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聖なる宝玉と、血塗れた王冠  作者: 十川 夏炉
第二章 聖宮密謀
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09.奇貨居くべし (2)



 大聖堂から聖歌が聞こえる。


 夕方の礼拝が始まった。

 神官は全員が大聖堂に集まり、神々に祈りを捧げていた。


 聖宮の薄暗い大廊下を、提燈(ランタン)を手にした少女が一人足早に歩いていた。

 提燈の硝子の中で、蝋燭(ろうそく)の炎が揺れ、銀の髪が輝いた。


 人気のない大廊下に、小さな足音が響いてこだまする。

 少女の背より三倍は長い影が床に落ち、歩くにつれ提燈の火に揺らめいた。


 大神官の部屋で斎女は足を止めた。

 扉の前で左右を素早く確認し、誰も見ていないことを確かめる。

 斎女は、小さく開けた扉の隙間から、音もなくするりと中に入った。


 控え室には、誰一人いなかった。

 中から扉にゆっくりと鍵をかける。

 静かな室内で、鍵の落ちる音が思いがけず大きく響き、斎女はぎくりとした。


 息を整え、奥にある大神官の執務室に入り、再び扉の鍵をかける。


 提燈(ランタン)を手に、机の奥にある窓を開け、身を大きく乗り出した。

 長方形の窓は上半分は硝子が嵌め殺しにされており、下半分しか動かすことはできない。

 しかし、体の小さな彼女にとっては十分過ぎる大きさだった。


 大神官に通れて、彼女に通れないはずがない。

 外壁に沿って下がる雨樋の鎖まで手が届くかが懸念されたが、窓から目いっぱい体を伸ばせば、なんとか届きそうだった。


 日没までもう時間がない。


 少女は素早く白い長衣を脱ぎ落した。

 すっぽりと体を覆いつくす長衣を落とすと、袖も裾も短い街の子供が着ていそうな粗末な服が現れた。


 書き物机の一番下にある、大きな引き出しを静かに引く。

 中から、華やかな唐草模様の装飾に彩られた箱を取り出し、卓上に置いた。

 昼に机をあらためたとき、中年男性である大神官が持つにはあまりにも不自然な箱を見つけた少女は、その中身に思い当たる節があったのである。


 美しく彩色された木箱の蓋を開けると、そこには黒い硝子瓶(ガラスびん)、黒い櫛、折りたたまれた紙があった。


 紙を広げ、提燈(ランタン)の火に透かすように小さな文字を少女は読んだ。

 思った通り、そこには髪を染める方法が記載されていた。

 極めて貴重な合成染料だ。


 斎女の銀の髪はあまりにも人に良く知られていた。

 銀髪を持つ者は非常に稀なのだ。

 冠城(かんじょう)で銀髪の少女といえば、すなわち斎女を意味する。


 黒い硝子瓶(ガラスびん)を小さく振り、その中にある液体の量に少女は眉をひそめた。かなり少ない。これでは背をおおい腰にまで届く彼女の髪を染めることはできない。


 時間がない。

 日暮れとともに聖宮の門が閉まる。


 少女は乱暴に机の引き出しという引き出しを開けた。

 手を突っ込み、何か切る道具がないかと探す。


 文具が入った引き出しに、手紙用の便せんと共に、華麗な装飾を施した紙切り小刀(ペーパーナイフ)があった。


 紙切り小刀(ペーパーナイフ)を右手に、銀の髪を左手で鷲掴みにし、力任せに髪を切りつける。しかし、封筒を切るためだけに作られた小刀は、髪の一筋すら切ることができなかった。


