前編
「リリ、大好きだよ。お休み」
シズはいつもそう言って、リリの額に口付けてくれます。
リリがどれだけぼろぼろでどろどろでも、嫌な顔をしたことはありません。
「ありがとうっ、リリもシズが大好き」
月明かりの下で咲いた笑顔を見て、シズは穏やかに微笑みました。
シズとしてはもっと明るいところで見たいと思うのですが、それはできない相談でした。
リリがシズと話せば、酷い目に合うのはリリの方だからです。
シズは村長の子どもで、リリは孤児でした。
その上、リリは『いきょうと』との間の子どもなので、本当はその村にはいらないのだそうです。
ですがリリは、皆がしたがらない仕事をすることで、村にいることを許されていました。
誰よりもたくさん働いて、『係』の人からご飯を貰い、村のはずれの小屋で眠る――それがリリの日常です。
そこに『大好き』が入り込む隙間などないのですが、どうしてかシズはそれをくれました。
リリは昔、理由を訊いてみたことがあります。
シズの答えはこうでした。
「リリは、すごく綺麗だから」
「リリ、汚いよ……?」
リリはシズの言うことが分からなくて、困ったような顔で彼を見上げました。
すると、シズは優しく微笑みます。
「じゃあね、リリ、この村で嫌いな人はいる?」
「…………嫌いは、いやなの……」
それは、悲しくて辛いことでした。
しょんぼりと俯いたリリを、シズはぎゅっと抱き締めます。
「――ねぇ、リリ。いつか、僕と一緒に旅をしよう。綺麗なものを見て、美味しいものを食べて、たくさんたくさんリリの大好きを増やそう」
「うんっ!」
素敵な夢のお話と、シズの大好きが詰まった優しい温かさ。
それを抱えて、リリは毎日眠りにつくのでした。
***
そんなある日のことです。
リリが言いつけ通りのお仕事をして村に帰ると、どこにもシズの姿が見当たりませんでした。
村の外へお使いに出たようでもありません。
不思議に思ったリリは、日が落ちた頃、こっそりと村長の家を窺いました。
(……シズ、いない……)
それに、何やらみんな暗い顔をしています。
不安になったリリは、『係』のおじさんからご飯を貰う時、シズの名前を口に出してみました。
けれど、彼女の耳に届いたのは扉が閉まる音だけ。
リリはしょんぼりとしながら小屋に戻り、薄い布切れを被って丸くなります。
シズの大好きがなくて、リリは痛くて寒いまま。
その日の夜は、とても長く感じました。
次の日、リリは機会を見つけてはシズの事を聞いてみます。
その声が聞こえる人はなかなか現れませんでしたが、日が傾いてきた頃に、ようやく一つの答えを手にします。
シズは、誰か知らない人の『大嫌い』をやっつけるために、遠くへ行ってしまったのでした。
(――大嫌いだと、やっつけないといけないの……?)
リリも目障りだといって、よくぶたれます。
人の『嫌な気持ち』はきっと、それをやっつけたいと思わせるのでしょう。
(やだな……)
シズはたくさんの大好きをくれる人です。
なのに誰かの嫌な気持ちに染まって、嫌なことをするのはすごく悲しく思えました。
(どうすれば、帰ってきてくれるのかな……?)
お仕事をしながら、考えます。
考えて、考えて、一日の終わり、投げるようにして貰ったパンを抱えて空を見上げたときでした。
(……そうだ、大嫌いがなくなればいいんだ)
あの温かさが大嫌いより弱いなんて、リリは絶対に信じません。
だって、どれだけ嫌な気持ちを身に受けても、シズの大好きがあればリリは明日を信じられるのですから。
(リリが大好きをたくさん伝えたら、大嫌いがなくなってくれるかもしれない……!)
