第四章 日常浸食1
ルディがティナの書斎に復活するようになってから、二人の交流は「文通」と「対面」の二層構造になった。
ダンジョンにいる間は従来通り日記帳での文通。ルディが戦闘ログと愚痴を書き、ティナが添削と戦術アドバイスを返す。そしてルディがHPを0にして戻ってくると、ティナの書斎で短い対面が発生する。
問題は――対面の頻度が、思ったより高いことだった。
最初の一週間で、ルディは四回復活した。
一回目は深夜二時。第21層のボス戦で敗北。ティナは寝ていたが、日記帳の発光と空間の裂ける音で目が覚めた。寝間着のまま書斎に駆け込むと、テーブルの上には前夜に用意しておいた薬草茶と軽食がある。ティナは寝癖を手で押さえながら――押さえても直らなかったが――椅子に座るルディに声をかけた。
「お帰りなさい。……寝癖、見ないでください」
「見てない。つーか俺も寝起きみたいなもんだから。死に起きだけど」
「死に起きという言葉は存在しません」
「今作った」
「作らないでください。日本語――いえ、言語の冒涜です」
二回目は翌日の夕刻。第22層の通常モンスターに不意打ちを食らったらしい。ティナは書斎で帳簿をつけている最中だった。空間が裂ける瞬間、帳簿の上に砂埃が降り注ぎ、今月の収支計算が汚れた。
「ただいま――じゃなくて、すまん。また来た」
「お帰りなさい。お茶はまだ温かいです。それと、今日の帳簿の列が一つずれたのはあなたのせいです。空間が裂けるとき、風圧でページがめくれました」
「俺のせいなのか……」
「物理的にはあなたのせいです。意図的でないことは理解していますが、帳簿は書き直しです」
「すまん……」
「謝るなら、第22層の通常モンスターに不意打ちを食らわないでください。セーブデータを読む限り、あの区画の敵の出現パターンは三回前に記録済みのはずですが」
「……お前、俺のセーブデータ暗記してるのか」
「暗記ではありません。記録親和です。一度読んだものは忘れにくいだけです」
三回目は深夜三時。四回目は翌々日の真夜中。
ティナは四回目の復活のあと、ある決断を下した。
「ルディさん。提案があります」
「なんだ」
「復活のたびに私が起きるのは非効率です。書斎にあなた用の寝台を置きます。復活したら勝手にお茶を飲んで、休んで、朝になったら出発してください。私を起こす必要はありません」
「いや、それはさすがに図々しくないか。お前の書斎だぞ」
「私の睡眠時間のほうが大事です。合理的な――」
「合理的な判断だろ。知ってる」
こうして、ティナの書斎の隅に簡易寝台が置かれた。毛布と枕。着替え用のシャツ。常備の薬草茶セットと、茶の淹れ方を書いたメモ(「蒸らし時間を守ること。あなたの性格上、このメモがなければ間違いなく早く注ぐでしょうから」と書いてある)。ティナは一連の装備を「非常用備品」と呼んだ。ルディは「俺の部屋みたいになってきたな」と呟いて、ティナに「あなたの部屋ではありません」と即座に訂正された。
しかし実際のところ――ティナは起きていた。毎回。
日記帳が光るたびに目が覚めた。光の強さと持続時間で、ルディの復活かどうかは判別できる。セーブデータの書き込みなら淡い光が数秒。復活なら、部屋の外から見ても眩しいほどの発光が五秒以上続く。
光を確認すると、ティナは寝台から起き出し、書斎の扉の前で耳を澄ませた。椅子が引かれる音。鎧が外される金属音。カップに茶が注がれる音。物音が落ち着いてから、自室に戻る。
直接顔を出さないのは「起きていたことを悟られたくない」からであり、それは合理的な判断では全くなかった。合理的なら寝ていればいい。非常用備品は揃っている。ルディは大人だ。一人でお茶を淹れられる。
――でも、確認しないと眠れない。
ティナは自分の行動の矛盾に気づいていた。気づいていたが、気づかないふりをすることにも慣れてきていた。人間、慣れというのは恐ろしいものだ。
