断罪の夜会で、悪役令嬢の母に転生しました。目の前で、娘が婚約破棄されています
目を開けたら、シャンデリアの真下だった。
耳が痛いほどの弦楽。磨き上げた床に映る、何百本もの蝋燭。
そして、私の手には扇が握られていた。
――扇?
さっきまで握っていたのは、保健室の体温計だったはずだ。
四十七歳。中学校の養護教諭。放課後、熱を出した一年生を保護者に引き渡して、椅子に座って、少しだけ目を閉じた。
覚えているのは、そこまでだ。
かわりに、知らない記憶が頭の中に流れ込んでくる。
マルガレーテ・フォン・アシュフォード。公爵夫人。四十歳。
夫は国境の守りで、もう半年帰っていない。
娘が一人。
セシリア。十七歳。
そのセシリアが、広間の中央に一人で立っていた。
◇
「セシリア・フォン・アシュフォード。君との婚約を、この場で破棄する」
よく通る声だった。
金髪の青年が、壇の上から娘を見下ろしている。王太子ユリアン殿下。隣には、栗色の髪の小柄な少女が、殿下の袖をつかんで震えていた。平民出身の特待生、リナ。
マルガレーテの記憶が、勝手に教えてくれる。
この婚約破棄は、噂として半月前から知っていた。
そしてマルガレーテは、決めていた。
娘が断罪されたら、その場で親子の縁を切る。「この娘は今日から公爵家の者ではありません」と、皆の前で宣言する。
公爵家を守るために。
書類まで、もう用意してある。私のドレスの隠しに、折りたたんで入っている。
背筋が冷えた。
「君はリナに、数々の嫌がらせをした。教本を破り、階段から突き落とし、先週の夜会ではワインをかけた。証人もいる」
広間がざわめいた。
セシリアは、何も言わなかった。
扇も持たない両手を体の前で重ねて、背筋を伸ばして、まっすぐ前を見ていた。
泣いていなかった。
震えてもいなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、目が動いた。
壇の上でも、殿下でもなく、広間の隅――私のいる場所を見た。
それから、すぐに前に戻った。
――知っている、あの目。
保健室で、何百回も見た目だ。
先生に呼び出された子が、廊下の向こうの保護者を探すときの目。
来てくれるか、確かめて。
来ないと分かって、目を戻す。
最初から期待していなかったふりをするために。
マルガレーテの記憶を探る。
この十七年、マルガレーテは一度でも、娘の隣に立ったことがあっただろうか。
――なかった。
叱った記憶はいくらでもある。褒めた記憶は、ひとつも出てこない。
「アシュフォード公爵夫人」
殿下が、私を見た。
「娘の行いについて、公爵家のお考えを伺いたい」
何百もの目が、こちらを向いた。
マルガレーテが用意していた言葉が、喉元まで上がってきた。
私はそれを、飲み込んだ。
扇を閉じた。
それから、広間の中央へ歩き出した。
◇
磨いた床は、慣れない靴では滑りそうだった。
人垣が割れる。誰も何も言わない。
セシリアの隣に着いて、私は立ち止まった。
娘の肩が、びくりと跳ねた。
「殿下」
私は壇を見上げた。
「娘の話を、まだ聞いておりません」
広間が、しんとした。
「聞く必要はない。証人がいると言ったはずだ」
「証人のお話は伺いました。娘の話は、まだです」
声が震えないように、腹に力を入れた。
保健室では、怒鳴り込んできた保護者にも、こうやって話した。
「それに、王家と公爵家の婚約は、王家と公爵家の間で決めたものです。夜会の真ん中で、皆様に見せながら決めるものではございません」
殿下の眉が、跳ね上がった。
「この場で裁けば、この子には弁明の機会がありません。殿下ご自身にも、間違えたときに引き返す道がなくなります」
「私が間違えていると?」
「分かりません。だから、明日、陛下の御前で伺います。証人の方も、どうぞお連れください」
私はセシリアのほうを向いた。
娘は、信じられないものを見る目で、私を見ていた。
「帰りましょう、セシリア」
手を差し出した。
セシリアはしばらく、その手を見ていた。
まるで、触ったら消えるものでも見るように。
それから、指先だけ、そっと乗せた。
冷たい指だった。
私はそれを、しっかり握った。
背中に、何百もの視線を感じながら、私たちは広間を出た。
誰も、止めなかった。
◇
馬車の中で、セシリアはずっと窓の外を見ていた。
