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ノイズの中の旋律(メロディ)



 カセットデッキが重々しく回転し、スピーカーから溢れ出したのは、どこまでも透明で、どこか諦めたような彼女の鼻歌だった。


 その旋律が店内に満ちた瞬間、壁の銅メッシュが呼応するように共鳴を始めた。


キィィィン、という耳鳴りに似た高い音が空間を支配し、指輪がカウンターの上で独りでに回転を始める。


「始まった……認証プロセスだ」



その時、事務室の防音ドアが静かに開き、マスターが戻ってきた。


 彼は無言のまま、激しく回転し続ける銀の指輪と、3台のPCが放つエメラルドグリーンの光を、ただ静かに見つめている。


「マスター……」


 僕が問いかけても、彼はすぐには答えなかった。深い沈黙ののち、ようやく重い口を開く。


「……始まったんだな」


 その一言だけを残し、マスターはいつもの定位置であるカウンターの奥へと戻った。


 スピーカーからは、ノイズを切り裂くように彼女の鼻歌が流れ続けている。


 その旋律が、不意に言葉を紡ぎ始めたのは、その直後のことだった。




秋山の軍用端末の画面に、これまで見たこともない複雑な波形が濁流のように流れ込んだ。


「認証のバイパスじゃない、これはシステムそのものの『書き換え』だ!」


 秋山が叫び、キーボードを叩く。画面には、彼女の筆跡をデジタル化したような文字が、一行ずつ浮かび上がっていった。


『もしこれを、時計の読み方が下手なあなたが見ているなら――成功ね。私は今、あなたたちの世界にはいない。でも、この磁気嵐の中に、私の欠片が偏在している』


スピーカーから聞こえる鼻歌が、不意に言葉を紡ぎ始めた。


カセットテープの磁気記録と、店内のシールドが起こす干渉が、ありえないはずの「新しい音声」を生成しているようだった。


『驚かないで。この磁気嵐も、モノリスも、私が計算を間違えた結果じゃない。これは……私がこの世界に遺した「重し」なの。私が宇宙の消去プログラム(デリート)に負けないよう、あなたたちの記憶を繋ぎ止めるための、巨大ないかり


「重し……?」


サチは磁場に捕らわれ、目の前で静かに静止している刺繍を見つめ、掠れた声を漏らした。


「じゃあ、あの子がこの嵐を止めるために、これを私に縫わせたっていうのは……」


『サチ、ごめんね。その刺繍は、磁気嵐を収束させるための回路じゃない。……それは、私をこの世界に再構成するための、情報の受け皿なの。私がこの嵐を止めるということは、私がこの宇宙から完全に消えることを意味する。だから私は、自分勝手な選択肢を用意したわ。世界を救って私を消すか。それとも……世界を壊したまま、私を呼び戻すか』


「なんだって……?」


 秋山が絶望的な声を上げた。端末の画面には、二つの実行ファイル(バイナリ)が提示されていた。


【0: System Restore(世界を救い、彼女の全データを消去する)】


【1: Entity Reconstruction(磁気嵐を維持し、彼女を実体化させる)】


 究極の二択。0か1か。


 世界を元に戻せば、彼女という存在はこの宇宙のバックアップからも完全に抹消される。逆に彼女を救えば、世界はこの異常な磁気嵐とモノリスに侵食され続け、不気味な不具合が日常を侵食していく。


「あの子……なんて残酷なことを」


 サチが床に崩れ落ちた。




——————————————————— —- ——



—精神世界の決断(あちら側)—



 「……あんたのわがままが、ついに彼らの首を絞め始めたぞ」


 あちら側の居酒屋。


カウンターの奥で、ノア――秋月乃亜は、現実世界へ突きつけられた残酷な二択を、皮肉な笑みを浮かべて見つめていた。


 そのノアの手は、まるで実体と虚像の間を激しく行き来している。


削除プログラム「ゼロ」の侵食により、彼のジャケットの袖口は、すでに砂嵐のようなスノーノイズに変わり始めていたのだ。



 「ノア、私は……彼に選んでほしかったの。私を消して、正しい世界に戻ってほしいって。……それが一番、彼を苦しめずに済む方法だから」


 彼女は、自分の透き通るような指先を見つめ、静かに呟いた。


 「この実験は、最初から失敗する確率の方が圧倒的に高かったわ。死が目前に迫っていたからこそ、挑めただけの無謀な博打。……失敗して電子の塵となり、彼のいる世界へは二度と戻れない可能性の方が高い。そう分かっていたはずなのに」


