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聖なる宝玉と、血塗れた王冠  作者: 十川 夏炉
第二章 聖宮密謀
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10.奇貨居くべし (3)



 少女は走った。


 夕暮れは刻一刻と闇を増している。

 

 大通りも、脇道も人でごった返していた。大きな荷物を背負う者、あるいは子供を背に括りつけて運ぶ人、押し合い圧し合いを繰り返し、まともに進むことができない。


 大声で怒鳴りあう背の高い大人たちの脇の下をくぐり抜けるように、彼女は走った。何度も何度もぶつかりながら、人を両手でかきわけ、体をよじって前に進む。


 城壁の鐘楼(しょうろう)からひっきりなしに鐘が鳴っていた。叫ぶ野太い男の声、甲高い女の悲鳴が四方八方から飛び交う。


 故郷の胡北から王都まで馬車で五日かかったのに、自分の足で帰ることができるのだろうか。知らせもなく突然帰った自分を、親兄弟は快く迎え入れてくれるのだろうか。そもそも敵襲の中、王都の外に出て無事に逃げられるのだろうか。


 次々とわきあがる疑問と不安が胸を焦がした。

 それでも彼女の意思は石よりも固かった。

 

 帰る。帰るのだ。


 すでにもうそれだけしか考えられない。


 胡北の放牧地は、恐ろしく寒いところだった。お腹いっぱいご飯を食べた記憶はない。早朝から、食事の準備、羊の世話に明け暮れていた。


 十本の指はいつでもあかぎれに割れ、何をするにも血がにじんでひどく痛かった。羊を連れて放牧に行くと、草原を吹きすさぶ寒風が体に叩きつけられ、その場から身動きも取れなくなることが良くあった。


 杖がわりの枝を握りしめ、丸めた背を風に向け、体を吹き飛ばす横殴りの強風が行き過ぎるのをただじっと待つしかない。永遠とも思える長くつらい寒さだった。


 聖宮では何もしなくても、温かい食事が出た。いくらでも食べてよいのだという。


 食事の支度も、家畜の世話もしなくなると、数ヶ月で指は傷一つなくきれいになった。


 つらい仕事は何もなかった。


 ただ教師役の神官に祭礼や言葉を学び、それらしい台詞を儀式で述べる。聖宮の頂点に立つ者として、できる限り威厳を保つ。それが彼女に求められているすべてだった。明日の仕事の段取りも、次の冬の備蓄も何も心配しなくてよい生活だった。


 それなのに彼女は聖宮に入って三ヶ月後には、故郷に帰りたくてたまらなくなった。薄笑いを浮かべた神官たち、冷たい大理石の建物、難しい理論と計算で作られた神々を称える聖歌。何もかもが馴染めなかった。


 見渡す限りのまっ平らな青い草原、羊の脂の匂い、母から教えられた古い歌。たとえ毎日つらい仕事で体を壊すことになっても、飢えて死ぬことになっても、そこに帰りたいと彼女は心から願った。


 何よりも家族に会いたかった。父は恐ろしく怖く、兄は厳しかった。弟は馬鹿な悪戯をするばかりで役にもたたない。優しい母や姉は父から怒られてばかりで、怒鳴られているのを見るのも聞くのも心が痛かった。


 良い家族ではなかったかもしれない。それでも嘘のない顔ばかりだった。薄ら寒い作り笑いなど誰もしなかった。


 開光門の大門が見えた。


 ぐるりと王都の四辺を取り巻く城壁は、高さが七(メートル)ほどもある。

 一辺につき三つある大門は、城壁より更に高い。


 開光門の大きく反り返る三重の屋根の下には、太く巨大な円柱が立ち並んでいた。


 あの門を出れば、王都から出られる。


 知らず少女の顔には笑みが浮かんだ。


 門の外から、大勢の人が押し寄せていた。いつもであれば、十分な余裕をもって人と荷が通れる広々とした五つの柱間に、今や人ばかりではなく荷車や牛、馬がみっしりと押し合い、一歩でも前に進もうと殺到していた。


