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断罪の夜会で、悪役令嬢の母に転生しました。目の前で、娘が婚約破棄されています

作者: _mon_mon_
掲載日:2026/10/05

目を開けたら、シャンデリアの真下だった。


耳が痛いほどの弦楽。磨き上げた床に映る、何百本もの蝋燭。


そして、私の手には扇が握られていた。


――扇?


さっきまで握っていたのは、保健室の体温計だったはずだ。


四十七歳。中学校の養護教諭。放課後、熱を出した一年生を保護者に引き渡して、椅子に座って、少しだけ目を閉じた。


覚えているのは、そこまでだ。


かわりに、知らない記憶が頭の中に流れ込んでくる。


マルガレーテ・フォン・アシュフォード。公爵夫人。四十歳。


夫は国境の守りで、もう半年帰っていない。


娘が一人。


セシリア。十七歳。


そのセシリアが、広間の中央に一人で立っていた。


   ◇


「セシリア・フォン・アシュフォード。君との婚約を、この場で破棄する」


よく通る声だった。


金髪の青年が、壇の上から娘を見下ろしている。王太子ユリアン殿下。隣には、栗色の髪の小柄な少女が、殿下の袖をつかんで震えていた。平民出身の特待生、リナ。


マルガレーテの記憶が、勝手に教えてくれる。


この婚約破棄は、噂として半月前から知っていた。


そしてマルガレーテは、決めていた。


娘が断罪されたら、その場で親子の縁を切る。「この娘は今日から公爵家の者ではありません」と、皆の前で宣言する。


公爵家を守るために。


書類まで、もう用意してある。私のドレスの隠しに、折りたたんで入っている。


背筋が冷えた。


「君はリナに、数々の嫌がらせをした。教本を破り、階段から突き落とし、先週の夜会ではワインをかけた。証人もいる」


広間がざわめいた。


セシリアは、何も言わなかった。


扇も持たない両手を体の前で重ねて、背筋を伸ばして、まっすぐ前を見ていた。


泣いていなかった。


震えてもいなかった。


ただ、ほんの一瞬だけ、目が動いた。


壇の上でも、殿下でもなく、広間の隅――私のいる場所を見た。


それから、すぐに前に戻った。


――知っている、あの目。


保健室で、何百回も見た目だ。


先生に呼び出された子が、廊下の向こうの保護者を探すときの目。


来てくれるか、確かめて。


来ないと分かって、目を戻す。


最初から期待していなかったふりをするために。


マルガレーテの記憶を探る。


この十七年、マルガレーテは一度でも、娘の隣に立ったことがあっただろうか。


――なかった。


叱った記憶はいくらでもある。褒めた記憶は、ひとつも出てこない。


「アシュフォード公爵夫人」


殿下が、私を見た。


「娘の行いについて、公爵家のお考えを伺いたい」


何百もの目が、こちらを向いた。


マルガレーテが用意していた言葉が、喉元まで上がってきた。


私はそれを、飲み込んだ。


扇を閉じた。


それから、広間の中央へ歩き出した。


   ◇


磨いた床は、慣れない靴では滑りそうだった。


人垣が割れる。誰も何も言わない。


セシリアの隣に着いて、私は立ち止まった。


娘の肩が、びくりと跳ねた。


「殿下」


私は壇を見上げた。


「娘の話を、まだ聞いておりません」


広間が、しんとした。


「聞く必要はない。証人がいると言ったはずだ」


「証人のお話は伺いました。娘の話は、まだです」


声が震えないように、腹に力を入れた。


保健室では、怒鳴り込んできた保護者にも、こうやって話した。


「それに、王家と公爵家の婚約は、王家と公爵家の間で決めたものです。夜会の真ん中で、皆様に見せながら決めるものではございません」


殿下の眉が、跳ね上がった。


「この場で裁けば、この子には弁明の機会がありません。殿下ご自身にも、間違えたときに引き返す道がなくなります」


「私が間違えていると?」


「分かりません。だから、明日、陛下の御前で伺います。証人の方も、どうぞお連れください」


私はセシリアのほうを向いた。


娘は、信じられないものを見る目で、私を見ていた。


「帰りましょう、セシリア」


手を差し出した。


セシリアはしばらく、その手を見ていた。


