後編
それからリリは、黒い服の人と旅に出ることになりました。
その人は、セトという名前でした。
旅に出る前、リリはセトと似たような黒い服を着て、後ろに布が垂れた帽子を被りました。
そして草原を歩き、森の入り口で身を休め、時々村に立ち寄ります。
村は余所者に良い顔をしませんが、セトが首から下げた十字の飾りを見れば、あからさまに嫌なことはしませんでした。
セトは受け入れてもらったお礼にお祈りをして、村の人に知恵を貸していました。
リリに出来ることは雑用だけでしたが、村の人の表情を見れば、大嫌いが影を落としているのが分かります。
リリは出来る限り一人ひとり、手を握って言いました。
「信じてくれて、ありがとう。あなたの優しい気持ち、すごく嬉しい」
リリの思う、大好きの種。
それが育つよう、リリは精一杯包み込んだ手を温めました。
そんな日々を繰り返し、リリとセトは旅を続けます。
月の形が何度か巡り、二人はとある街に辿り着きました。
そこは大好きを育てることができないほど、荒れてしまった場所でした。
あちこちで悲しい声がして、壊れてしまったものもたくさんあります。
(……すごく、痛い……)
リリは胸をぎゅっと握り締めました。
セトは困っている人に声を掛け、できる限りのお手伝いをしました。
リリも彼に倣って、自分ができることをしていきます。
そうしていると、ある人がセトの黒い服を掴んで、崩れるように座り込みました。
「――お願いです……。どうか……さいごに、祈ってやって下さい……」
セトは静かに頷いて、その人の後についていきます。
するとそこには、大嫌いの苦しさで息を止めてしまった人がいました。
セトは、みんなの神様にお祈りをします。
リリにはセトの言う、神の御許への旅がどれくらい長いか分かりません。
見守りながら、こう思います。
(『大嫌い』を持ったまま歩いていくのは、すごく、辛いよ……)
リリは、セトのお祈りが終わった後にその人の傍に行きました。
そしてシズが昔リリにしてくれたように、額に口付けて言うのです。
「――おやすみ。大好きだよ……」
どうかこのあたたかさが、その苦しみを和らげてくれますように。
リリが瞬いた拍子に優しい雫がぽたりと落ちて、冷たい頬を濡らしました。
それからリリは、同じように大嫌いを抱えて眠ってしまった人に、大好きを届けて回りました。
セトはリリについて、時々、リリが枯れてしまわないように水をやりました。
日が落ちれば休み、明るくなればまた同じようにします。
そうして街の端に行き着くと、リリの村に嫌なことをしたのと同じ服を着た人が、何人も眠りについていました。
リリはその色に身を強張らせましたが、すぐにセトの言葉を思い出します。
(……リリは…………)
もし動いていれば、近づくことはできません。
都合がいいのだと分かっていましたが、遠い、遠い、大嫌いの終わりを願います。
リリの身体は震えています。
ですが、一歩踏み出しました。
嫌なことをしてきて、最後には大嫌いを向けられてしまった人たち。
(……きっと、苦しかったよね……)
リリは少しも動かない手を取りました。
それを自分の額に当てて、芽生えた思いを口にします。
「もういいんだよ……、リリたちも……ごめんね……」
リリはその場に横たわるみんなに、同じように伝えました。
その少し離れたところでは、リリの姿を目にした街の人がセトに声を掛けていました。
「あの者達にまで同じように祈るのですね。流石、あなた方だ」
彼は、大嫌いを胸に宿していました。
恐らくセトにはそれを枯らすことができません。
けれど、事実を語ることくらいはできました。
「……同じではありませんよ。あの子の村はもう、ないのですから」
セトの答えに、その人の顔が大きく歪みます。
言いたいことは、セトにも分かりました。
「『それでも』――、大好きを増やしたいのだそうです。そうすればいつか、大嫌いがなくなるから、と」
それからというもの、街の端に行く二人を止める人はいなくなりました。
***
二人が街にいるうちに、またどこからかたくさんの人がやってきました。
中には辿り着いて、疲れて眠ってしまう人もいます。
リリはセトと街のお手伝いをしながら、彼らにお休みと大好きを繰り返しました。
数えきれないくらいの昼に、夜に、出来る限りのリリの思いを伝えます。
気づけば少し大きかった服がぴったりになり、リリは自分のことを『わたし』と言うようになっていました。
それと同時に、変わった呼び名を耳にするようになります。
リリがそれを初めて聞いたのは、大好きではなく、街の端でごめんねを伝えた後でした。
「聖女さま……後程、こちらにも来ていただけますか……?」
その時は、何のことだろうと思っただけでした。
ですがそれは日毎に増えてゆき、リリは段々と落ち着かなくなります。
知らない言葉の中に、リリの思う以上の何かがあるように感じられたのです。
目を伏せるセトに、ある日、リリは尋ねました。
「セト、『せいじょ』って、なに……?」
「……誰をも愛し、救う、素晴らしい女性のことを……そう、呼ぶのです」
リリは大きく目を見開きました。
すぐに返事ができないくらい、思いもよらないことだったのです。
少ししてからリリが待って、と言おうとした時でした。
「聖女さま」
再びそんな声が掛けられて、リリはびくりと飛び上がりました。
ざわざわとした気持ちを抱えながらも、『大嫌い』のせいで苦しんでいる人のところへと向かいます。
するとどうしてか、頭の中でだめだという声が聞こえました。
けれど、リリはそれを振り払って『大好き』を口にします。
――どこか違う。そう思ったそれに、街の人が言いました。
「――ありがとう、聖女さま」
その瞬間、リリは胸に刃物が突き刺さったような痛みを感じました。
それがどうしても堪えられなくて、リリは背を向けて駆け出しました。
走って、走って、誰もいない街の果て。
足を止めたリリは、そこで身体に溜まっているものを出してしまいそうになりました。
(――……っ、わたし、は……!)