ある夜、ティナが扉の前で耳を澄ませていると、書斎の中からルディの声が聞こえた。独り言だった。
「……お茶、うまいな。ちゃんと蒸らしたぞ、メモ通りに」
それから、少し間を置いて。
「……帰る場所があるって、こういうことなんだな」
ティナは扉に額をつけたまま、目を閉じた。心臓が痛い。痛いというか、温かいというか、その両方だ。合理的に説明できない身体反応が起きている。
扉の向こうで、カップが置かれる音がした。ルディが簡易寝台に横になる気配。毛布を引き上げる衣擦れ。やがて、静かな寝息。
ティナは音もなく自室に戻り、寝台に横になった。天井を見つめながら、思った。
――あの人の寝息を、書斎の扉越しに聞いて安心している自分がいる。合理的ではない。全く合理的ではない。
でもいい。今夜は、それでいい。
ルディの復活が日常に溶け込むにつれて、新たな問題が浮上した。
異世界語彙の浸食である。
日記帳の「副作用」――ルディのセーブデータを読むたびに、彼の前世の知識がティナの頭に流れ込む現象――は、文通が始まった頃から存在していた。しかし対面での交流が加わったことで、浸食の速度が格段に上がった。
最初の兆候は些細なものだった。
「父上、この帳簿の数字、つじつまが合いません。いわゆる……『えくせるで関数を間違えた』状態です」
ホルストはスープの匙を止めた。
「……ティナ。えくせるとは何だね」
「……わかりません。でも、なぜかすごく的確な表現だと思います」
ホルストは首を傾げ、ティナも首を傾げた。頭の中に浮かんだ概念を、口が勝手に言葉にしてしまう。「えくせる」が何なのか正確に説明できないが、「数字を整理する便利な仕組み」であることは感覚的に理解できる。帳簿の計算を間違えたときに使う表現として、これ以上ぴったりくるものはない。
日を追うごとに、浸食は進んだ。
村の集会で水路の修繕について議論しているとき。
「ここの水流の分岐は、要するに『ばぐ』です。設計時の想定と実際の挙動が食い違っています」
村人たちが怪訝な顔をした。ティナは自分の口から出た言葉に一瞬たじろぎ、すぐに言い直した。
「……つまり、設計に不具合があるということです。失礼しました」
薬草の配合を考えているとき。
「この組み合わせは……『ばふ』が乗りますね。いえ、相乗効果が高い、と言い直します」
父ホルストの夕食の量が少ないのを見て。
「父上、それでは『えいちぴー』が回復しません。――つまり、栄養が足りません」
ホルストは娘の新しい語彙に最初こそ困惑していたが、三日目には順応した。「ふむ、えいちぴーか。父さんのえいちぴーは釣りで回復するから大丈夫だ」と返すようになった。使い方が盛大に間違っているが、ティナは訂正する気力を失っていた。
ルディは次の復活のとき、この現象を聞いて頭を抱えた。
「副作用、そんなに強くなってるのか……。すまん、俺のせいだな」
「あなたのせいというか、日記帳の仕様の問題だと思います。ただ、日常会話に支障が出始めているのは事実です。先日、村人に向かって『それは"くそげー"ですね』と言いかけて寸前で飲み込みました」
「それは飲み込んでくれてありがとう……」
「意味は――不条理で理不尽な状況、ですか?」
「だいたい合ってる。でもそれ公式の場で使うとまずいから――」
「わかっています。だから飲み込んだと言っているでしょう」
しかし副作用は悪いことばかりではなかった。
ルディの前世の知識には、この世界にはない発想が含まれていた。「在庫管理」「費用対効果」「優先順位付け」――帳簿仕事に応用できる概念が山ほどある。ティナはそれらを領地経営に取り入れ、薬草の出荷計画を効率化し、修繕工事の順序を合理的に組み直した。
村の長老に「ティナ嬢、最近の帳簿が格段にわかりやすくなりましたな」と褒められたとき、ティナは「少し勉強しました」とだけ答えた。勉強の教材が勇者の愚痴だとは、口が裂けても言えない。




