第三章 勇者、令嬢の書斎に墜落する2
ルディはおずおずと椅子に座った。鎧の肩当てが椅子の肘掛けにぶつかり、ガチャリと音がした。書斎の椅子は鎧を着た人間が座ることを想定していない。当然だ。
「あ……すまん、鎧が――」
「構いません。それより、状況を説明していただけますか。なぜ私の書斎に出現したんですか」
ティナは振り返らずに聞いた。振り返ると顔が赤いのがバレるからだ。――いや、赤くなどない。薬草茶を淹れるのに集中しているだけだ。蒸らし時間を間違えるわけにはいかない。
「たぶんだけど……俺のスキルのセーブポイントが、お前の日記帳の場所に移動したんだと思う。日記帳と俺のセーブデータがリンクしてるのは前からだろ? そのリンクが強くなりすぎて、セーブポイント自体が日記帳の物理座標に引き寄せられたんじゃないかと」
「つまり……今後もダンジョンで、その、HPが0になるたびに――ここに?」
「…………たぶん」
沈黙が落ちた。蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。窓の外では風が鳴っている。
ティナは薬草茶の入ったカップを二つ持って振り返った。一つをルディの前に置き、もう一つを自分の手元に置く。
初めて、正面から目が合った。
ルディの鋼灰色の瞳が、ティナの琥珀色の瞳を見つめていた。日記帳の文字では伝わらなかったものが、そこにあった。文字面の「慣れた」では隠しきれない疲弊。初対面の相手に対する緊張。そして――ほんの少しの、安堵。
ティナはその安堵の色を見逃さなかった。この人は――復活した場所に、誰かがいることに安堵している。これまではきっと、誰もいない場所に戻っていたのだ。暗闇の中で、一人で、死んだ記憶を抱えて。
「お前……思ったより、小さいな」
ルディが、何を言うかと思えば、それだった。
「……今のは失礼に当たるということは、この世界の常識でなくとも理解できると思いますが」
「あ、いや、悪い、そういう意味じゃなく――文面がしっかりしてたから、もっとこう、厳格な感じの人を想像してた。威圧感のある大柄な――」
「エプロンドレスで帳簿をつけている辺境の令嬢に、何を期待していたんですか」
「……すまん」
ルディはマフラーに顔を半分埋めた。耳が赤い。ティナはそれを見て、この人が文面通りの不器用な人間であることを確信した。日記帳では饒舌な愚痴を書き連ねるくせに、面と向かうと途端に言葉が足りなくなる。そのギャップは――正直に言えば――少しだけ、おかしくて、少しだけ、かわいらしかった。
――かわいらしい? 今、自分は勇者を「かわいらしい」と思ったのか?
ティナは全力でその思考を棚の奥に押し込んだ。棚は既に崩壊寸前だったが、力ずくで詰め込んだ。
「……お茶、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ルディが薬草茶を一口すすり、目を丸くした。
「……うまい」
「当たり前です。私が淹れたんですから」
「いや、日記帳にレシピ書いてもらって自分で作ったときより格段にうまい。なんでだ?」
「蒸らし時間を十秒間違えたんでしょう。あなたの性格だと、待てずに早めに注いだはずです」
「…………なんでわかるんだよ」
「一ヶ月あなたのセーブデータを読んでいれば、性格くらいわかります。『攻撃パターン3順目で飽きて突っ込んで死んだ』と書いていた人が、蒸らし時間を守れるとは思えません」
ルディは図星を突かれた顔をした。それから、小さく笑った。
日記帳の文面では見たことのない笑顔だった。当たり前だ。文字に表情はない。しかし、今、目の前で見ている。この人が「勇者」の仮面を外して、ただの人間として笑う顔を。
口元がわずかに上がり、隈の深い目が少しだけ和らぐ。それだけの変化なのに、ティナの心臓がまた一つ余分に脈打った。
――もう棚に乗せるのは不可能だ。
翌日。ルディはセーブポイントの修正を試みた。
ダンジョン入口に再設定し、何度も確認し、万全の態勢で出発した。
