第五章 日記帳の秘密
文通と対面の日々が続くある晩のこと。
ティナは帳簿を終え、日記帳を開いて今日の出来事を書こうとした。ペンを構え、インクを浸し――手が止まった。
日記帳の白紙のページに、見覚えのない文字が浮かんでいた。
ルディのセーブデータではない。ティナの日記でもない。第三の文字だった。
古い字体。流麗だが力強い筆跡。インクの色も違う――ティナの黒でも、ルディのセーブデータの青白い発光でもなく、淡い金色に輝いている。
ティナの呼吸が止まった。
この筆跡を、知っている。
八歳の誕生日に、母が手紙をくれた。「ティナへ。毎日がんばっていますね。お母さんはいつでもあなたの味方です」――ティナの宝物だったその手紙は、今でも寝台の引き出しにしまってある。その手紙の筆跡と、目の前の文字は、一画の癖まで同じだった。
「この日記帳を手にした者へ。あなたがこれを読んでいるなら、あなたもまた、『記録親和』の血を引く者でしょう」
母、アネット・ロッシュの文字だった。
ティナはペンを机に置いた。指先が震えていた。目の奥が熱くなるのを感じたが、泣くのは堪えた。今は読まなければならない。母が遺した記録を、一字も漏らさずに。記録親和の力が、このときばかりは自分を助けてくれた。震える手でも、目は正確に文字を追える。
「この日記帳は、ただの日記帳ではありません。私が長い年月をかけて術式を施した魔導具です。『記録親和』の魔力と共鳴することで、世界中の『記録』を受信し、保存する機能を持っています」
「あなたの手元にこの日記帳がある今、きっと不思議な現象が起きているでしょう。知らない誰かの記録が、勝手に書き込まれているかもしれません。それは日記帳が正しく機能している証拠です」
ティナは深呼吸をした。
つまり――ルディのセーブデータが日記帳に書き込まれるのは、偶然でもバグでもなく、母が意図的に組み込んだ機能だったのだ。「世界中の記録を受信する」ための魔導具。母はこの日記帳を、そのような目的で作り上げていた。
なぜ。何のために。
答えは次のページにあった。アネットの文字はここから少し筆跡が変わった。整った書体が微かに揺らいでいる。おそらく、体調が悪い中で書いたのだろう。それでも一字一句が丁寧に刻まれていた。
「ティナ――あなたの名前を書けることが嬉しい。これを読んでいるのがあなただと信じて、母として書きます」
「ロッシュ領の北にある『凍牙の迷宮』。あのダンジョンの出現は偶然ではありません。200年前、この国の先人たちが封じた災厄――『氷皇竜フリージア』の封印が劣化しています。封印は『記録』で成り立っています。石に刻まれた古代文字、地層に眠る魔力の痕跡、空気中に漂う術式の残滓。それらの記録が時間とともに薄れ、封印が綻び、ダンジョンという形で地上に影響が漏れ出しているのです」
「封印を修復するには、最深部に新たな封印記録を書き込む必要があります。それができるのは、『記録親和』の力を持つ者だけ」
ティナのページをめくる手が止まった。記録親和――ティナの力。そしてアネットの力。
世界の封印を支えているのが「記録」であり、それを修復できるのが自分と同じ力の持ち主だけだという事実は、地味で役立たずだと思っていた自分の恩寵の意味を、根底から覆すものだった。
「私はそれを知り、この日記帳を準備し、自分で迷宮に挑もうとしました。しかし、私の体はもう限界でした。病が進行し、最深部に辿り着く体力がありませんでした。途中で撤退し、この日記帳に私が持つすべての知識と術式を封じました。いつか、あなたが――あるいは記録親和の力を持つ別の誰かが――これを引き継いでくれることを信じて」
母が、迷宮に挑んでいた。
一人で。誰にも告げず。病に蝕まれた体で。
ティナの脳裏に、記憶が蘇った。母が頻繁に「遠出」をしていた時期があった。ティナが六歳か七歳の頃。「お母さんはちょっと調べ物をしてくるわ」と笑って出かけ、数日後に疲れた顔で戻ってきた。あのとき母は――ダンジョンに行っていたのだ。
なぜ言ってくれなかったのか。なぜ一人で背負ったのか。
――いや。わかる。ティナ自身がそうだから。
領地の問題を一人で抱え込み、父には心配をかけたくなくて黙っている。母も同じだったのだ。家族を守るために、自分だけで重荷を背負う。ロッシュ家の女は、そういう生き方をしてしまう。
「ティナ。あなたに重荷を遺してしまって、ごめんなさい。怒ってもいい。なぜ生きている間に話してくれなかったのかと、責めてもいい」
「でもどうか知って。この力は地味でも無意味でもないの。記録するということは、忘れないということ。世界のすべての痛みと喜びを覚えておける力なのよ」
