093.ケルベディウロスの介抱
『おぉ! もう戻ったか! どうだ、上手くいったか!!』
とても嬉しそうな声が、野太く響く。
・・・ ハッ ハッ ハッ ハッ ・・・
『・・・どうした。イシュデン=トータロス=アトロス。・・・パンデフラデ=トータロス=プラム』
・・・ ハッ ハッ ハッ ハッ ・・・
『・・・』
ケルベディウロスは、荒い呼吸をするだけの、腕の無い少年をジィと見つめた。
つい先ほど、転がり込むように、この世界に戻ってきた少年。よく見れば顔色が悪い。悪いというか、白色だ。血の気が引いている。そう気がついてみれば、汗も浮かべている。
その少年の下には、黒い髪と体毛に覆われた、パンデフラデ=トータロス=プラムが、ベシャっと、前に崩れるように、こけた体勢。
聡明なケルベディウロスは、この二人が意図しない事態に対面したらしいと、その様子で察した。
だが、一体?
ケルベディウロスは、きょとん、とした。
・・・ ハッ ハッ ハッ ハッ ・・・
『おい、イシュデン=トータロス=アトロス。何をそんなに慌てている。安心しろ、それほど慌てる事など何も無い』
・・・ ハッ ハッ ハッ ハッ ・・・
だが、腕の無い少年は、逆に呼吸が荒くなってきた。
ケルベディウロスは、その様子を冷静に捉えた。
過呼吸状態に近い。これはまずい。落ち着かせてやらねば。
フム・・・仕方が無い・・・。
ケルベディウロスは背中からたくさん生えている触手を1本に統合させ、それから思い直して、それを2本にわけ、少し腕の無い少年に近寄った上で、その2本の触手で、少年の肩を叩き、背中を撫でてやった。
触手を1本ではなく2本にしたのは、『小さき世界』の人間の腕の数に合わせたのに過ぎない。『小さき世界』に生きる者は、そのように相手をなぐさめ、落ち着かせる。ケルベディウロスは目の前の小さな存在を落ち着かせようとした。
ハッ ハッ ・・・ ハッ ハッ ・・・・
『大丈夫だ、恐れることは何も無い。落ち着くのだ・・・。大丈夫だ、大丈夫だ・・・』
***
ケルベディウロスの介抱もあって、アトは次第に自分の呼吸を取り戻した。
ハ・・・ッ ハ・・・ ッ・・・
ポンポン、と、肩が柔らかく叩かれ、時折頭も撫でられる。もう一つの『腕』が、背中を優しくさする。
ハ・・・ ハ・・・ ・・・
ハ・・・・・・
落ち着きを取り戻しながら、アトは、まだ血の気の引いた顔で、目の前の異形のモノを見た。
ケルベディウロス。高慢で高圧的なものの言い方をする、ちょっとイヤだな、なんて思ったりした、変わった姿の、存在。
トンボの複眼を思わせる・・・実際、複眼なのだが・・・大きな数々の目が、自分の姿をジィっと映していた。大きな口から上向きに牙が突き出し・・・とても奇妙な。
だからこそ、あまり親しみの持てない姿。いや、それは、会話の印象が良くないからで・・・
なのに、こんな風に、優しく穏やかに自分を落ち着かせてくれる、とは。
意外な気持ち。
けれど、つい先ほど知り合いになった状態で「意外」もなにもあるハズはないのに。
自分は。
この相手は、自分の欲求を押し付けてしかも偉そうで。決してこんな風な優しさを持っているハズがないだろうなんて、知らず思い込んでしまっていたのだと。こんな状況になって 気付かされる。
ケルベディウロスは、こんな振るまいもする存在だったのだ。
『それにしても、一体どうしたのだ』
言葉を発することを忘れた状態のアトを、ケルベディウロスは心底不思議そうにつぶやきながら、落ち着いたアトから、2本の触手をアトの脇に移動させ、その結果、アトを軽々と持ち上げた。
「えっ」
驚いたアトから声が出た。宙に浮いたために驚いて足をばたつかせて・・・黒いプラムを蹴飛ばした。
オゥ・・・!!
「あっ!! ご、ごめん!」
ケルベディウロスは、黒いプラムの横に、アトを移した。
アトは気づいていなかったが、アトは、前のめりにこけた黒いプラムの背中の上に、ずっと乗っていたのだ。
「ごめ・・・ん! だいじょうぶ・・・・?」
オゥ・・・
ゆるゆると起き上がろうとする黒いプラムを、ケルベディウロスの2本の触手が助けていた。優しく、丁寧に。
驚きをもって、アトは、その光景を眺めていた。
***
イシュデン、隠し部屋にて。
青い輝きを放つ祭壇を前に、イシュデン=トータロス=アトロスの母であるサリシュは言葉を選んでいた。
呼びかけたのに、アトからの、返事が無い。そして、誰からか分からない呼びかけが、幾度もなく聞こえてきた。「あなたは?」と。
サリシュの隣に、夫であり、アトロスの父であるイシュデン=トータロス=イングスがいる。疲れが色濃く出ている顔つきで、けれど鋭い目線で、祭壇の光を、見つめる。
イングスは、息子を迎えにきていた。
夫の姿を見た時に、物事に没頭しすぎる傾向があるサリシュは、「あっ」と思いだしたのだ。
もう朝なのね! 私、アトに連絡を取ってないのに! もうこんな時間なんだわ!




