008.失敗じゃないと思う
幌馬車で領主の屋敷へ向かった父を見送ってすぐ、クリスティンに声をかけられた。
「じゃあ、ご飯食べに行こうよ! 『ダロン』」
「う、うん」
クリスティンはにっこり笑った。「『ダロン』って、すごく可愛い名前だね! ダロンって、綺麗な顔立ちしてるね!」
その言葉に、娘-ダロンは心臓が止まるかと思った。表情が強張った。
それにはクリスティンの方が驚いたようだった。「えっ、ごめん・・・えっ、キミ、男の子なの?」
コクコクと、ダロンは頷いた。
クリスティンは、シパシパと目をしばたいた。茶色の大きな瞳だった。
「・・・。『ダロン』は、女の子だよね? 僕、間違ってる?」
間違ってない。間違ってないけど・・・。ダロンは、どうしていいのか分からなくなった。
返答に詰まった様子のダロンを、クリスティンはジッと見つめたが、不意に「うん」とうなずき、促した。
「お腹減ったよ、食堂に行こうよ」
「う、うん」
ダロンはほっとした。固められた時間が、再び解かれた様だった。
クリスティンは、すぐ傍の扉を入った。ダロンも続いた。
入ってみると、そこは通路だった。クリスティンは左を向いて真っ直ぐ通路を進む。ダロンも従う。
扉が両側にたくさん並んでいる。
左側は先ほどまでいた石畳の広場に繋がっているようだ。
右側の扉はだいたい閉まっているが、それぞれの家につながっているみたいだ。
しばらく進むと、右側、他より大きな、開かれた扉があった。そこからカチャカチャと皿と皿が触れる音がする。人のざわめき。そして匂い。湯気が見えた。
クリスティンは少しダロンを振り返り、「食堂だよ」とその扉の中に入っていった。
***
食堂には大勢の人が集まって楽しそうにしていた。
クリスティンは食堂の料理人と話をした。なんと食堂の人がダロンの分は奢りにしてくれたそうだ。とても驚いた。
初めて来た町で食べるご飯に、ダロンは緊張した。
おいしそうに見えなかった。
恐る恐る、少量を口に運ぶ。味が薄すぎる。そして、野菜は生育不足のものを使っている気がした。
ここは、安さが自慢の食堂なのかもしれない、とダロンは思った。
「おいしい?」
クリスティンが、尋ねてきた。
まさか正直に答えることはできなくて、ダロンは、「う、うん」と無理やり頷いた。
ふっと、ダロンは、思い出した。
たまに料理を作っては「おいしい?」と聞いてきた、兄の事を。いつもにこにこ頼りになる兄が好きだった。だからいつもこんな風に・・・。
ワっと悲しみが競りあがってきた。
「ど、どうしたの!?」
慌てる目の前のクリスティンを前に、ダロンは一生懸命、涙を抑えようとした。
***
一方。こちらは居城。
「アトさまー、私、買物失敗しちゃいましたかね~」
メチルが、黄緑色のシミが点々と飛び散ったテーブルクロスを運びながら、珍しくため息をついていた。
「・・・あ、でも、大丈夫だよ」
アトは、フォエルゥを足で器用にブラッシングしてやりながら、ようやく答えた。足を使っているのは、義手を再び洗濯するべくとり外したからだ。
夕食の時の事だ。
今日は珍しい食事だから皆で食べようと父が声をかけた。
だから食堂には、メチルも、メチルのお母さんのマチルダさんも、メチルのお父さんのグィンも、庭師のデルボも、サルトも、物知り博士のオクロドウさんも・・・まるで建国祭の日みたいにみんなが集まり、一緒にテーブルについた。
が。スープで煮込まれた星型の果物らしきものが、次々とポンポン派手に音を立てて種を飛ばして爆発しだし、頭の先から何から、当然テーブルクロスも、信じられないことに高いはずの天井にさえ黄緑色のシミがついたのだった。
というわけで、アトの義手も本日二回目の洗濯を待つことになった。
ちなみに一回目の洗濯は、運命を聞きに行った帰りの復讐カエルが原因である。
「アト様っ! 返事までの『間』が長いですっ」
怒られた。
「・・・えっ・・・ご、ごめん。えっと・・・あ、フォエルゥのブラッシングが終わったら、僕もそっち手伝う、ね」
頑張ってアトは答えを返してみたけれど。
「いいですよ、アトさま、今、義手外してますし」
がっくり気落ちした様子で、メチルは再びため息をついて、洗濯場へと歩いていった。
メチルを見送り、アトはフォエルゥのブラッシングを続けた。
そうしながら、ぼんやりと考えた。
・・・買物は全然失敗じゃないと思うな、と。
もしメチルが買ってなかったら、食べてみたかったのに、と、残念に思ったんじゃないかな、僕。
フォエルゥが、クフゥ、と、鼻息を鳴らして、アトをチラっとみた。
肯定されたように感じた。アトはフォエルゥに少し笑む。
やっぱり、だから、メチル、失敗じゃないと思う、僕。
ふと、アトの心が、何かをアトに囁いた。・・・何だろう?
ブラッシングの足を止めて、フェルウに足をかけたような状態で止まったまま・・・アトは自分の心の状態を確認しようとした。
珍しい果物。とてもびっくりはしたけど、試してみることができたこと。それは失敗じゃないと思うこと。
アトは、気がついた。
僕はこう思っている。
〝せっかく珍しい果物が売られているのに、ただ見るだけで買いもせず、食べてみようともしないなんて。せっかくのチャンスを逃すなんて”
それで、アトは横に置いていた自分の問題を思い出した。
・・・そうだ、僕は、すぐ旅に出ろと今日告げられたのに、旅に出ることを嫌がっている。そんな事を考えたこともないからと。
でも・・・。