背筋は、伸ばしたままだった。
「……お母様」
屋敷の門が見えてきたころ、ようやく娘が口を開いた。
「明日、陛下の前で、私を勘当なさるおつもりですね」
「しないわよ」
「隠しに書類を入れておいででしょう。執事が話しているのを、聞きました」
私は、ドレスの隠しから折りたたんだ紙を出した。
勘当の届け出。マルガレーテの、几帳面な署名入り。
それを、二つに裂いた。
四つに裂いた。
八つに裂いて、窓の外へ捨てた。ちょうど馬車が屋敷の門をくぐるところで、紙吹雪みたいに、門の脇の暗がりへ散っていった。
セシリアは、口を半分開けたまま、それを見ていた。
「……どうして」
「あなたの母親だから」
言ってから、胸が痛んだ。
本当の母親は、たぶん今、どこにもいない。私は四十七年、子どもを持たなかった。
けれど今夜、この子の隣に立てるのは、私だけだった。
「セシリア。聞かせて」
私は、保健室の椅子に座るときと同じ声を出した。
「何があったの」
娘は、膝の上で手を握った。
「……信じてくださるのですか」
「信じる、の前に、聞くの」
私は言った。
「信じるかどうかは、聞いてから決める。でも、聞かずに決めたりはしない」
前の人生で、私は一度だけ、学校で財布を盗んだと疑われたことがある。十四歳だった。
呼び出された母は、職員室に入るなり、先生に頭を下げた。
うちの子が申し訳ありません、と。
私に、何も聞かずに。
財布は翌日、持ち主の鞄の底から出てきた。
母は、それきりその話をしなかった。
だから私は、保健室の先生になった。
聞かずに決める大人に、ならないために。
セシリアは長いこと黙っていた。
馬車の車輪の音だけが聞こえた。
「教本は、破っていません」
ようやく、小さな声で言った。
「階段は……リナさんが落ちたとき、私は二階の図書室にいました。司書の先生がご存じです」
「うん」
「ワインは」
娘の声が、詰まった。
「ワインは、かけました」
私は、黙って続きを待った。
「殿下が、あの子の髪に触れているのを見て。悔しくて。グラスを持ったまま近づいて、手が、勝手に」
セシリアは、両手で顔を覆った。
「みっともないことをしました。公爵家の娘なのに」
「そうね」
私は言った。
「それは、よくなかったわね」
娘の肩が震えた。
「明日、陛下の前に出る前に、リナさんに謝りに行きましょう」
セシリアが顔を上げた。
「……一緒に、ですか」
「一緒に」
十七年分の何かが、娘の顔の上で崩れた。
セシリアは泣いた。
背筋を伸ばしたまま、声を殺して泣いて、それから伸ばしていられなくなって、私の肩に額をつけて泣いた。
私は娘の背中を、ゆっくり叩いた。
熱を出した一年生にするのと、同じ速さで。
「お母様が、隣に立ってくださったのは」
しゃくりあげながら、セシリアは言った。
「生まれて、はじめてです」
「ごめんね」
それはマルガレーテの分か、私の分か、自分でも分からなかった。
たぶん、両方だった。
◇
翌朝早く、私たちは学院の寮を訪ねた。
リナは、寝間着に肩掛けを羽織った姿で、寮の応接間に下りてきた。
セシリアの顔を見るなり、真っ青になった。
「あ、あの、私」
「リナさん」
セシリアは、深く頭を下げた。公爵令嬢の、ではなく、ただの十七歳の下げ方だった。
「先週の夜会で、ワインをかけました。わざとです。ごめんなさい。ドレスは、弁償させてください」
リナは、両手を胸の前で握りしめたまま、動かなかった。
それから、ぽろぽろと泣き出した。
「わ、私も、ごめんなさい」
「……え?」
「教本も、階段も、セシリア様じゃないって、私、殿下に言ったんです。教本は雨で濡れて破れただけで、階段は、自分で踏み外したんです。でも殿下が、きっとそうだ、君は優しいから庇っているんだって」
リナは、しゃくりあげた。
「夜会でも、違いますって言おうとしたのに、皆が見ていて、声が出なくて。ワインのことだけは本当だったから、全部嘘だとも言えなくて」
セシリアは呆然としていた。
私は、二人の少女を見比べた。
どちらも十七で、どちらも、大人の作った場の真ん中に立たされて、声が出なかったのだ。
「リナさん」
私は言った。
「今日の昼、陛下の御前で、同じことを話してくれる?」
リナは怯えた顔で私を見た。
「私が、陛下の前で……」
「一人でなくていいの。セシリアの隣に立てばいい」
