094.イシュデンの母 サリシュ
時間は、サリシュがアトを送りだした直後にさかのぼる。
『ケルベディウロスの正体』を調べなければ!
そう思った彼女は、すぐさま、情報収集に取り組もうとした。
だが、世界最高の情報網、ローヌ島の情報機関『BB』は、そのケルベディウロスの管轄である。そんなところでケルベの正体など探れるはずがない。
つまり、お得意の『BB』は、使えない。
いえ、『BB』に限った事じゃないわ、と、すぐにサリシュは気がついた。
そもそもケルベは、『祭壇』でやりとりされる情報を、好きに出向いて、入手してくることができる。ということは、『BB』どころか『祭壇』を使う事自体が危険である。自分が正体を調べようとしていることが、ケルベにばれてしまうはず。
サリシュは、ケルベの正体を、ケルベに知られず、調べたかった。気付かれずに知る事で、手を打てる事もあると思うからだ。
しかし・・・。この場合、『祭壇』が、そもそも、使えない。
彼女は、生まれて初めて、慣れ親しんできた『祭壇』という情報網の欠点に気がついた。
これは大変便利で、優れている。けれど、知らず、支配されている。『ケルベディウロス』という、情報の番人に。
『BB』についても、そうだ。ケルベがいてこその、情報機関。
サリシュは、ふと、疑問に感じた。
自分たちが、ケルベを使い、情報を管理しているのではない。ケルベが、情報を、選ぶことで、『広く知らされる情報』というものを、管理している。正確だと思う情報全ては、だが、本当のところケルベによってもたらされた情報でしかない。
情報は正確で、偽りでないと、過去に、精査された結果があって、今の『BB』とケルベの関係がある。
だけど・・・。もし、その後、たくさんの「本当」のなかに、ひとつでも意図された「偽り」や「隠されたもの」などないと、誰が言いきれるだろうか?
全面的な、信頼関係。
それは、素晴らしい。理想的な、関係。
だけど。
ケルベディウロス。
一体何者だろう?
本当の名前も、長く『BB』にさえ、告げなかった。サリシュが、ケルベの本当の名前をケルベディウロスだと知っているのは、思いついて言ってみたら、それが当たっていただけのことだ。
自分がなぜ言い当てられたのかはこの際別として、なぜ、ケルベは自分の正しい名前を、誰にも言おうとしないのだろう? 完全に、自分たちの事を、信頼しているわけでは、無い?
何者?
情報を、選び、もたらすケルベ。
まるで・・・この世界の 唯一の神。
これは、問題が、あるのではないのかしら。とサリシュは、思った。
***
サリシュは、ケルベの正体と、『祭壇』に匹敵するような情報網が無いのかを、探ろうとした。
情報網については、祭壇を使って調べても、支障が無いように思われる。
だから調べた。けれど、結果は、サリシュが望むような、『祭壇』に匹敵するような情報網は、どこにもないと分かっただけだった。
定期的な会合による情報交換。手紙(特に東の町は、騎馬隊がこれを運ぶ)。少し変わって、伝書鳩。緊急用に、狼煙。
『祭壇』が、群を抜いて、便利すぎた。
たくさんの、気付かれない欠点を、抱え込みながら。
***
「サリシュ」
名前を呼ばれて、我に返った。
夫・イングスが、ひどく疲れた様子ながら、いつものように、食事を片手に載せて、部屋に現れていた。
あっ。
サリシュは思い出す。
私、まだ、アトに何一つ連絡を取ってないのだわ!!
ケルベの正体に、気を取られ過ぎた。
一応念のためだが、さすがに・・・アトの存在を忘れたわけではない。時間の経過を忘れたのだ。
慌てて祭壇に向かい、アトに繋がるように、キィンと、自分が好きで、ローヌ島から持ってきていた音叉を鳴らす。
ごめんね、アト!遅くなって!
「もしもし、アトー!? 聞こえるー? ごめんね、遅くなっちゃって・・・ アトー」
背後で、机の上に食事を置いて、自分の元に向かってくる夫の足音。
「まだ帰ってきていないのだな・・・?」
サリシュは頷いて、また祭壇に向かって呼びかける。帰ってきていないどころか、連絡をまずとっていない。
あぁ、アトって、もしかして、私に似ているのかも?
「アトロスー!! 返事して! ごめんね、調べものしていて遅くなったの・・・! アトー!?」
***
そして今。イシュデン、隠し部屋にて。
『あなたは?』
問いが繰り返された。
サリシュは戸惑った。
隣のイングスが、サリシュを見やる。夫は眉をひそめている。
返ってこない息子の返事。
そうして、何かが響く音。
誰かが 叫ぶ声。
『・・・・よ!! トートセンク! だめだよ! 自分の場所を、自分で壊す気!?』
少し小さく・・・遠く・・・。向こうの出来事が、音だけ届く。
***
「何だ!?」
夫が小さく声に出し、サリシュの左手を握る。
サリシュも、目の前の光る壁に目を向けた。
何かが、今、“起こっている” 。
「アトロスは、どうした」
「近くに、いないのかしら」
緊迫感を帯びながら、囁き合った。
小さな声になるのは、大きな声で話すと、向こうにまで届いてしまうからだ。
「私が話す」
「待って。私の方が良いかもしれないわ。話す相手が変わると、向こうが警戒するかもしれないもの・・・」
夫は、じっと見つめた後、「頼んだ」というように、頷き、サリシュも頷き返した。