まるで、触ったら消えるものでも見るように。


それから、指先だけ、そっと乗せた。


冷たい指だった。


私はそれを、しっかり握った。


背中に、何百もの視線を感じながら、私たちは広間を出た。


誰も、止めなかった。


   ◇


馬車の中で、セシリアはずっと窓の外を見ていた。


背筋は、伸ばしたままだった。


「……お母様」


屋敷の門が見えてきたころ、ようやく娘が口を開いた。


「明日、陛下の前で、私を勘当なさるおつもりですね」


「しないわよ」


「隠しに書類を入れておいででしょう。執事が話しているのを、聞きました」


私は、ドレスの隠しから折りたたんだ紙を出した。


勘当の届け出。マルガレーテの、几帳面な署名入り。


それを、二つに裂いた。


四つに裂いた。


八つに裂いて、窓の外へ捨てた。ちょうど馬車が屋敷の門をくぐるところで、紙吹雪みたいに、門の脇の暗がりへ散っていった。


セシリアは、口を半分開けたまま、それを見ていた。


「……どうして」


「あなたの母親だから」


言ってから、胸が痛んだ。


本当の母親は、たぶん今、どこにもいない。私は四十七年、子どもを持たなかった。


けれど今夜、この子の隣に立てるのは、私だけだった。


「セシリア。聞かせて」


私は、保健室の椅子に座るときと同じ声を出した。


「何があったの」


娘は、膝の上で手を握った。


「……信じてくださるのですか」


「信じる、の前に、聞くの」


私は言った。


「信じるかどうかは、聞いてから決める。でも、聞かずに決めたりはしない」


前の人生で、私は一度だけ、学校で財布を盗んだと疑われたことがある。十四歳だった。


呼び出された母は、職員室に入るなり、先生に頭を下げた。


うちの子が申し訳ありません、と。


私に、何も聞かずに。


財布は翌日、持ち主の鞄の底から出てきた。


母は、それきりその話をしなかった。


だから私は、保健室の先生になった。


聞かずに決める大人に、ならないために。


セシリアは長いこと黙っていた。


馬車の車輪の音だけが聞こえた。


「教本は、破っていません」


ようやく、小さな声で言った。


「階段は……リナさんが落ちたとき、私は二階の図書室にいました。司書の先生がご存じです」


「うん」


「ワインは」


娘の声が、詰まった。


「ワインは、かけました」


私は、黙って続きを待った。


「殿下が、あの子の髪に触れているのを見て。悔しくて。グラスを持ったまま近づいて、手が、勝手に」


セシリアは、両手で顔を覆った。


「みっともないことをしました。公爵家の娘なのに」


「そうね」


私は言った。


「それは、よくなかったわね」


娘の肩が震えた。


「明日、陛下の前に出る前に、リナさんに謝りに行きましょう」


セシリアが顔を上げた。


「……一緒に、ですか」


「一緒に」


十七年分の何かが、娘の顔の上で崩れた。


セシリアは泣いた。


背筋を伸ばしたまま、声を殺して泣いて、それから伸ばしていられなくなって、私の肩に額をつけて泣いた。


私は娘の背中を、ゆっくり叩いた。


熱を出した一年生にするのと、同じ速さで。


「お母様が、隣に立ってくださったのは」


しゃくりあげながら、セシリアは言った。


「生まれて、はじめてです」


「ごめんね」


それはマルガレーテの分か、私の分か、自分でも分からなかった。


たぶん、両方だった。


   ◇


翌朝早く、私たちは学院の寮を訪ねた。


リナは、寝間着に肩掛けを羽織った姿で、寮の応接間に下りてきた。


セシリアの顔を見るなり、真っ青になった。


「あ、あの、私」


「リナさん」


セシリアは、深く頭を下げた。公爵令嬢の、ではなく、ただの十七歳の下げ方だった。


「先週の夜会で、ワインをかけました。わざとです。ごめんなさい。ドレスは、弁償させてください」


リナは、両手を胸の前で握りしめたまま、動かなかった。


それから、ぽろぽろと泣き出した。


「わ、私も、ごめんなさい」


「……え?」


「教本も、階段も、セシリア様じゃないって、私、殿下に言ったんです。教本は雨で濡れて破れただけで、階段は、自分で踏み外したんです。でも殿下が、きっとそうだ、君は優しいから庇っているんだって」


