12.流転 (2)
朝、同じ布団で寝ていた蘭々が飛び起き、晶瑛は目を覚ました。
晶瑛も起きようとしたが、激痛が走り思わずうめき声を漏らした。
二日前、大門で馬に蹴られ、したたかに地に打ち付けられのだ。
体は痛んだが、巻いていた布のおかげで頭は無事だった。
昨日は平気だと思っていた打撲が、二日経って痛みが増した。
なんとか布団から起きると、晶瑛は布を頭にきっちりと巻いた。
髪が一筋も落ちないように十分に注意を払う。
蘭々がばたばたと荷物を持ち、外の友達と叫びながら学校へと飛び出していった。
黄雀は夜中のうちにどこかに出かけていた。
元気いっぱいに赤毛をなびかせて出ていった蘭々を見送り、晶瑛は改めて自分の失敗に心が沈んだ。
彼女の髪は、黒くならなかったのだ。
***
「どないしよったんで、この髪」
昨日怪我をして気を失っていた晶瑛が起きたあと、老婆は呆れたように彼女に訊いた。
蝋燭の炎で焼き切ったざんばらの髪を、少しでも隠すように両手で抑えて晶瑛は言った。
「そないに変? その、あの、髪を黒くしよう思うて」
「黒? こないに青い髪、初めて見よる」
「あ、青?」
思わぬことに晶瑛は狼狽した。
「か、鏡は?」
「ほら、見い」
小さな手鏡を覗くと、確かに髪は青くなっていた。
見たこともない不気味な色に晶瑛の顔から血の気が引いた。
「なんで」
「黄色い髪の子が黒う染めよったら、緑になりよるんは見たことあるけんど、青はなあ」
あまりのことに、鏡を持つ手が震える。
「これ、どないしたらええの」
「ほやなあ、まあ、ほっとき。髪染めなんか一月もせんで落ちよるわ」
みっともない色にいたたまれず、晶瑛は両手で顔を覆った。
布団にうずくまる晶瑛をなぐさめるように、老婆は肩を叩いた。
「色はあれやけんど、先はちょびっと切っといたらどないで。えらいガタガタやけん」
「お婆ちゃん、切ってくれる?」
「ええで、ほら、外に出え」
「えっ」
晶瑛は尻込みした。屋の外には何時でも人目がある。
水場や戸口で住人たちがたむろしているのだ。
こんな気味の悪い青い髪を人に見られたくはなかった。
小さい子のように嫌がる晶瑛の背を押して、老婆は外に出た。
「ほれほれ。そこに座り」
水場の近くの腰掛石に座らされると、老婆が器用に晶瑛の髪の先を鋏で整えた。
切り落とされた髪は、老婆がすぐそばの用水路に足先で払って落とした。
住民たちにとって大切な用水路は、石で作られ定期的に掃除もされている。
水流は早く、髪も、上流からのごみもまぜこぜに飲込み流されていった。
服を洗っていた女たちが、晶瑛を見て朗らかに笑った。
「どしたんで、その髪。自分で染めたん? まあ、あほなことしよったやなあ」
「若い子は髪いじるの好きやけんなあ」
「ちゃんと人に聞いて染めんけん、そないなるんでよ」
口々にはやし立てられ、晶瑛の顔が赤くなる。
「そないに言わんといて」
晶瑛の抗議に、女たちが更に笑う。
晶瑛は恥ずかしく思ったが、不思議とその感覚が懐かしかった。
まるで湖北にいた昔のようだった。
聖宮にいた三年間、彼女を正面から笑う者はいなかった。
晶瑛が何かに失敗しても、皮肉を込めた上品な口調でたしなめられるだけだったのだ。
おかっぱというには少し短い長さに髪を整えてもらうと、晶瑛は再び頭に布を巻いた。
とりあえずこれで色が落ちるまでしのぐしかない。
しかし、落ちれば銀の髪が戻る。
そうすれば、自分が斎女であることがばれてしまう。
一ヶ月は猶予があると考えて、頭に布を巻いてやり過ごすしかなかった。
***
特にすることのない晶瑛は、長屋の水場で昨日のように赤ん坊の子守をしていた。
「ただいまあ」
長屋の門の戸が開き、蘭々や他の子供たちが一斉に帰ってきた。
「あれ、どしたん。学校は」
「授業、なくなった。先生たちも城壁の見回りせなあかんゆうて」
「ほらほうや、敵が来とるけんな」
蘭々が不安げに老婆に抱き着いた。
「お婆ちゃん、ほんまに大丈夫なんやろか」
「そないに心配せられん、大人に任せとき」
孫娘の肩を力強く叩き、老婆は長屋の奥に向かった。
木の塀と長屋の建物の間に、小さく粗末な祠があった。
祭壇を模した小さな祠は、日光にさらされ色もなくなっていたが、掃除だけはすみずみまで行き届いていた。
老婆は祠の前の大きな石に膝をつき、手を合わせて口の中で何かを唱えた。
振り返って蘭々に手招きをする。
「蘭々、おまはんもこっち来い」
「うん」
大人しく蘭々は祖母の横に膝をつく。
同じように手を組んだ蘭々に頷き、老婆は言った。
「ほんなら、斎女様にお祈りしい」
後ろから見守っていた晶瑛は、目を見開いた。
「ええか、五十年前にもよそから敵が来てなあ。胡北はえらい目におうたんや。私らは家も羊も無くなったけん、王都に逃げて助けてもろうたんやで」
