015.母
アトは廊下に踏み出してみた。
左側。なんだろう。アトは眼を細めた。
何か、青くー・・・。
するっと何かが動いた、ように見えた。
「!!」
誰だ、と叫びかけて、余計逃がしてしまいそうに思えた。アトはタッと駆け出した。角を曲がる。左に鏡面が続く廊下に出る。
鏡が、青白く光っている?
スっと、人影が鏡面の向こうに入ったような、気がした。
まさか!
アトは鏡面の前で、試しに腕と足を伸ばした。すると、鏡面に抵抗無く体が入る。
まさか。
驚きながらも、そのまま踏み込む。ガクン、と一瞬体が落ちてヒヤッとした。わずかに段差があったようだ。
ヒヤリとした空気。暗い中、左側に扉が浮かび上がっていた。中からの光で、扉の隙間から光が漏れているようだ。
ここは?
アトは唾を飲み込んだ。現実とは思えない。けれど・・・。
アトは、扉を凝視した。誰かが居る。そう思った。
***
アトは、ドアノブを両腕で挟んで、回して開けた。
向こうは、結構広い部屋だった。青白い光に満ちている。
背の高くて髪の長い人が、奥にいる。すぐ侵入に気づいたようで、こちらを振り返った。
「えっ・・・。誰!? ひょっとして・・・アト!」
女性だ。その人はアトに駆け寄ってきた。
抱き寄せられる。数歩部屋の中に入ったら、背後でカチャンと扉がしまった。
「アト! アトロス! あぁ、顔を良く見せて!」
女性は、アトの頬を両手で挟み、真正面からジィと見つめた。驚いて、アトは後ろに逃げようとした。
「あら」
女性は笑った。綺麗な顔立ちだが、細かくシワが入っている。おばさんの年齢だ。
「・・・大きくなったわね・・・」
おばさんが、愛おしそうに、アトを見つめている。
誰?
いや、どこかで・・・? 気のせい?
勇気を出してアトは尋ねた。
「失礼ですが、あなたは?」
「・・・あなたのお母様ですよ、アトロス」
淋しそうに笑まれた。
これは夢だ、と、アトは思った。
「何年振りかしら・・・」
母と名乗る幻が、自分の頬を撫でる。夢にしてはしっかりした感じがある。アトは状況が掴めなくて、目を動かして部屋の様子を見た。
全体が淡く柔らかく光っている部屋。美しい調度品。父の部屋と似た雰囲気も感じる。テーブル近くの壁の一部だけが、妙に照りやかに輝いているのを不思議に思った。
「・・・あれは・・・?」
思わず尋ねると、女性は気づいて笑った。
「あぁ。今日の夕食、急にポンって飛び散らなかった? ビックリしたわ」
「え?」
アトは顔を上げて、女性の表情を確かめる。女性は、少し考えるような顔になった。
「イングス・・・あ、お父様もね、拭いてくれたのだけど・・・届かないところは、放ってあるのよ。やっぱり、拭き取ったほうが良いかしら?」
そのうち、女性はくすくすと笑う。
「メチルがたくさん買ってきたんですってね。うふふ、いたずらっ子に育ってるのね」
いや、いたずらではないと思う・・・。
そうではなく・・・。
そうではなく、これは・・・・。
ひょっとして、現実?
「なあに、アトロス」
尋ねてくる女性を、アトは、まじまじと見た。
ではこの人は・・・。
「・・・母上?」
「はい。なあに?」
目の前の女性は、嬉しそうにアトに笑いかける。
アトは、事態が飲み込めなくなった。
***
物心ついた時から、アトの傍に母親は居ない。
昔、確か父は母の事を『綺麗な人だった』とか言ったような。その言い方と父の態度から、母は自分が小さい頃に亡くなったのだと信じていた。
しかし。まさか、実は元気に生きていて、しかも同じ建物の中に住んでいたなんて。そんな馬鹿な。
「ちょっと、おかけなさい」
アトの様子に、母という人は笑って椅子を勧め、水を注いだコップを持ってきてくれた。
「お水しかないの。ま、お飲みなさい」
勧められるまま、アトは水を飲んで、一息吐いた。
その途端、どこからか妙な声が聞こえた。
何?
アトが部屋を見回すと、目の前の人は、
「あぁ、ちょっと待ってて」
と、部屋の奥に、壁についている暖炉に向かった。けれど暖炉ではないのかもしれない。暖かい炎ではなく、青い光が放たれているのだから。
声はそこから聞こえるようだ。
「・・・◎☆ □・・**・・・」
女性が暖炉に話しかけた。けれど何を言っているのか分からない。全てが謎でアトは眉をしかめた。
すぐにその人は戻ってきた。
「お待たせ。落ち着いた?」
「いえあまり・・・」
思いのほか正直な言葉が口から出てしまった。
母という人は、自分の斜め前、テーブルの角を挟んだ位置の椅子に座った。それから、行儀の悪い事にテーブルに頬づえをついて、アトを見た。嬉しそうだ。
「元気そうね」
と、にこにことしている。
「あの・・・」
アトは、やっと、言えた。
「・・・母上は、亡くなったとばかり・・・」
言ってから、この人は、実は父の再婚相手かもしれない、などとアトは思った。
一方、目の前の人は、アトの発言にムゥと眉をしかめた。
「やっぱり・・・。ほら見て、生きてるでしょ私!? ほら!」
目の前の人は、いきなりアトの鼻をつまんだ。そして残った左手で自分の服に手を突っ込み、手鏡を取り出し、グィ、とアトに向けて突き出した。
「御覧なさい! あなたの鼻、口回り、私にそっくり!! 目は、イングス・・・というより、おじい様似よね」
パッと鼻から手を離され、面食らいながら、アトは鏡に写る自分の顔と目の前の人の顔を見比べてみた。確かに自分の鼻は、父とは違って、そう言われればこの目の前の人に似ているかも・・・。