そう思い付いたリリは、早速やってみようと思いました。
けれど、リリはいつも俯いていて、シズ以外とはほとんど話したことがありません。
リリを見れば、嫌な顔や痛いことをする人ばかりだからです。
上手く言い出せずに時間が過ぎて、夕食を貰うとき、リリは頑張って、頑張って顔を上げました。
「……あ、ありが、とう……」
残念なことに大好きと言えなかったけれど、おじさんの目が大きく丸くなりました。
リリは彼の嫌な顔以外を初めて見たのでした。
それからというもの、リリは大好きが言えない代わりに『ありがとう』を伝えました。
中にはそれを強請っていると受け取り、怒りだす人もいました。
けれど、リリは止めませんでした。
来る日も来る日も、同じことを繰り返します。
そして、ひとつの季節が過ぎようとしていた、ある夜のことでした。
「ほらよ、今日の晩飯だ。……食うもんが厳しくなってるからこれしかねぇが……」
そう言い訳をしながら、おじさんはさらさらのスープとパンをくれました。
「ありがとう、いつも。……リリ、今は、おじさんのこと……大好き」
「――っ、この……」
おじさんの顔が歪んで、ごつごつとした大きな手が伸びます。
上から降ってくるそれに、リリはびっくりして目をぎゅっと瞑りました。
ですが痛いことは起こりません。
「……俺も、お前が嫌いじゃねぇよ」
そんな素っ気ない言葉と共に、リリの頭はぐりぐりと撫でられたのでした。
ぱたりと扉が閉まる音がして、リリははっと気がつきました。
貰ったごはんを持ったまま、久しぶりに俯きます。
ぽたぽたとスープが水を弾く音がしました。
(――……シズ、やったよ……っ。やっと、シズ以外の人に、大好きが言えたよ。こんなにも、こんなにも『嬉しい』んだね……)
これがもっとたくさん増えて、どうかシズに届きますように。
リリはそう願いながら、夜空を見上げました。
そうして初めて貰った『嫌いじゃない』を胸に抱えて、リリはいつものように丸くなって眠りについたのでした。
***
翌朝、ある男が他の村人と話していた時のことです。
「……その、いつも……ありがとう」
彼がそう口にしたとたん、相手の目が真ん丸になりました。
「なにを、突然……」
「いや、ちょっとな……」
それは、小さな、小さな変化でした。
池に石粒を投げ入れたときのような、小さな波紋。
ですがそれはささやかに、それでも確実に村に広がってゆくのでした。
***
汚い、邪魔、煩わしい。
それがリリの貰ういつもの挨拶。
なのにそれが、よう、とかどうだ、という言葉に変わってゆきます。
それはいつか、『大好き』を咲かせる種。
いつの間にか増えたそれに、リリの胸が温かくなります。
(やっぱり、『大嫌い』はなくせるんだ。待ってて、シズ。リリがもっともっと、大好きを届けて見せるから……!)
リリはシズを想って、心に決めた誓いを強くするのでした。
しかし、そんなリリを嘲笑うかのように、誰かの大嫌いは膨れ上がっていきます。
そしてそれは、唐突に彼女に牙を剥きました。
優しい色合いの村に深紅が広がり、胸を裂くような声がリリの耳に届きます。
(――やだ……っ!――『大嫌い』ってこんなに強いの? 痛いのに、苦しいのに、どうしてこれが広まるの……っ)
広がりかけた大好きが一瞬で消えていく様に、リリは物陰から動けなくなりました。
今までより遥かに嫌なことをする人がうろうろとしていて、リリのいる方に目を向けます。
(――っ!)
