少年は魔法使い
過ぎ去った夏の郷愁的ななにか。
前の短編より短いですが、5分割の予定です。
後半、性交渉をにおわす表現がありますので、苦手なかたはご注意ください。
あ、と口を開いたのは同時だった。
男の子の手につままれた金魚が、ぱくんとその小さな口に飲み込まれた瞬間。
ごんっ、と大きな音を立てて、手に持っていた袋が床に落ちた。
静まり返った校舎に、耳障りな蝉の鳴き声が、やけに大きく響いていた。
「いやぁ、まさか見られちゃうとはなー」
そうへらりと笑うのは、7月はじめの席替えで隣の席になった男の子だ。先程ぱくりとやった金魚は、無事に水槽へと生還を果たしていた。
いま同じ口でガリガリと咀嚼しているのは、わたしが手に持っていて、先程落下させてしまったマフィンだ。
効果音が間違っているって? いやいや、そんなまさか。
「てか甘い。くっそ甘いねこれ。もはや砂糖のかたまり」
「文句言うなら食うな」
「んーん、おれ甘いの好きだし」
そう言って平然と砂糖のかたま……いや、マフィンを食べている少年に、わたしは「ふーん」とさも興味がなさそうな返事をしながら、内心ガッツポーズだった。
「金魚食べるよりマシでしょ」
「いや、だから食べてないって! すぐ戻したの見たろ」
「えー、わたしが見てたから戻したんじゃないの」
「違うって! 信じらんないかもしれないけど、おれ、魔法が使えるんだよ」
あくまでも真剣な顔で言う少年に、おかしさがこみ上げてくる。
にやにやと口元を歪めながら、わたしは机に肘をついた。
「へぇ〜そうなんだ。
金魚を食べれるようになる魔法?」
「違うよ、生き物を元気にする魔法だよ」
「なにそれうける」
少年はむうっと頰をふくらませたかと思うと、つんとそっぽを向いた。
「……いいよ、もう。おまえなら信じてくれると思ったのに」
「はぁ? なにすねてんの」
「うるさいな。おまえ帰れよ」
「帰らないよ、飼育当番だもん」
「いいって。おれがやるから」
まったく、男って本当に子どもだ。
すたすたと歩いて行ってしまった少年の背中を追いかけた。
「ねぇねぇ、そんなに怒らなくてもいいじゃん。魔法のこと、信じてあげるからさ」
「うそくせー」
「本当だって。だから一緒に当番しようよ」
なにを隠そう、今日はふたりきりの夏休みの飼育当番なのだ。
彼はちらりとわたしを見ると、気まずげに視線を落とした。
「……このこと話したの、水野がはじめてなんだ。おまえなら、教えてもいいと思って、おれ」
わたしはその言葉に、下手な相槌しか打てなかった。
嬉しいような、恥ずかしいような、妙な感覚が胸をうずかせる。
「……あ、あんまり他の人に話さない方がいいと思うよ。ほら、わたしみたいにみんな信じないだろうし」
「うん。おまえだけにする」
わたしはにやけそうな顔を、誤魔化すように手であおいだ。
「あー、今日まじで暑すぎ!」
「それな」
だらだらとうさぎ小屋の掃除をしながら、色々な話をした。
主に夏休みの宿題のこととか。予定とか。
「まじでどこも行かないの?
田中とかは? いつも一緒にいるじゃん」
「あいつの連絡先知らないしなぁ」
「ふーん。なんかかわいそーだね。わたしが遊んであげよっか?」
「おー、そだな。場所によるかな」
「じゃあ海行く?」
「市民プールにしようぜ」
「なんでよ、海のほうがいいじゃん!」
「海なんて家から見えるし」
「おーい!」
太陽が弾けている。わたしのテンションがそうさせているのか。
「着くの早くない!」
「30分前行動は基本だろ」
「いやないから」
走ってきたわたしを、彼は上から下まで眺めた。
「ちゃんと水着着てきた?」
「もちろん! 高橋は」
「おれも」
そう言ってズボンのウエストを広げて見せる。
思わずその手をひっぱたいた。
「ちょっと、見せないでよ」
「ただの海パンだろ。なに想像してんだよ、変態かよ」
「違うから!!」
真っ赤な顔で言っても説得力に欠けるかもしれないが。
高橋は口を開けてけらけらと笑った。
「電車来るからいこーぜ」
「うん」
慌てて隣に並ぶ。
健康的な肌に、色素の薄い瞳と髪をした高橋は、一見儚げな容姿だが、話してみると案外気さくで、どこにでもいる普通の男の子だ。
くしを通していないのか無造作に跳ねた後ろ髪が、ひょこひょこと揺れている。
背はわたしの方がちょっと高い。でも、おとなになるに連れて、どんどん追い抜かれていくのだろう。
いつか、見下ろされるときが来るのだろうか。そのときにわたしはまだ隣にいるのだろうか。
「ん?」
思わずジッと横顔を見つめていたら、怪訝そうに見返された。なんでもない、と赤くなった顔を逸らした。
海のある町までは電車で一駅ととても近い。
しょっちゅう遊びに行くので、もはや保護者もついてはこない。
わたしたちの小さな町ではみんなが知り合いのようなものなので、周りにおとながいれば、しっかりと見守ってくれるからだ。
「あぢー」
高橋が額に手をかざして唸った。
「高橋! はやく!」
「水野、あんまり跳ねるとパンツ見えるぞ」
「げっ!?」
咄嗟にワンピースの裾を押さえる。
が、よく考えたら今日は下に水着を着ているのだった。まったく問題ない。