 何度刀を髪に叩きつけても、髪は切れずに刀は跳ね返り、髪に引っ張られ頭の表皮が痛くなるだけだった。


「ああっ」


 苛立ちの声がもれる。少女は頭を机につけると、髪を机上に束ねて置き、かなり無理な姿勢から、小刀を机に垂直に振り落とした。


「くっ」


 暗く広い室内に、低く呻く声が響く。

 遠くでは聖歌が聞こえる。


 時間がない。

 こんな好機は二度とない。

 焦りが彼女を追いつめていた。

 刀を握る(てのひら)に汗がにじむ。


「ああっ」


 まったく髪を切れない刀を、力任せに壁に投げつけた。

 一体どうすればいいのか、涙がにじむ目で部屋を見回す。


 ちらちらと揺れる蝋燭の火が目に入った。


 喉がごくりと鳴る。

 心臓の打つ鼓動がひと際大きく聞こえた。


 彼女は震える手で提燈(ランタン)硝子(ガラス)の胴をゆっくりと取り外した。

 硝子がこすれ、耳障りな音を立てる。


 大きく息を吐き、きつく目を閉じて震える手を握りしめた。


 勢いよく緑の目を見開くと、乱暴に長い髪を両手でつかみ、その先端を蝋燭の炎に差し出した。


 手が震え、毛先が上下に激しく揺れる。

 先に火がともると、瞬く間に炎は髪を駆け上った。


 上ずった悲鳴を上げそうになるが、無理やり息を吸い込み、少女は耐えた。鼻をつんざく恐ろしく気持ち悪い異臭がたちこめる。炎が皮膚を焦がす。


 もう十分だ、危険だ、早く消せと叫ぶ声と、まだだ、まだ髪は長すぎると宥める声が少女の頭を駆け巡り、心臓が早鐘のように鳴り続ける。全身から汗が噴き出る。恐怖に顔が引きつり、口から押えきれない声が漏れる。


 耳に炎を感じた瞬間、恐怖の悲鳴を押し殺し、少女は床を転がり頭を絨毯に押し付けて、脱ぎ捨てていた長衣で叩き、炎を消した。


 黒く炭化し燃え残った髪がばらばらと床に落ちる。


 鼻が曲がる恐ろしい臭いがした。腐った脂を焼いたかのような吐き気を催す異臭だった。


 ざんばらに残された髪は、長いものでも肩に届きはしなかった。短いものは耳の横で焼き切れている。これだけ短くなれば十分だろうと思われた。


 硝子窓を鏡の代わりに、瓶に残された髪染め全量を手早く髪に塗りたくると、焼き焦げでほつれた長衣を手で縦長に割き、頭にしっかりと巻き付けた。頭部すべてを覆いつくすように二重に巻き止める。説明書によれば染め終わるまでは三時間。染料が落ちないように、じっと待つべきなのだろうが、彼女に残された時間はない。


 硝子の風よけを元に戻した提燈(ランタン)を手にとり、腰に結わえ付けると、斎女は下半分が空いた窓から大きく身を乗り出た。


 小さな体を窓から雨樋まで精一杯に伸ばす。何度か空振りをした後、樋を掴むことに成功した。


 北の遊牧地で羊を追いかけていた少女は、見かけよりはるかに丈夫だった。

 聖宮に入ってからも毎日のように尖塔に登っていたため、かなり足腰が強かった。


 しっかりと両手で雨樋を握り、するすると地上にまでたどり着く。左右をうかがい、誰も見ていないことを確かめると、少女は走り出した。


 すでに日は大きく傾き、世界は闇に沈もうとしていた。

 礼拝の時刻、聖宮に人気はなく、彼女を咎める者はいない。

 力いっぱい走り続け、聖宮の出入り業者が使う通用門をくぐり抜けた瞬間、少女は空を見上げて声をあげた。


 三年ぶりに外に、聖宮の外に出た。


 歓喜が、体の奥から湧き上がる喜びが全身を満たす。体を流れる血という血が熱くわきたち、体重がなくなったかのように身が軽い。


 禍々(まがまが)しく赤い夕闇が空を覆うのを見上げ、知らず流れ落ちていた涙を両手で拭い、彼女は力強く走り出した。


 最も近い開光門まで八百(メートル)ほど。道はいつも尖塔から見ていたからわかっていた。


 帰ろう。

 故郷に。

 家族のもとに。


 ただその思いだけが彼女を突き動かしていた。小さな少女は敵襲の報せに混乱を極める王都の人込みの中に消えた。



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