息を飲んだ瞬間、誰かがリリの体を引っ張って担ぎ上げました。
その人はまだ静かな森の中へと飛び込んで、一目散に走っていきます。
うつ伏せのリリの目に映ったのは、地面と、見慣れたおじさんの背中だけ。
遠ざかっていく土には、馴染みのない赤黒い道筋ができています。
その先に待ち受けるものに、リリは目を逸らし続けました。
やがて二人は白い、小さな建物へと辿り着きました。
おじさんはそこへリリを放り出すようにして下ろし、自分はその場に倒れてしまいます。
「おじさん……!」
リリは必死で呼び掛けましたが、おじさんは顔を顰めて荒い呼吸を繰り返すばかりで、答えはくれません。
石の床がじわじわと濡れていき、リリはさあっと冷たくなりました。
「――これはこれは。珍しく誰か来たと思ってみれば」
不意に響いた、男性の声。
リリがびくりとして振り返ると、そこには穏やかそうな見た目をした男性が立っていました。
彼は村では見たことのないような、飾り気のない真っ黒な服に身を包んでいます。
「……うるせぇ……こいつなら、いいだろ……」
「! おじさん、しゃべっちゃだめ……!」
リリは慌てておじさんの言葉を止めました。
彼が息をする度に、だんだんと悲しい匂いが濃くなっているような気がしたのです。
リリが震えながらおじさんの服をぎゅっと握り締めると、その手元に暗い影が落ちました。
どきりとして見てみれば、黒服の人が膝をついておじさんの具合を診始めています。
「全く……これでよく、来られたものです」
零された声音には、諦めの色が強く感じられました。
リリはその意味に敏く感づき、さっと顔色を変えました。
「や、やだおじさんっ。リリ今日のごはん、貰ってない……! だから……っ!」
とても珍しい、リリの我儘。
ですが、シズ以外の人がそれを聞いてくれたことなどありません。
そしてこのお願いも、きっと叶うことはないのです。
(どうして……)
リリの大好きなんて、簡単に消えていくのです。
何もかも、大嫌いが枯らしてしまうのです。
(――、もう……、リリは……っ!)
リリがそれを見失いかけていた時でした。
ずいぶん冷えた手がリリに触れました。
「飯、やれねぇが……逃がしてやったんだ……」
言うことがあるだろ、と話すおじさんに、リリの顔が歪みます。
あの日からずっと、リリが欠かすことなく彼に伝えてきたことは――。
「――っ、ありがと……おじさん。――『大好き』」
「――……だろ、忘れんな……絶対。お前は、それで――」
その続きは、いつまで待ってもリリの耳に届きませんでした。
そのあと建物の中が騒がしくなったこともありましたが、黒服の男性が言葉を発すると、また静けさが戻ってきました。
内側からあふれる水でリリはすっかりからからになってしまって、おじさんの傍で目を閉じます。
次に気がついたとき、リリは長椅子の上で横になっていました。
「……残念ですが、私がここに居る意味はなくなってしまいました。貴女はこれから、どうしますか?」
黒服の人が目覚めたリリに訊ねます。
どうすればいいか、リリには分かりませんでした。
村は『大嫌い』に飲み込まれてしまいました。
帰る場所はありません。
でも、リリにはひとつ大事なことがありました。
「……『大好き』を、増やしたい……」
リリは、忘れるなと言ってくれたおじさんの言葉を守りたいと思いました。
ですが、男の人は難しい顔をしました。
「……そう簡単なものではありませんよ。貴女は、先程の人間達も大好きだと言えますか?」
「っ……」
「村を出たものもどこかで同じことをしています。互いの憎しみは深くなる。大嫌いなどという言葉では済まされません」
相容れないこともあるのです、と冷たい声が落ちてきます。
リリは俯いて、唇を噛み締めました。
きっと怖くて、辛くて、悲しいことがいっぱいです。
でも、――それでも。
「それでも……それでも、大好きだって言わなきゃ、リリが言わなきゃ誰にも言ってもらえない……!
リリもはじめは言えなかった。だからありがとうから始まったの。そんな風に、『大嫌い』がなくなる始まりを探したい!
だって、大嫌いは……すごく痛くて苦しいから……っ!」
リリが叫べば、彼は深く溜め息をつきました。
そして呟きます。
神の試練とは、かくいうものなのですね、と。