番外編 箱入り娘 後編
ハルちゃんの下の名前もそうでしたが、犬飼君に妹がいたという設定も何人の読者様が覚えているのでしょうか。私も忘れかけていました(おいこら)。
やけにやかましい蝉の声で目が覚める。薄暗い自室の中は、カーテンの隙間から入ってくる陽の光とは裏腹にじめじめしている。
今日が何曜日の何日なのか、全く分からない。曜日感覚なんてものはとっくの昔に狂ってしまった。私、犬飼小枝子はこんな生活を二年前から続けている。いわゆる引きこもりというやつだ。別に勉強は嫌いじゃない。それでも私が学校に行かないのは、深緑のブレザーを着るだけで拒否反応が出るほどにあの場所が、あいつらが嫌いだからだ。
二年前、私はクラスの全員からいじめられた。いや、向こうからしたらその大半が「いじめた」なんて意識を持っていないのだろうが、私にとってはあのクラスの全員が敵だ。自分のクラスメイトの1人が鞄に塩を入れられたり、トイレに連れ込まれてリンチまがいのことをされたり、それで身体中が傷だらけになっているのに「自分は何も知りませんでした」なんて通用しない。全く知らないわけがないのだ。それなのに誰1人私を助けてくれなかった。私は何も信じられなくなり、いつしか学校へ行かずに自分の部屋に引きこもるようになった。そして今に至るというわけだ。
暑くなって腕捲りをすると、切り傷だらけの肌があらわになった。昨日の夜に衝動的に切りつけた部分は、薄闇の中では二年前の古傷とほとんど見分けが付かなくなっている。人間の身体は、持ち主が心でどんなに死にたがっていても死ぬことを許してくれない。実に身勝手だ。一年前の春にここから飛び降り自殺を図った時も死ねなかった。一軒家の二階なんてそんなに高くもないので当たり前なのだが。
心なしか蝉の声がさっきより大きくなっている。ああ、うるさい。イライラしてますます暑くなってきた。私はベッドから身を起こし、窓を開けた。日射しが当たり、目を細める。涼しい風が吹く。もう夏なのか。私は何気無く伸びをし、そしてそのままベッドに戻る、はずだった。
「うわぁぁぁぁぁん!!」
家の外から、小さな子供が盛大に泣く声がした。見てみると、小学校低学年くらいの女の子が1人、道端で喚いていた。初めは近所の子供かと思ったが、どうにも様子がおかしい。キョロキョロと動きながら泣き続けている。多分迷子か何かだろう。外にはその女の子以外にも人は沢山いたが、みんな知り合いでもないひとりぼっちの子供を助けることはせずに見て見ぬふりをして通り過ぎていった。
──助けなきゃ。
私は何故かそんなことを思い……今にして思えば、誰にも助けてもらえずにひとりぼっちで泣いているその子に昔の自分を重ねてしまったのだろうが……身だしなみを整え、二年ぶりに家の外に出た。
「ねえキミ、迷子?」
私が話しかけるとその女の子はきょとんとしたが、すぐにこくりと頷いた。
「うん。デネブとはぐれたの」
「デネ……?」
「デネブ。あたしの友達」
私は耳を疑った。最近はキラキラネームが多いと言われているが、「デネブ」なんてどうやって書くのだろうか。
「うーん……その人、どんな感じの人なの?」
「うんとねぇ……背が高くって、あたしが知らないこと何でも知ってるの!」
「……他には?」
「いっつも『やねん』とか『せやな』みたいにしゃべるの!」
なるほど、その「デネブ」とかいう人は関西から来たのだろう。だが、肝心の見た目の特徴は今のところ「背が高い」しか分からない。それに、今私の目の前にいる少女から見たら大抵の大人は背が高いので、ほとんどノーヒントに等しい。
「男の人?女の人?」
「男の人!」
とりあえず性別だけは分かった。これで探せるとは思えないが、とりあえずこの子と一緒にいてやらなければ。
「お姉ちゃん、お名前なぁに?」
「え、私?小枝子だよ」
「よろしくね!あたしデネボラ!」
「デ、デネボラ?」
キラキラネームの再来に、私の頭は混乱した。デネボラと名乗るその少女は私を見上げ、こう言った。
「さえこお姉ちゃん、お腹空いてるの?」
「え?」
正直別にそこまで空いていない。今は昼なのだろうが、生活リズムが狂いすぎて私の感覚では今は朝に近い。しかしそんなことを言うよりも先に、デネボラは無邪気に笑った。
「オマツリって分かる?美味しいものいっぱいあるんだって!行こ!」