 彼女の瞳には、かつて病室で数式を書きなぐっていた時のような、鋭く冷徹な理性が宿っていた。けれど、その奥で小さな光が、消えそうになりながらも激しく明滅している。


 「……それでも、心のどこかで『私を見つけてほしい』と願っている自分がいたの。世界をバグらせてでも、彼にもう一度だけ私を観測してほしかった」


 「……当たり前だ。人間は計算機じゃない。愛なんていう非論理的なバグを抱えてるんだからな。あんたの数式は完璧だったが、その、たった一行の『未練』が、宇宙の整合性をぶち壊したんだ」


 ノアは空中に巨大な計算式を展開し、迫り来る消去プログラムの侵入を必死に食い止めていた。


 「いいか。扉は開いたが、まだ鍵が足りない。あっち側の彼が、あんたの『名前』を思い出し、それを入力しない限り、どちらの選択も確定しない。……さあ、彼が何を思い出すか、見ものだな」


 「先生、もし……私が消える方を選ばれたとしても、私は後悔しません。それは彼が私の愛を受け取って、前を向いてくれた証拠だから。……でも、もし彼が、世界を壊してでも私を選ぶというなら……私はその罪を、彼と一緒に背負って生きていきたい」


 ノアは、その複雑で、けれど強靭な意志を宿した彼女の横顔を、眩しそうに見つめた。


 「あんたは俺と違って、まだ間に合う。あちら側の彼は、あんたというバグを愛しているんだろう? なら、そのバグを正解にするチャンスくらい、与えてやってもいいはずだ」


 銀色の世界が、現実からの干渉を受けて激しく脈動し始める。


 ノアが展開した計算式が火花を散らし、二つの選択肢バイナリが、現実世界のモニターへと転送されていった。





—— ——————————————— ———-




 —現実世界—


「そういうことか。……だから、あんなものが現れたんだ」


 秋山が血の気の引いた顔で、窓の外、夜の街を切り裂くようにそそり立つ漆黒の巨塔――モノリスを指差した。


「モノリスの正体がようやくわかったぞ。あれは宇宙から来た侵略者なんかじゃない。宇宙という巨大なシステムが生成した、『隔離壁サンドボックス』だ」


 秋山の言葉に、店内の空気が凍りつく。


「隔離壁……?」


「ああ。彼女が死の瞬間に自分の意識をデータ化して『あちら側』へ強制アクセスしただろう? あれは宇宙の物理法則からすれば、あってはならない重大なシステム・エラーなんだ。

宇宙の基幹ソースコードの中に、彼女という『不純な個人の意思』がパケットとして紛れ込んでしまった。

……宇宙のシステムは彼女というエラーを検知して、世界がクラッシュするのを防ぐために、あの巨大な防壁を実体化させたんだ」



 秋山は激しくキーボードを叩き、二つのバイナリが提示された画面を絶望的に見つめた。


「あれが現れた場所から物理法則がバグを起こしているのは、世界が今、強制的な『再起動リブート』をかけられようとしているからだよ。システムは彼女というエラーパケットを完全に消去するために、この世界をまるごと初期化しようとしているんだ。……彼女が言った『重し』っていうのは、その初期化プログラムへの抵抗なんだよ」


 僕は窓の外の、無機質な黒い直方体を見上げた。


 あれは彼女を閉じ込める檻であり、同時に世界を消し去るための執行猶予のカウントダウンだったのだ。


「世界を救う『0』を選べば、システムは正常に復旧し、モノリスも消える。だが、不純物である彼女のデータは宇宙の塵としてデリートされる。……逆に彼女を救う『1』を選べば、彼女はこの世界に定着するが、宇宙の修復プログラム(モノリス)との摩擦で世界は永遠にバグり続け、磁気嵐はこの街を壊し続けることになる」


 秋山はマウスを握り、僕を振り返った。


「俺たちは今、世界をバグらせている『たった一つのエラー』を、神様の懐から盗み出そうとしているんだ。

……世界を元に戻すか、世界を壊してでも彼女の手を掴むか。観測者は、お前だ」



居酒屋『パラレル・ライン』。


 窓の外のモノリスが、これまでにないほど激しく脈動し、居酒屋の「盾」である銅の装飾が、耐えきれずに火花を散らした。


「時間が、ない……」


 僕は、BCD時計を見つめた。

 彼女が僕に求めている「答え」。

僕たちが一番幸せだった夜に、僕が彼女に教えたという、本当の名前。


 それは、戸籍に載っているような記号ではない。


 僕たちは、自分たちの孤独に名前を付けるように、お互いを呼んでいた。


「マスター……あの日、僕たちはここで、自分たちのことを何て呼んでいましたか?」


 マスターは、ロウソクの炎を見つめ、静かに口を開いた。


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