「あなたが読んでいる誰かの記録が、その人にとっての痛みであるなら――どうか覚えていてあげて。『なかったこと』にしないで。それが、記録親和に生まれた者にできる、一番大切なことだから」
文字はそこで途切れていた。金色の光が、ゆっくりと薄れていく。
ティナは日記帳を膝の上に載せたまま、長い間動けなかった。
涙が一筋、頬を伝った。ティナは慌てて拭ったが、拭っても止まらなかった。次から次へと涙が溢れ、視界が滲む。十年間、泣くことを自分に許してこなかった。領主代行が泣いている暇はない。泣いても問題は解決しない。だから泣かなかった。
でも今――母の文字を読んで、堰が壊れた。
母は自分のことを思っていた。この日記帳に術式を施しながら、娘の名前を書けることが嬉しいと、そう書いた。重荷を遺すことを謝りながら、それでも娘の力を信じると書いた。
書斎の扉が開いた。
ルディだった。今夜はダンジョンに戻らず、書斎の簡易寝台で仮眠を取っていた。ティナの気配がいつもと違うことに気づいて、起き出してきたらしい。マフラーを首に巻いたまま、寝ぼけまなこで――しかしティナの涙を見た瞬間、目が覚めた。
「……ティナ?」
ティナは咄嗟に日記帳で顔を隠そうとしたが、遅かった。涙の跡が蝋燭の光にきらきらと反射している。
「……何でもありません。帳簿の数字が合わなくて」
「帳簿で泣く奴がいるか」
「います。辺境伯令嬢は帳簿で泣くんです」
「泣かないだろ普通」
「普通の基準はあなたに決められたくありません」
声が震えた。最後のほうは、もう強がりを維持できていなかった。
ルディは何も言わずにティナの隣に来て、日記帳を覗き込んだ。金色の文字は薄れかけていたが、記録親和の力でまだ読める。
ルディはゆっくりとアネットのメッセージを読んだ。沈黙が長かった。
ルディは慰めの言葉が下手だった。前世でもそうだ。友人が落ち込んでいるとき、気の利いたことが言えない。「大丈夫?」と聞くのは簡単だが、大丈夫じゃないことがわかっているのに聞くのは無神経だと思った。「頑張れ」も違う。もう十分頑張っている人間に頑張れと言うのは暴力だ。
だから――言葉ではなく、行動で。
日記帳を手に取り、アネットのメッセージの下に、一行だけ書いた。
「お前の母さんの文章、句読点の打ち方が丁寧だな。お前に似てる」
ティナは涙で滲む視界でその文字を読んだ。
慰めの言葉ではなかった。哀れみでもなかった。ただ――母の文章を読んで、娘との共通点を見つけて、それを伝えただけ。
でも、それが一番嬉しかった。
「……母に似ているのは私です。逆に言わないでください」
「ああ、そうだな。悪い」
「……ありがとうございます」
「何が」
「句読点を褒めてくれて」
「そこかよ」
ルディは頭を掻いた。ティナは日記帳を閉じて、目元を拭った。泣き止んだわけではない。でも――一人で泣くのと、隣に誰かがいて泣くのは、全然違う。
「ルディさん」
「ん」
「母の記録に、封印の修復には記録親和の力が必要だと書いてありました。つまり――私が、凍牙の迷宮の最深部に行かなければならないかもしれません」
ルディはカップを受け取り、ティナの目を見た。
「一人で行くつもりか」
「まだ何も決めていません」
「一人では行かせない」
ルディの声は、愚痴でもぎこちない敬語でもなかった。静かで、確かで、有無を言わせない響き。
「お前が行くなら俺も行く。封印を書くのはお前の仕事だ。そこまでお前を連れていくのは、俺の仕事だ」
「……まだ決めていないと――」
「決めてなくても、約束はしておく。決めたとき、一人で行くなよ」
「……善処します」
「それ善処しない人の返事だって、前に俺のセーブデータに書いてあっただろ」
ティナは笑った。自分の添削が自分に返ってきた。
「……わかりました。一人では行きません」
「よし」
ルディは立ち上がり、簡易寝台に戻りかけて――振り返った。
「なあ、ティナ。お前の母さんが書いてた。『記録するということは、忘れないということ』って」
「ええ」
「俺は、お前に忘れられたくないなと思った。それだけ」
そう言い残して、ルディは寝台に戻った。
ティナは冷めかけた薬草茶を見つめた。
記録親和の持ち主に、忘れられたくないと言った。それはこの世界で最も的確に届く言葉だ。
日記帳を開き、今日の記録を書いた。
「母の遺言を読んだ。封印のこと。記録親和のこと。そしてルディさんのこと。全部覚えておく。忘れない。これは私の力だから」
もう一行だけ書き足した。
「あの人に忘れられたくないと言われた。忘れるわけがない。記録親和でなくても、たぶん忘れない」
――これ、ルディさんに読まれるんだった。
気づいたときには遅かった。記録親和の日記帳に書いた文字は消せない。
ティナは静かに日記帳を閉じ、灯りを消し、毛布を頭まで被った。
明日のことは、明日考える。