でも恥ずかしかったので、高橋は睨んでおいた。
「女の子にそういうこと言うのってデリカシーないよ」
「なんだよ、黙って見てほしかったのか?」
「はぁ!? 意味わかんない!」
思い切り蹴飛ばすも、間一髪で避けられてしまった。ちっ、すばしっこいやつめ。
「ひー、こわ! 暴力女だ」
「一発なぐらせろ」
「うわー、お助けをー!」
棒読みで逃げていく高橋の背中を追いかける。
すれ違ったおばあちゃんが、あらあら元気ねぇ、と笑った。わたしもつられて笑ってしまった。
浅瀬で存分にはしゃぎまくったわたしたちは、クールダウンのために波打ち際をてくてくと歩いていた。
陽が傾いていくのが早すぎて、このまま太陽が海に落っこちてしまうんじゃないかと思った。
話しながら歩いていたら、いつの間にか岩礁地帯までやってきていた。
「あ、水野、フナムシ」
「うわっ、やめなよ」
なにが面白いのか、高橋は足でフナムシを踏みつけるふりをして追いかけている。
わたしは二次被害を恐れて高橋から距離を置いた。
「というか、人がいないところに行っちゃだめって親に言われてるんだよね。はやく戻ろ」
ここまで来てしまうとさすがに人もいない。
後ずさりながら叫ぶと、高橋はくるりと振り向いた。
フナムシ祭りは終わりのようだ。ざざざっと逃げていくのがめちゃくちゃキモいんだよね。
ホッとした瞬間、ずるりとかかとが滑った。
「水野!」
この辺りはぽつぽつと海水でぬめった石が埋まっているのだ。
なすすべもなく後ろ向きに倒れたわたしは、そのままどすんとおしりをついた。
「いったぁ……」
骨に響いてくる痛みに涙目になってしまう。
なにより手をついた拍子に尖った石が刺さったのが、一番痛かった。
手を押さえながら見ると、破けた皮膚から血が染み出していた。
「おい、大丈夫かよ」
「大丈夫じゃないよぉ」
高橋がわたしの手を見て痛そうな顔をした。
そして鞄から天然水のペットボトルを取り出し、おもむろにわたしの手にふりかけた。
消毒か? と思いジッとしていると、なんの前触れもなく、高橋が手の傷に口を付けた。
びくっとしてしまうわたしには構わず、傷口に舌を這わせてくる。
生ぬるく湿った感触と、熱い吐息に、体温が急上昇して、頭が沸騰しそうになった。
「た、高橋?」
まさかこの人は、親戚のおじさんの口ぐせ「舐めときゃ治る」という暴論を素直に信じてしまっているのだろうか。
自分の怪我よりも高橋の頭の方が心配になってきたとき、彼がゆっくりと頭を上げた。
私は一拍遅れて、息を飲んだ。
「うそ……なんで?」
血がにじんでいたはずの手のひらの皮膚は、どう見ても元どおりにくっついていた。
呆然とするわたしを無視して、唾液で濡れた手をもう一度水で洗い流し、確かめるようにそこを指で撫でた。
「よかった、大丈夫そうだな」
「高橋? なにをしたの……」
高橋は水で口をゆすぎ、吐き出してから、ようやくわたしの顔を見た。
「言っただろ?」
──魔法が使えるって。
色素の薄い瞳が陽光を弾いて、黄金に輝いて見えた。
わたしたちはしばらく無言で歩いた。
わたしが転ばないように、手を繋ぎながら。
「……借りひとつだね」
なんとか呟いたのは、そんなかわいくない言葉だった。
そうしたかったのはわたしのほうかもしれない。本気で信じてあげていなかったことへの罪悪感と、漠然とした不安が、彼を繫ぎ止める言葉を選んだ。
「いいよ。おれのせいでもあるし」
「なにかしてほしいことない?」
「だから……」
高橋はそこで一度口を閉じたが、迷うようにわたしに視線を向けた。
「……じゃあ、またおれと一緒に遊んでくれる?」
わたしは一瞬目を丸くして。でも、すぐに大きく頷いた。
高橋はホッとしたように頰を緩めた。
またと言わず、何度も、わたしたちは遊びに出かけた。
家でゲームをして遊ぶこともあったし、図書館で一緒に宿題をやったりもした。
あのときは驚いたけど、唯一、高橋の秘密を知ったわたしは、完全に優越感に浸っていた。
あからさまに距離を縮めるわたしを、彼は拒まなかったけれど、彼にわたしと同じ気持ちがあったのかはわからない。
わたしはいつだって、自分のことしか考えていなかったのだから。
「ねぇ、椋」
どんどんぱらぱらと花火が弾ける。
それは一夏の夢の祝福か、はたまた、終焉か。
「好きだよ」
耳元で告げたわたしの言葉に、彼は相変わらずのおどけた笑みで答えた。
「椋は? わたしのこと好き?」
「なおのこと? うーん、どうかなぁ」
「……好きじゃないの?」
「まぁ、好きかなぁ」
「なにそれ。むかつく」
むくれるわたしの頰を、椋がちょんとつつく。
そして顔を向けたわたしの唇に、自身のものを押し付けてくる。
あまりにも一瞬のことで、わたしはぽかんとほうけてしまった。
彼はぺろりと唇を舐めた。
「なおのお菓子のほうが甘いな」
はじめてのキスは、りんごあめの味がした。
あとになって衝撃が襲いかかってきて、その日の夜は悶えまくって眠れなかった。
そして浮かれに浮かれたまま新学期がはじまる。
そのときは本気で、なにもかもが上手くいくんだと。
わたしは、疑ってさえいなかったんだ。