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6、認識できるものできないもの

 世界はどのように存在するのか。今度は、認識論の方から迫ってみよう。世界を認識するのは、五感と意識である。五感と意識が世界を認識するといったのは釈尊で、いちばん始めにいったのかどうかは知らないが、釈尊の死後、作られた原始仏典には五感と意識で世界を認識しているということが釈尊の教えとして語られる。そして、無明を消すと苦しみがなくなると説いている。

 つまり、我々が認識している世界が世界の存在であり、認識こそが世界だ、と思う人もいるかもしれない。それを否定する方法はない。だが、その考えに対する風刺がヴォネガットの小説「チャンピオンたちの朝食」に書いてあるので、読んでみてほしい。独我論を風刺した最も適切な書物である。

 そうすると、我々が認識している視覚のとらえている物体は、存在していると思うだろうか。いや、存在していないといっているのが、またも登場した空海の「秘密曼荼羅十住心論」である。認識の向こうは空虚であるといっている。これは空海の説であり、インドや中国の仏僧がそういってるのかどうかは知らない。

 で、ぼくがどのように世界ができていると思っているのかというと、カントの「純粋理性批判」にあるように、認識できない物自体が存在すると思っているのである。

 ええええ、あそこにある物体は普通に存在するんじゃないのかよ、と思うかもしれないが、その保障はないのである。これがドイツ大陸哲学であり、世界は、認識できない物自体に、人間の認識がのっかってできていると考えているのである。

 では、ぼくたちが見ている物体は何か。物自体の表象である。

 物自体については、ドイツでも喧々諤々の議論をもよおした。十八世紀に出版されたカントの「純粋理性批判」は、物自体は認識できない、としていたけれど、それをうけてさまざまな哲学者がカントを反駁しようとした。

 ヘーゲルは、物自体を即自存在と置き換え、世界を説明しようとした。

 ショーペンハウエルは、物自体を意志だとして、世界を説明しようとした。

 フッサールは、物自体に対応する本質直観があるとして、説明しようとした。

 だが、すべてまちがっている。三人ともまちがえているとぼくは考える。このように、カントの物自体は百年以上たっても世界中で理解されなかった。

 だが、現在の哲学で最も信憑性の高い世界の構造は、物自体があり、それを認識することはできないが、我々の認識が物自体の表象をとらえているという見方である。

 なお、ややこしいが、「物自体」として世界を説明しようとしたのはカントだが、「物自体の表象」として世界を説明しようとしたのは、フッサールである。


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