慌てた者が見間違えたのではないのですか」
伯洛は母の手を強く握り返した。
「お母様」
その後に続く言葉がない。
何を言えば良いのか、伯洛にはわからなかった。
そのとき、断りもなく寝室の扉が開いた。
「伯洛、ここにいたか」
「お兄様」
王の次男である武信公幹蒙だった。
大股に寝台に近寄ると、部屋中に響き渡る声で母親に挨拶をした。
「母上、お加減はいかがか。ご心痛の他、長旅のお疲れもありましょう。ここは気の利く者もいない鄙の地ではありますが、安全ではあります。どうぞお心安くお休みください」
「幹蒙、あなた、いえ、何でもありません」
王后は寝台から次男を見上げ、何かを言おうとして諦めた。
力なく、体を寝台に横たえた。
母の枕元に座っていた伯洛の肩に、幹蒙は大きな手を置いた。
「伯洛、話がある。来い」
***
江邑で最も高級な宿として知られる貞固館の一室で、兄弟は向かい合った。
王家とその家臣たちの一時的な居宅とするために、この宿は接収された。
「二時間後に、会議が始まる。これから王朝の体制をどうするかを決める重要な会議だ。お前も文成公として、王家の男として役割を果たせ」
線の細い少年は、いかにも武人らしい筋骨たくましい兄に尋ねた。
「私は何をすればよいのでしょうか」
正面に向き合って座った兄弟は、額がつくような距離で声を抑えて話していた。
「これから江邑に逃れた重臣が一同に会して、臨時の朝を定める。お前は王家の者として、俺の案に同意しろ」
「案とは」
弟の問いに、幹蒙は一拍置いて、静かに答えた。
「俺が王となる」
伯洛が息を呑む。
「宰相たちとはすでに話は済ませている。あとは烈侯たち、貴族の連中を黙らせるだけだ」
想像もしていなかった話に、伯洛の頭は白くなった。
「しかし、しかし、王を定めることができるのは、斎女であり、神玉です。どちらもここにはありません」
震える声で指摘する弟に、幹蒙はきつく言い返した。
「今を何だと思っている。王と王太子が二人して敵に殺されたんだぞ」
伯洛は片手で口元を押さえ、考えた。
彼とて、朝廷に顔を出してはいたのだ。
「斎女の言葉なく、王位を継いだ前例はあるのですか。前例があれば重臣たちも、烈侯も納得はするでしょう」
「ない。だからこそ七年前から問題になっていたんだ」
兄の言葉に、伯洛は顔を上げた。
「七年前? 馮英兄上の立太子式が行われるはずだったときのことですか」
「そうだ」
重々しく幹蒙は頷いた。
「お前はまだ小さかったからな、何も知らないだろう。まあ、俺も後から父上に教えてもらったのだがな。七年前、立太子式の準備をしていたら、斎女から立太子はならぬと通告があったのだ」
伯洛は目を見開いた。
「先代の斎女から、ですか」
「そうだ。何度も抗議したのだが、どうにも斎女が言うことを聞かない。いい年の婆さんだったから、先も長くないだろうと踏んで、代替わり後に式を挙げることにしたんだ」
「しかし、当代も」
そこまで言って、伯洛は口をつぐんだ。
「ああ、当代まで兄上の立太子を拒否してくれた。しかもあんな大勢のいる大礼拝室でな。たまったものではない。王家の面目丸つぶれだ」
憎々し気に幹蒙は吐き捨てた。
「どうにも当代も言うことをきかない。それでだ、父上たちはすでに手を打っていたんだ」
「手を?」
弟の問いに幹蒙は頷くと、席を立ち伯洛の隣に座った。
少年の細い肩に手を回し、ぐっと顔を近づける。
「つまりだな、神玉があればいいんだ」
囁く兄の声に、伯洛は思わず震えた。
「こちらに神玉さえあれば、あとは新しい斎女を立てて王を宣言すればいい」
「斎女は神官たちが卜占で探します。我々に、王家に都合のいい者が斎女となるとは限りません」
「お前、あんなの信じているのか」
幹蒙は軽く笑った。
「卜占なんか、どうでもいい。それなりに見た目の美しい少女をどこからか拾ってくればいいんだ。そう、見た目は大切だ。信者にはそれぐらいしかわからんしな。大体、神官たちだってそうやって決めているんだろうと俺は思っているよ。辺鄙な田舎で見目麗しい何も知らない少女を拾うんだ。それらしくな。まあ、とにかく我々の思うようにことが進めばいいんだ」
毒々しい兄の笑みに、伯洛は言葉を失った。
「あの立太子式の後、父上は大神官の買収に成功した」
驚く弟に、幹蒙はにやりと笑った。
「実はあの日、敵襲が知られた日だが、大神官が聖宮から神玉を持ち出して、王宮に届けるはずだったんだ。持ち出すのに成功したと合図があったんだが、しかしついに落ち合う約束の場所に大神官は現れなかった。敵襲で街が大騒ぎにになってしまっていたからな」
「何ということを。では、では、神玉は今どこに」
呆然と訊く伯洛に、幹蒙は首を振った。
「わからん。大神官が聖宮に持って帰ったのではないか」
立ち上がると、幹蒙は力強く弟に宣言した。
「伯洛、いいか。会議をうまくまとめて終わらせるぞ」
伯洛は唇をかみしめ、青い顔で兄に頷いた。