彼女は私の手を引いて、うっすらと聞こえる祭り囃子に向かって走った。
『小枝子、行くぞ』
ふと、幼い頃の記憶が甦る。私がデネボラくらい小さかった頃、お兄ちゃんに手を引かれてお祭りに行っていた。今ではほとんど顔も合わせず、まして話なんてしないが、昔は仲の良い兄妹だった。
「……うん、行こっか」
お祭りなんて人の多い場所に行くことなんて気が乗らなかったが、彼女と一緒なら大丈夫な気がした。
肝心の「美味しいもの」は二人ともお金を持っていないという理由で食べられず、デネブという人も見つけられなかったが、私達は楽しかった。デネボラはどうやら相当な箱入り娘らしく、色んなものを見ては「あれ何?」「あれは?」と聞いてきた。その度に私は彼女の疑問に答え、彼女はにっこりと笑った。それだけで楽しかった。あの時までは。
「さえこお姉ちゃん、あれは?」
彼女が指差したのは、単なる電柱だった。しかし、その側に二度と見たくない顔が複数。間違いない、私へのいじめの主犯達だ。
あれは電柱だよ。そう言おうとしたが、私は彼女達への恐怖で崩れ落ちそうになった。
「さえこお姉ちゃん!?大丈夫!?」
デネボラが心配そうに私の顔を覗きこむ。しかし、彼女のその一言によって主犯達は私の存在に気付いてしまった。
「あれ?サエコじゃん」
「学校来てないくせにお祭りは来るんだ、セコっ」
「死ねばいいのに」
彼女達の嗤い声が、今朝の蝉の声のようにやかましく聞こえた。息苦しい。立てない。このまま死んでしまいそうだ。せめてデネボラだけでもここから逃げてほしい。私とここにいたら、彼女まで何かされてしまうかもしれない。そんなことを思って私は彼女から手を離した。
しかし、デネボラはすぐさま私の手をしっかりと握り直して走り出した。
「は?逃げんなよ!」
あいつらの角度からデネボラは見えなかったのか、どうやら「私が逃げた」ということになっているようだ。しかしそれなら好都合だ。彼女を巻き込みたくない。このまま逃げるしかない。
人混みの中を右、左、右、左。私よりよっぽど小さなデネボラの背中が、手が、何もかもが、私より大きく見えた。
人混みを抜け、人気の無い丘に出た。私達は安心と疲れでその場に座り込み、どちらからともなく大笑いした。
「……小枝子?」
どれだけ笑っただろうか、後ろから誰かに話しかけられた。あいつらとは違う、優しくて聞き覚えのある声。振り向くと、私のお兄ちゃんが立っていた。
「……お兄ちゃん、何で?」
「お前こそ何で……てか、その子誰だ?」
私が説明に困っていると、お兄ちゃんの背後からもう一人の人影が近付いてきた。
「いたいた!探したで!」
わざとなのかそうでないのか分からないボサボサ頭のその男性を見て、デネボラはパッと私から手を離して彼の元へ駆け寄った。
「デネブ!どこ行ってたのさ!」
「こっちの台詞や!勝手にうろちょろすんなよ!」
デネボラの様子を見るに、どうやら彼が「デネブ」らしい。彼は父親と言うには幼く、また親戚と言うにも血の繋がりは感じられなかった。本当に「友達」なのだろう。
「あの、その子の保護者さんですか?」
「あっ……ああ、せや、保護者や。ありがとな、犬飼兄妹」
お兄ちゃんからの質問に、デネブさんは何故か少し動揺して答えた。……あれ、何で私達の名字を知っているんだろう。私が尋ねようとしたその瞬間、デネボラが私に向かって笑って言った。
「さえこお姉ちゃんありがと!また遊ぼうね!」
デネボラはデネブさんに手を引かれて消えていってしまった。それはあまりにも、あっという間の出来事だった。
9月1日。鏡の前の私は、濃紺のセーラー服を着ていた。転校先の中学校の制服だ。箱入り娘のデネボラが私を薄暗い籠の中から連れ出してくれたあの日がなければ、こんなことにはならなかっただろう。見ず知らずの謎の少女との1日足らずの思い出が何故こんなに心に残っているのか。私は未だに分からない。……それでも、デネボラが私を変えてくれたのは事実だ。
ありがとう、デネボラ。また遊ぼうね。
「小枝子、そろそろ出なさい」
お母さんが一階から私を呼ぶ。美味しそうな朝食の匂いがした。
「はーい」
少し開いた窓の隙間から吹いた風が、私の髪を撫でた。もうすぐ夏が終わる。
あともう1つだけ短めの番外編を書く予定です。いわゆる終わる終わる詐欺状態です。すみません。




