第四章 日常浸食2
ルディがセーブデータに「コンビニのおにぎりが食べたい」と書いた翌日のこと。
ティナの頭の中に「おにぎり」の概念が流れ込んだ。米を炊き、塩をまぶし、三角形に握る。具材を中に入れることもある。「前世」の日常的な食べ物らしい。
ティナは厨房に立った。この世界にも米に似た穀物はある。炊き方は日記帳の副作用で「なんとなく」わかる。三角形に握るのは手の感覚だ。何度か崩れたが、五個目でそれらしい形になった。
次の復活のとき、テーブルの上に薬草茶と並んで三角形の何かが置いてあるのを見て、ルディは固まった。
「……ティナ。これ」
「おにぎり、だと思います。たぶん」
ルディは一つ手に取り、一口かじった。表情が複雑に変化した。驚き、懐かしさ、そしてかすかな笑い。
「……近い。惜しい。八十五点」
「点数をつけないでください。私のおにぎりに偏差値はありません」
「偏差値知ってるのかよ。副作用すごいな……」
「意味は正確にはわかりませんが、序列をつけるための数値ですよね。食べ物に使うものではないと思います」
「いや、まあ、そうなんだけど。――うまいよ。ありがとう」
ルディの声が少しだけ掠れた。ティナはその変化を聞き逃さなかった。
「……どうかしましたか」
「いや、なんでもない。ただ……おにぎり、最後に食べたの、たぶん前世の姉貴が作ってくれたやつだったなって」
ティナはペンを持つ手を止めた。ルディが「前世の姉」について話すのは、初めてだった。
「……お姉さんがいらっしゃったんですか」
「ああ。三つ上の姉貴。料理上手で、世話好きで、うるさくて。……このマフラー、姉貴にもらったんだ。前世で」
ルディは首元の擦り切れたマフラーに触れた。転生時に唯一持っていた私物。前世と今世を繋ぐ、たった一つの物理的な証拠。
「こっちの世界に来たとき、これだけ持ってた。なんでかはわからん。ただ――これがあるから、前世が夢じゃなかったって、信じられる」
ティナは何と言えばいいかわからなかった。母の形見の日記帳を大切にしている自分と、姉の形見のマフラーを手放さないルディが、似ていると思った。
「……大切なものですね」
「ああ」
「洗濯、しますか? だいぶ傷んでいるようですが」
「え、いや、自分で――」
「あなたの洗濯の腕は信用できません。セーブデータに『鎧の手入れサボった』と三回書いてありましたから」
「三回って具体的に覚えてるのやめろ」
ティナはルディからマフラーを受け取り、丁寧に畳んだ。明日、手洗いしよう。薬草の柔軟仕上げ液を使えば、繊維を傷めずに洗える。
――他人の大切なものを預かるのは、緊張する。でも、預けてもらえたことが嬉しい。
その感情を、ティナは今度は棚に乗せなかった。ただ、胸の中にそっと置いた。
ある日の復活の夜。いつもの軽食の隣に、ティナが翌日の来客用に焼いておいたタルトが置いてあった。蜂蜜と木の実のタルト。辺境では贅沢品だ。焼き上がるまでに三時間かかる。
ルディが真っ先にタルトに手を伸ばし、一口かじった瞬間。
表情が、溶けた。
他に表現のしようがない。勇者の威厳も、転生者の達観も、全部なくなった。ただ「甘いものを食べて幸せになっている人間」の顔だった。頬が緩み、目が細くなり、咀嚼するたびに小さく頷いている。
ティナは書斎の入口から、その光景を見ていた。起きてこないはずの自分が、物音を聞いて来てしまった。扉の隙間から覗いているだけのつもりだったが――目が合った。
ルディの手が止まった。タルトを半分かじった状態で硬直している。
数秒の沈黙。
ティナは無言で書斎に入り、棚からナイフを取り出し、タルトを追加で切り分けた。一切れをルディの皿に乗せ、もう一切れを自分の分にした。
「……勇者って、甘いもの好きなんですね」
「違う。これは……糖分補給だ。戦闘後は糖分が必要なんだ。栄養学的に――」
「セーブデータに『この世界にコンビニスイーツがないの人権侵害では』と書いてありましたけど」
「…………忘れてくれ」
「記録親和の持ち主に『忘れてくれ』は通用しません」
ルディはマフラーに顔を埋めた。耳の先まで赤い。
ティナは自分の分のタルトを一口かじった。甘い。美味しくできている。三時間かけた甲斐があった。
――この人が幸せそうにタルトを食べる顔を、記録親和の力で覚えてしまう。忘れようとしても忘れられない。
困ったことだ。困ったことだが、困っていない自分がいる。
翌朝。村長の孫の誕生祝い用のタルトが足りなくなったので、ティナは夜明け前に起きて焼き直した。
父ホルストは朝食の席で新しいタルトを見つけ、のんびりと言った。
「ふむ、焼き直しか。ティナがタルトを焼き直すのは珍しいな。よほど大事な相手のためだろう」
「村長のお孫さんのためです」
「ふむ。勇者殿のためではなく?」
「父上。なぜそこで勇者の話が出るんですか」
「いやなに、昨夜の書斎から甘い匂いがしていたのでな。ふむ。父さんもタルトが食べたいなあ」
「……焼きます。焼きますから、それ以上何も言わないでください」
ホルストは満足そうに「ふむ」と頷いた。
この穏やかな辺境伯が、ティナにとって最も手強い相手であることは間違いなかった。ダンジョンのボスよりも、軍の師団長よりも、父のこの「ふむ」のほうがよほど対処が難しい。
ある夜。ルディが復活して薬草茶を飲みながら、ぽつりと言った。
「なあ、ティナ」
「はい」
「お前、いつも俺のために色々用意してくれてるけど……自分の時間、削ってないか?」
ティナはカップを持つ手を止めた。
「削っていません。もともと夜更かしの習慣がありましたし、軽食の準備は五分で済みます」
「嘘つけ。タルト焼くのに三時間かかるって、前に自分で言ってただろ」
「……あれは来客用です」
「来客用を俺が食べたことについては?」
「不可抗力です」
「不可抗力で追加を切り分けてくれたのか?」
ティナは言葉に詰まった。ルディがこういう鋭さを見せるのは、セーブデータの愚痴からは想像できなかったが――考えてみれば、セーブデータにはパーティメンバーの疲労を察知する記述や、師団長の機嫌を読む記述が何度もあった。この人は自分のことには鈍いくせに、他人のことには目敏い。
「……私の時間の使い方は、私が決めます」
「心配してるんだよ、お前のことを。お前、俺のセーブデータ読んで心配してくれるけど、お前自身が一人で全部抱え込んでるの、日記帳の文面でわかるんだぞ」
――日記帳の文面で、わかる。
そうだ。リンクは双方向だ。ティナの日記もルディに読まれている。「困ります」も「合理的な判断です」も、全部。
「……読んでたんですか」
「読んでた。最初は悪いと思ったけど、おあいこだろ」
「……何を、読みましたか」
「全部」
「全部はやめてください」
「お前も俺のセーブデータ全部読んでるだろ」
「……それは添削のためです」
「じゃあ俺のも添削だ。お前の日記、たまに主語が抜けてる」
反論が出てこなかった。添削をされる側になるとは。
それから、二人は同時に小さく笑った。書斎の蝋燭が揺れ、辺境の静寂の中に、笑い声だけが小さく響いた。