リナは、しゃくりあげた。


「夜会でも、違いますって言おうとしたのに、皆が見ていて、声が出なくて。ワインのことだけは本当だったから、全部嘘だとも言えなくて」


セシリアは呆然としていた。


私は、二人の少女を見比べた。


どちらも十七で、どちらも、大人の作った場の真ん中に立たされて、声が出なかったのだ。


「リナさん」


私は言った。


「今日の昼、陛下の御前で、同じことを話してくれる?」


リナは怯えた顔で私を見た。


「私が、陛下の前で……」


「一人でなくていいの。セシリアの隣に立てばいい」


リナはセシリアを見た。


セシリアは少し迷ってから、手を差し出した。


昨夜、私がしたのと同じ形で。


リナはその手を、両手でつかんだ。


   ◇


陛下の御前でのことは、短く書く。


リナは震える声で、全部話した。セシリアは、ワインのことを自分から認めた。図書室の司書も来てくれた。


陛下は長いこと黙ったあと、殿下に向かって一言だけ言った。


「夜会で裁くな、と、昔わしも父上に叱られたものだ」


婚約は、両家の合意で解消になった。破棄ではなく。


殿下は、退出するセシリアを呼び止めた。


何か言いかけて、言えずに、最後に頭を下げた。


セシリアは、黙って一礼を返した。


それで十分だったと思う。


   ◇


屋敷に戻ると、玄関の前に、泥だらけの馬が繋がれていた。


広間に、背の高い男が立っていた。


旅装のまま。剣も外さず。半年ぶりに見る、夫の顔だった。


アシュフォード公爵、ヴィルヘルム。


マルガレーテの記憶の中の夫は、いつも背中だった。国境に行く背中。書斎に入る背中。夕食の席を立つ背中。


その夫が、まっすぐこちらを見ていた。


「夜会の話を、早馬で聞いた。夜通し、馬を替えて来た」


低い声だった。


「お前が、セシリアを連れて出たと」


身構えた。


この人も、公爵家の体面を何より大事にする人のはずだ。マルガレーテの記憶では、そうだった。


ヴィルヘルムは、私の前まで歩いてきた。


それから、ぎこちなく、片手を私の肩に置いた。


「……すまなかった」


「え?」


「私がいるべきだった。本当は、ずっと前から」


夫の手は、手綱で擦れて、ひどく荒れていた。


「国境の砦にいても、お前の手紙は全部読んでいた。セシリアの成績も、刺繍の出来も、熱を出した晩のことも。お前は、あの子のことしか書いてこなかった」


私は、息を止めた。


マルガレーテの記憶の、どこを探しても出てこない場面だった。


夫に手紙を書いた記憶。


娘のことを、毎晩、几帳面な字で。


――ああ。


この人は、言えなかっただけなのだ。


娘には一度も褒め言葉を言えなかったのに、遠くの夫にだけは、娘の自慢を書き続けていた。


マルガレーテも。


「怖かったのだと思う」


ヴィルヘルムが言った。


「お前も、私も。あの子に何か言って、間違えるのが」


「……ええ」


私は答えた。マルガレーテの代わりに。


「でも、もう間違えてもいいことにしました」


夫が、少しだけ目を見開いた。


それから、この人もこんな顔をするのだ、と驚くほど、不器用に笑った。


背後で、階段を下りてくる足音がした。


セシリアが、手すりにつかまって立っていた。


「お父様」


「……セシリア」


ヴィルヘルムは娘を見て、何か言おうとして、言葉を探して、結局、一番短いものを選んだ。


「よく、帰ってきた」


セシリアは、目を丸くした。


それから、昨夜覚えたばかりの顔で、泣き笑いをした。


   ◇


その晩、アシュフォード家は、三人で夕食を取った。


マルガレーテの記憶によれば、十年ぶりのことだった。


会話は、ぎこちなかった。夫は天気の話を三回した。セシリアは笑いをこらえて、スープにむせた。


私は、二人の顔を見ていた。


前の人生で、私は子どもを持たなかった。


保健室で、何百人もの子どもの「来てくれるか」という目を見て、そのたびに、自分ではない誰かが来ることを祈っていた。


今夜、ようやく、自分で行けた。


「お母様」


食事のあと、セシリアが廊下で私を呼び止めた。


「もう一度、聞いてもいいですか。どうして、隣に立ってくださったのですか」


私は少し考えた。


本当のことは、言えない。


あなたの本当の母親は、たぶんもういない。私は、遠い国の保健室から来た、知らない女だ。


けれど、ひとつだけ、本当のことがあった。


「あなたが、私を見たからよ」


「……見た?」


「広間で、一瞬だけ。来てくれるか、確かめる目で」


セシリアの頬が、さっと赤くなった。


「見て、いません」


「見たわ」


「……見ました」


娘は、うつむいて笑った。


「次からは、ちゃんと見ます。来てほしいときは」


「ええ。そうして」


廊下の窓の外では、昨夜裂いた紙の最後の一片が、門の脇の植え込みに引っかかって、白く光っていた。


明日、庭師が掃くだろう。


それでいい、と私は思った。


   ◇


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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