その夜。第20層のボス戦でHPが0になり――再びティナの書斎に出現した。日記帳が光り、空間が裂け、全回復したルディが床に転がる。前回と全く同じパターンで。
「…………」
「お帰りなさい。お茶、置いてあります」
ティナはテーブルの上を指した。薬草茶と軽食――パンとチーズと干し果物――が、きちんと整えて並べてあった。
「……なんで用意してあるんだ」
「あなたの攻略ペースから推測して、今夜か明日の夜に復活する確率が高いと判断しました。合理的な準備です」
合理的。嘘だ。ただ心配で、用意せずにはいられなかっただけだ。彼が死んで戻ってきたとき、暗くて寒い部屋に一人で立っているのを想像したくなかっただけだ。だから灯りを点けておいた。お茶を温めておいた。パンを切っておいた。
でもそれを認めるのは、まだ早い。
ルディは軽食を見つめ、それからティナを見つめ、何か言いかけて口を閉じた。代わりに黙って椅子に座り、パンをちぎって口に運んだ。
「……うまい」
「パンとチーズですが」
「うまいんだよ。誰かが用意してくれたっていうのが」
ティナは返す言葉を失った。
この人は――死ぬたびに、一人でセーブポイントに戻っていた。誰もいない場所で。暗闇の中で。死んだ記憶を抱えたまま、一人で立ち上がり、一人で鎧を整え、一人でダンジョンに戻っていた。「温かいお茶が置いてある」「パンが切ってある」――たったそれだけのことが、この人にとっては初めての体験なのだ。
胸が痛い。合理的ではない感情が、胸の中で暴れている。
ティナは何も言わずにお茶のカップを持ち上げ、一口飲んだ。それから、事務的な声で言った。
「……明日から、常備します。あなたがいつ復活しても困らないように」
「いいのか?」
「いいも何も、深夜に物音で起こされるよりマシです。合理的な判断です」
「お前、何でも合理的って言うな」
「合理的ですから」
ルディは何か言いたそうにしていたが、結局「ありがとう」とだけ呟いた。
その夜、ルディがダンジョンに戻ったあと、日記帳にセーブデータが記録されていた。いつもの戦闘ログとは別に、末尾に一行だけ追記されている。
「今日のセーブデータ:状態、良好。備考――帰る場所ができた」
ティナはその一行を読み、日記帳を胸に抱いた。ページが顔に触れるほど近くで、何度もその一行を目で追った。
帰る場所ができた。
この人にとって、ティナの書斎が「帰る場所」になった。死ぬたびに、ここに戻ってくる。温かいお茶とパンが待っている場所。ティナがいる場所。
それから日記帳を閉じ、灯りを消して、暗い天井に向かって呟いた。
「……困ります。本当に、困ります」
何が困るのか、ティナはもう自分でわかっていた。この感情を「合理的」と名づけることは、もうできない。どう言い繕っても、これは――。
ティナは毛布を頭まで引き上げた。認めるにはまだ早い。でも否定するには、もう遅い。
翌朝。父ホルストが朝食の席で何気なく言った。
「ふむ。ティナ、最近夜更かしが多いようだが」
「帳簿の計算です」
「帳簿の計算で、こんなにいい顔をするものかね?」
「……何の話ですか、父上」
「いやなに。昨夜、書斎から物音がしたような気がしてな。ふむ、まあ気のせいだろう。――ところで、食卓に並んでいるパンとチーズの量が最近増えているようだが。食欲が出てきたのなら結構なことだ」
ティナは茶碗を持つ手が微かに震えるのを隠した。
「……育ち盛りですので」
「ふむ、十八歳の育ち盛りか。母さんも帳簿が好きだったし、深夜に台所でパンを切るのも好きだったなあ。遺伝というやつだろう。ふむ」
ホルストはのんびりとパンをちぎりながら、窓の外を眺めた。穏やかな朝の光が、鉛色の雲の隙間からわずかに差し込んでいた。
ティナは父の横顔を見て、確信した。
この人は全部わかっている。わかった上で、のんびりした顔をして、核心を突くことを言って、こちらの反応を楽しんでいる。
――父上が本当に厄介なのは、風邪をひくところではなく、こういうところだ。