「冠城は敵が来ても大丈夫なんやね」
「ほらあんな大きい門も壁もあるけんな」
蘭々がお祈りを捧げるのを、老婆は優しく見守った。
小さな肩を両手で抱いて孫娘に話しかける。
「食べるんがなかったら、聖宮にいったら斎女様がご飯をくれるんや。そやけん、物があるときは、聖宮にお参りしてお供えせんといかん」
晶瑛は初めて聞く話に立ち尽くしていた。
聖宮には今、斎女も大神官もいない。
この王都に閉じ込められた人たちはどうなるのか。
何かあった時に、聖宮は動けるのだろうか。
急に胸が苦しくなった。
そのとき、長屋の木戸が音高く開き、大勢の住人が帰ってきた。
その騒がしさに部屋にいた住人たちも顔を出す。
怖い顔をした黄雀が、住人達の真ん中に立っていた。
周囲を見回して、黄雀はきつく言った。
「よそもんが来よっても、長屋に入れたらあかん。誰にも知られんようにせなんだら」
「ほなって、黄雀さん、大家さんにはゆうとかな」
「ええから、ゆうたとおりにしい」
「そないゆうたかて」
「どやかましい!」
黄雀が叫ぶと、女たちは一様に首をすくめた。
晶瑛は驚いてその光景を見ていた。
笑顔を絶やさなかった昨日の黄雀とは、まるで別人のようだった。
蘭々に気づいた黄雀が、荒々しい足取りで娘に近づく。
「蘭々!」
蘭々は思わず祖母の背中に回ったが、老婆の背は小さく到底隠れることなどできない。
黄雀は蘭々の二の腕をきつくつかんだ。
「夜に死んだ人がおる。私が神官さん呼んで来るまで、そばに付いとき」
蘭々は目を見張った。
「死んだ人のそばに? お母ちゃん、いやや」
「ゆうとおりにし!」
母親に引きずられるように蘭々は長屋の一室に連れていかれた。
娘を部屋に放り込んで、黄雀は長屋の外に出て行った。
「黄雀さん、どないしたん」
「恐ろしいなあ」
長屋の住人たちがひそひそと言葉を交わす。
黄雀が帰ってこないのを確かめて、晶瑛は部屋の木戸を引いた。
暗く湿った部屋の中に小さな声で呼びかける。
「蘭々、私が代わる」
「ほんま? ええの? 晶瑛、ありがとう、あんな怖いお母ちゃん初めて見た」
戸口の明かりに目指して蘭々が駆け寄る。
涙ぐむ少女を晶瑛は優しく慰めた。
「黄雀さん、なんかあったんやろね。外に敵が来てるしな」
「うん。なあ、晶瑛、行くとこあらへんのやろ。ずっとここにおってな。一緒にいようね」
赤毛の少女はすがるように晶瑛を見た。
ここにずっといる。
晶瑛は思いがけず動揺した。
そうしたいとも、それはできないとも言えず、ただ曖昧に笑い、蘭々を安心させるように肩を叩いた。
蘭々を外に出し、晶瑛は部屋の木戸を閉めた。
布団が敷かれた板の間に死体があった。横には小さな蝋燭が灯されている。
血の匂いと、微かな腐臭がした。
亡き人に弔いの聖句を与えようと、晶瑛は静かに布団に近づいた。
死者がいれば、弔わなければならない。
三年の聖宮での生活で、いつのまにかそれは自分の義務だと、晶瑛は感じるようになっていたのだ。
蝋燭のほのかな揺れる光に照らされた死者の顔を覗き込む。
晶瑛は息を呑んだ。
なぜ大神官がここにいるのか。
死体の鼻の脂が鈍く光る。
その眼窩は落ちくぼみ、記憶にある顔とはかなり違う。
しかし、確かにその男は大神官だった。
心臓が跳ね上がる。
鼓動がうるさいほどに耳に響いた。
震える手を伸ばすと、死体はかちこちに固まっていた。
大神官が死んでいる。
自分の浅い呼吸が、暗い部屋の中でせわしなく聞こえる。
無意識のうちに晶瑛は両手で死体をなぞっていた。
胸、腰、脇、どこかに膨らみはないのか。
隠しているものはないのか。
最初は震える手で撫でるように探っていたが、すぐに乱暴に力をこめて必死に大神官の体を探っていた。
晶瑛には分かったのだ。
分かってしまったのだ。
一昨日、なぜあれほど聖宮から出なければいけないと思ったのか。
どうして何も考えられないほどの焦燥に身を焼いたのか。
神玉が彼女を呼んだのだ。
無法にあるべき場所から連れ去られた神玉が、斎女に助けを求めたのだ。
気持ちの悪い冷たい汗が額から落ちる。
顔を近づけた死体から異臭が漂う。
板のように固まり石のように重い体のすべてにくまなく手を入れ、晶瑛は死体の背の腰から金色の鍵を見つけ出した。震える手で、自分の腰帯に括りつけた金鎖を取り出す。その鎖の先にある鍵と、死体から奪った鍵を蝋燭の火にかざした。
全く同じ形をしている。
安嘉堂の鍵だった。
大神官の鍵を金鎖に通し、晶瑛は腰帯に隠した。
鍵はあった。
だが、最も大切なものが見つからない。
晶瑛は血走った目で死体をもう一度頭の先から、足の先まで執拗に改めた。
しかし、神玉は見つからなかった。