リナはセシリアを見た。
セシリアは少し迷ってから、手を差し出した。
昨夜、私がしたのと同じ形で。
リナはその手を、両手でつかんだ。
◇
陛下の御前でのことは、短く書く。
リナは震える声で、全部話した。セシリアは、ワインのことを自分から認めた。図書室の司書も来てくれた。
陛下は長いこと黙ったあと、殿下に向かって一言だけ言った。
「夜会で裁くな、と、昔わしも父上に叱られたものだ」
婚約は、両家の合意で解消になった。破棄ではなく。
殿下は、退出するセシリアを呼び止めた。
何か言いかけて、言えずに、最後に頭を下げた。
セシリアは、黙って一礼を返した。
それで十分だったと思う。
◇
屋敷に戻ると、玄関の前に、泥だらけの馬が繋がれていた。
広間に、背の高い男が立っていた。
旅装のまま。剣も外さず。半年ぶりに見る、夫の顔だった。
アシュフォード公爵、ヴィルヘルム。
マルガレーテの記憶の中の夫は、いつも背中だった。国境に行く背中。書斎に入る背中。夕食の席を立つ背中。
その夫が、まっすぐこちらを見ていた。
「夜会の話を、早馬で聞いた。夜通し、馬を替えて来た」
低い声だった。
「お前が、セシリアを連れて出たと」
身構えた。
この人も、公爵家の体面を何より大事にする人のはずだ。マルガレーテの記憶では、そうだった。
ヴィルヘルムは、私の前まで歩いてきた。
それから、ぎこちなく、片手を私の肩に置いた。
「……すまなかった」
「え?」
「私がいるべきだった。本当は、ずっと前から」
夫の手は、手綱で擦れて、ひどく荒れていた。
「国境の砦にいても、お前の手紙は全部読んでいた。セシリアの成績も、刺繍の出来も、熱を出した晩のことも。お前は、あの子のことしか書いてこなかった」
私は、息を止めた。
マルガレーテの記憶の、どこを探しても出てこない場面だった。
夫に手紙を書いた記憶。
娘のことを、毎晩、几帳面な字で。
――ああ。
この人は、言えなかっただけなのだ。
娘には一度も褒め言葉を言えなかったのに、遠くの夫にだけは、娘の自慢を書き続けていた。
マルガレーテも。
「怖かったのだと思う」
ヴィルヘルムが言った。
「お前も、私も。あの子に何か言って、間違えるのが」
「……ええ」
私は答えた。マルガレーテの代わりに。
「でも、もう間違えてもいいことにしました」
夫が、少しだけ目を見開いた。
それから、この人もこんな顔をするのだ、と驚くほど、不器用に笑った。
背後で、階段を下りてくる足音がした。
セシリアが、手すりにつかまって立っていた。
「お父様」
「……セシリア」
ヴィルヘルムは娘を見て、何か言おうとして、言葉を探して、結局、一番短いものを選んだ。
「よく、帰ってきた」
セシリアは、目を丸くした。
それから、昨夜覚えたばかりの顔で、泣き笑いをした。
◇
その晩、アシュフォード家は、三人で夕食を取った。
マルガレーテの記憶によれば、十年ぶりのことだった。
会話は、ぎこちなかった。夫は天気の話を三回した。セシリアは笑いをこらえて、スープにむせた。
私は、二人の顔を見ていた。
前の人生で、私は子どもを持たなかった。
保健室で、何百人もの子どもの「来てくれるか」という目を見て、そのたびに、自分ではない誰かが来ることを祈っていた。
今夜、ようやく、自分で行けた。
「お母様」
食事のあと、セシリアが廊下で私を呼び止めた。
「もう一度、聞いてもいいですか。どうして、隣に立ってくださったのですか」
私は少し考えた。
本当のことは、言えない。
あなたの本当の母親は、たぶんもういない。私は、遠い国の保健室から来た、知らない女だ。
けれど、ひとつだけ、本当のことがあった。
「あなたが、私を見たからよ」
「……見た?」
「広間で、一瞬だけ。来てくれるか、確かめる目で」
セシリアの頬が、さっと赤くなった。
「見て、いません」
「見たわ」
「……見ました」
娘は、うつむいて笑った。
「次からは、ちゃんと見ます。来てほしいときは」
「ええ。そうして」
廊下の窓の外では、昨夜裂いた紙の最後の一片が、門の脇の植え込みに引っかかって、白く光っていた。
明日、庭師が掃くだろう。
それでいい、と私は思った。
◇
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