 敵襲が叫ばれる都から出ようとする者はいなかった。ひたすらに中に逃げ込もうとする者ばかりだった。


 大門を挟む左右の城壁上の歩廊から兵士たちが大声で叫んでいた。警告の鐘が狂ったように鳴り響く。


「下がれ! 下がれ! 門を閉ざすぞ!」


 待ってくれ、入れてくれと必死に叫ぶ悲鳴が城壁の外から中から響き渡る。


「待って! 待って!」


 少女も必死に叫んだ。


 人波に押されて、目の前に見える門に一歩も近づけない。絶望が胸に押し寄せた。

 

 あちこちでぶつかりあう人と牛馬が悲鳴を上げていた。けんか腰に文句を言い合う男たちの側で、馬が突然に大きな(いななき)きを上げる。


「おい、どうした!」


 手綱を引く主人の声に構わず、馬は左右に首を大きく振り回す。口から泡を吹いた馬はいきなり後脚で立ち上がり、前脚を高く宙に蹴り上げた。


 少女の目の前で、高く掲げられた(ひづめ)が振り下ろされる。


「危ない!」

「逃げろ!」


 大人たちの声に少女は硬直する。

 早く逃げないとと頭はわかっているのだが、体が全く動かなかった。


 馬の蹄がゆっくりと、ことさらにゆっくりと落ちてくる。


 永遠とも思える一瞬の後、大きな衝撃とともに少女は地に叩きつけられた。


「取り押さえろ!」

「あっちに行ったぞ!」

「俺の! 俺の馬だぞ! 無茶せんでくれ!」


 怒号と悲鳴が辺りを切り裂く。


「大丈夫か!」

「お嬢ちゃん、連れは?」


 遠くなる意識の中、少女は開光門の大門が閉められるのを見た。絶望に意識が遠くなる。


「しっかりしろ!」

「医者は!」


 出れなかった、帰れなかったと、失望と絶望に涙を流し、少女の意識は闇に落ちた。




***




 遠くで人の声がした。


 ぱしゃぱしゃと(たらい)で水を使う音、賑やかな話し声、作りの悪い木戸を力任せに引く音があちらこちらから聞こえてきた。


 ぼんやりと目を開けると、しわくちゃの老婆が彼女の顔を覗き込んだ。


「おお、起きたんで」


 少女は何かを言おうとしたが、口の中がからからに乾いていて、何も話すことができなかった。


「おまはん、門とこでおおきい馬に蹴られたんでよ」


 老婆は皺だらけの顔で笑い、針仕事をしていた手を休め、彼女に水を差しだした。


 少女は体を起こした。かけられていた薄く湿った布団が滑り落ちる。


「うっ」

「ああ、そないに急に起きたら」


 背や肩が熱く痛んだ。しかし、起きれないほどではない。

 少女は手渡された湯飲みから水を飲んだ。


 見回すと、板の間と土間の二間だけの、粗末な小さな部屋の中に彼女はいた。突然、乱暴に木戸が開き、外から四十ばかりの女が顔をだした。


「おかあちゃん!」


 大声でそう呼んだ女は、少女が起きていることに気づき、彼女に豪快に笑って見せた。


「起きたんで? 怪我は? こないに小さい子がどないしたん? おまはん、どこの子で?」


 返事をする暇もなく、勢いよく次々と質問され、少女は目を白黒させる。

 そのとき、ようやく少女は気づいた。


「なんで、胡北の言葉」


 そのつぶやきに女は、板の間に上がり、少女の布団の横に座った。


「胡北ってわかるんで? この長屋は大家さんが胡北の人やけんな、店子はみいんな胡北のもんばっかりなんでよ」


「私、胡北に帰りたくて」


 震える少女の声に、女は大きく驚いて見せた。


「何あほなことを。外は敵の軍が来てるんでよ」


 帰れない。その事実が少女の胸を刺した。


黄雀(こうじゃく)、そないなこと言われん。かわいそうに」


 老婆が少女の肩を抱き、女を強くたしなめた。


 優しい慰めに、思わず涙が流れた。

 何より故郷の言葉に囲まれていることに、言いようのない安堵を覚えた。急に体から力が抜けた。


「そないに泣きよらんと。おまはん、名前は」


 黄雀と呼ばれた女も少女の手を取って、きつく振って慰めた。


晶瑛(しょうえい)


 少女は三年ぶりに自らの名を口にした。




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