とても大変なことをしたと、リリは気が付いたのです。
リリはシズが戻ってきてほしくて、大嫌いをなくしたかったのです。
セトの言うように、誰もを救おうと思って大好きを伝え始めたのではありません。
それどころか、心のどこかで眠った人がシズでなくて良かったと――そう思っていた事にも気づいてしまいました。
それは紛うことなく、『ありがとう』への深い裏切りでした。
「リリ」
後ろから、声が掛かります。
リリを呼び捨てで呼ぶのは、もうその人しかいません。
「――セト、ごめん……っ、わたしは、……わたしは酷い……!」
「何故?」
「だってわたしは……っ、自分のために、みんなに大好きを押し付けてただけだ……! 大嫌いがなくなるように、シズが帰って来てくれるように……っ」
自身の過ちを露にしたことで、リリはまた気持ち悪さに襲われました。
口を押えてしゃがみ込み、込み上げるものを飲み込みます。
そうすることは狡いのに、目からはぽろぽろと自分のための雫が落ちていきました。
セトは、その震える背中にそっと、手を伸ばします。
「……貴女に、私のお仕事を教えてあげますね。
私はね、道に迷った者を導くのがお仕事なのです。
間違った道に進もうとするものに、自分を見つめ直す機会を与えるのがお仕事なのです。
私はずっと貴女を見てきました。もし貴女が間違っているのなら、私はお仕事をしていなかったことになりますね」
「――っそんなことない……! セトは、……セトはいっぱい頑張ってた……!」
リリは俯いたまま首を振ります。
「なら、私はちゃんとできていたのですね。そして、貴女も間違っていなかった。
……少なくとも、『大嫌い』は痛いと、なくしたいと願って流した貴女の涙は……自分の為だけではなかったと、思っています」
旅の始まりを知るセトの言葉に、リリは漸く僅かに顔を上げました。
「リリ。自分を一番に、大好きに思うことは大事なことです。
それでもそう思えないなら言いましょう。
リリ、私は貴女が大好きです。
だからこれは、私が私のために願うこと。
どうか貴女の――貴女自身に向ける『大嫌い』が、消えてなくなりますように」
そう願いながら、セトはリリの頬を包み込み、こつりと額を合わせます。
それは、とても久しぶりに『リリ』に贈られた大好きでした。
途端にリリの中の、冷たくて鋭い痛みがやわらかくなり、温かさが胸に溢れていくのを感じます。
そうして、リリはからからになるまで、セトの傍で涙をこぼしたのでした。
***
セトとお話をしてから、リリはまた顔を上げました。
大好きを届けるのは止めませんでした。
代わりに、リリは自分の名前を呼んで欲しいとお願いして、シズが戻ってきて欲しいのだと素直に口にしました。
すると皆そうかと頷いて、会えるといいねと願ってくれるようになりました。
とはいえ『リリ』の後ろにいらないものがくっつくのはなくなりませんでしたが、セトはそれは諦めなさいとリリに言いました。
日が経ち、次第にリリのお話は色々な人の口に上るようになります。
街にはいろんな人が訪ねてくるようになりました。
月が過ぎ、『大嫌い』に疲れた人がリリと同じような願いを強くします。
リリは変わらないことを続けました。
それがどれだけ難しいか、共にいるセトはよく知っていました。
そして年を超えて、とうとう『大嫌い』を叫ぶ声が枯れました。
人々が喜びと悲しみをもって大好きを伝え合い、ごめんねを胸に抱く中で、『大嫌い』をやっつけに行っていた人達がその街に帰ってきました。
リリはセトと共にそのお話を聞きながら、街のお手伝いを続けます。
そして最後にお休みと大好きを伝えた後、セトがリリにお水を飲ませてくれました。
「ありがとう、セト」
「いいえ。よく頑張りましたね」
セトの言葉はどこか終わりを思わせる響きがありました。
確かにシズが帰って来るのなら、リリはもう大好きを伝えなくてもいいのでしょう。
ですが――。
「……あのね、セト。わたし思うの。『大嫌い』は枯れる前にきっと種を落としてる。だけどね、もしそれが芽吹いてしまっても……大好きがたくさんあれば見えなくなっちゃうと思うんだ」
――だからわたしは、これからも大好きを伝えたいな。
その答えを聞いた瞬間、セトはリリを抱き締めていました。
「貴女は、本当に……」
「セト?」
「……それも、自分のためですか?」
「うん。大嫌いで一杯になるのは、もうたくさんなの」
リリが迷わずに答えると、セトはどこか呆れたように笑います。
「リリ」
「どうしたの?」
「街中、走っておいでなさい」
突然のセトの言葉に、リリはぽかんとしてしまいました。
そんなリリの様子には構わず、セトは話を続けます。
「物陰から荷台の隙間まで、くまなく探して最も好ましいと思うものを見つけてきてください」
「……えと、何で?」
リリは目を瞬いて尋ねます。
「貴女に水を飲ませるのは、私だけでは足りなさそうです。貴女をとても大事にしてくれそうな方にも任せたいと思います。――出来ますか?」
リリはセトの言いたいことがよく分かって、力強く頷きました。
「――うん! セト、本当にありがとうっ。今までも、これからも、わたしはセトが大好き!」
咲き誇る笑顔に、セトは優しく微笑み返します。
それは彼にとって、決して枯らしたくないものでした。
***
動く人波に、運ばれる荷台の中に、リリは懐かしい姿を求めます。
途中たくさんの人にどうしたのかと尋ねられ、リリはシズを探していると答えます。
するとみんな嬉しそうに、分かったと頷いてくれました。
リリがまた走り出して暫くすると、誰かが『シズ』という人がいると教えてくれました。
そして傷ついた人たちを癒す場で、リリはついにその色を見つけます。
身体つきも表情もすっかり変わっていましたが、髪と瞳の色は昔と同じ。
間違いなく、シズでした。
リリが部屋に足を踏み入れると、シズの目が彼女を捉え、そして悲しげに歪みます。
けれど、リリはそれに構うことが出来ません。
すぐにシズの傍に駆け寄りました。
「シズ、良かった……! 戻ってきてくれた……っ」
リリの喜びに反して、シズは暗い顔で俯きます。
そしてまるで遠い人のことを話すように、リリのことに触れました。
「……君のことを、何度も聞いた。始めは誰か分からなかったけれど……途中で名前が呼ばれるようになって、すぐに『リリ』だって分かったよ。……やっぱり、リリはすごいね」
「……すごくないよ……わたしは自分勝手に、大嫌いをなくしたかっただけだから。シズに会いたかっただけだから……」
まるで、見えない壁が出来たようでした。
リリが寂しげな目を向けると、シズはぎゅっと手を握り締めます。
「僕は……君とは真逆の事をしてきたんだ。村の事を聞いて、大嫌いが強くなって、リリが悲しむ様な事をたくさんした。もう、昔みたいにはいられないんだ……」
傷ついたシズは、『大嫌い』の苦しみをたくさん抱えていました。
それは彼の大好きを一かけらも許そうとはしないのです。
とても辛くて、悲しくて、リリはシズをぎゅっと抱き締めました。
「――ねぇ、シズ。あなたがくれた大好きで、たくさんの想いが生まれたよ。『ごめんね』も『ありがとう』も『信じてる』も、みんな大好きの種なんだ。
シズの中にごめんねがあるのなら、いつかきっと大好きを言える日が来るよ。わたしはそう、信じてる。
……だからね、その日までわたしと一緒に旅をしよう。そしてシズが枯らしてしまった大好きよりも、もっとずっとたくさんの想いを届けよう」
リリを励まし続けた、いつかの約束。
それが今度はシズの優しい道となるように、リリは思いを込めて彼の額に口付けました。
「――大好きだよ、シズ。生きていてくれて、ありがとう」
***
ひとつ、お話をしましょう。
大嫌いの痛みを知る、優しい少女のお話です。
彼女はその温かな心で、生けるものも死せるものも、皆包み込んでくれたそうです。
一つ所に留まることのなかった彼女は、知恵と優しさを持つ者たちに支えられながら、たくさんの場所を訪れました。
そしていつも祈っていたそうです。
全ての人の傍に、大好きが枯れずに在り続けますようにと。
最後までお付き合い下さりまして、本当に有難うございます。
綺麗事ですが、悪くないと思う方がいてくれたら嬉しいです(*_ _)
以下は補足みたいなもの。
リリとシズは5~6歳差くらいのつもり。セトはリリより10歳は上です。
そしてこの世界で広く説かれている教えからすると、本当はシズの村の人の方が『異教徒』で、セトはその監視役。しかしながら彼は元はあまり真面目な聖職者ではない……という設定。
その後の三人の旅は、きっとリリが引っ張っていくと思います。シズはいつもリリを見つめていて、セトは保護者兼お話の伝達者となっていく予定。