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勇者のセーブデータが私の日記帳に上書きされるんですが  作者: 四宮 あおい


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第三章 勇者、令嬢の書斎に墜落する1

 文通が始まって一ヶ月と三日目の夜だった。


 ティナは書斎で帳簿の計算をしていた。薬草の四半期売上のまとめと、街道の橋の修繕費の最終見積もり。ペンを走らせ、数字を照合し、ときどき薬草茶をすする。辺境伯令嬢の夜は地味だ。華やかさの「か」の字もない。


 今夜はいつもより遅い時間まで作業をしていた。明日が街道管理局への提出期限で、数字を一つも間違えるわけにはいかない。帳簿の端にインクが滲んでいるのを見つけ、舌打ちしそうになって堪えた。集中力が切れかけている。


 時計の針が深夜零時を指した頃。


 目の端で、日記帳が光った。


 最初は蝋燭の明かりの反射かと思った。しかし違う。日記帳そのものが、内側から青白い光を放っていた。これまでにもセーブデータが書き込まれるとき、微かに光ることはあった。だが今夜の光は桁が違った。目を灼くほどの輝きが、革の表紙の隙間から漏れ出している。


 ティナは椅子から腰を浮かせた。帳簿のインクが乾ききっていないことが一瞬だけ気になったが、それどころではない。


 日記帳から放射状に魔力の波動が広がった。空気がびりびりと振動する。窓ガラスがびりびりと鳴り、本棚の書物がガタガタと揺れた。ティナの亜麻色の髪が風もないのに持ち上がる。体の芯に響くような、低い振動。記録親和の魔力が日記帳と共鳴して、増幅し、暴走している。


 直後――本棚の前の空間が、裂けた。


 ティナには他に表現のしようがなかった。空間に縦の亀裂が走り、まばゆい光の裂け目から、何かが――いや、誰かが――射出された。


 重い衝撃音。書斎の床が振動し、蝋燭の炎が大きく揺れた。


 ティナの書斎の床に、全身鎧姿の長身の男が叩きつけられていた。


 最初に目に入ったのは血だった。鎧の隙間から赤い液体が滲んでいる。いや、滲んでいるのではない。鎧自体が赤く染まっている。凄まじい量の血が、男の全身を覆っていた。床に広がる赤い水溜まり。鉄錆の匂い。


 ティナの心臓が跳ね上がった。しかし――悲鳴は出なかった。


 辺境暮らしの十年間で、ティナは人間の血を見ることに慣れていた。薬草畑で鎌で手を切る村人。狩りで怪我をする猟師。喧嘩で鼻血を出す子供。落馬して腕を折った商人の応急処置をしたこともある。血は日常の一部だった。


 ただし――この量は、日常ではない。


 ティナは一瞬だけ硬直した。体が固まり、思考が空転する。それは一秒にも満たない時間だったが、ティナにとっては途方もなく長く感じられた。


 そして――動いた。


 まず蝋燭の位置を確認した。倒れていないか。火事は困る。次に書斎の扉を閉めた。父を起こす必要はまだない。不用意に騒ぎにするべきではない。そして棚から包帯と軟膏を取り出した。辺境の領主館には常備薬が欠かせない。山仕事の怪我人が運ばれてくることもある。


 男のもとに駆け寄り、仰向けにしようとして――止まった。


 血が、消えていた。


 目の前で、男の全身を覆っていた血が、まるで水が砂に染み込むように急速に消失していく。傷口が塞がっていく。鎧に刻まれた無数の傷跡――斬撃、裂傷、凍傷のような白い痕――が、一つ一つ消滅していく。肌の色が青白い死人のそれから、生きた人間の血色に戻っていく。


 数秒後。男は血の一滴も残さない、完全に無傷の状態で、ティナの書斎の床に大の字に寝転がっていた。


 ティナは包帯を持ったまま、呆然と男を見下ろした。


 ――これが、セーブ&ロード。


 日記帳経由で断片的に理解していた概念が、目の前で現実になった。HPが0になったとき、セーブポイントに全回復で戻る能力。時間が巻き戻り、体が復元される。つまり、この人はたった今――死んだのだ。どこかで致命傷を負い、命を失い、そしてここで復活した。


 死を経験した人間が、床に転がっている。無傷で。まるで何事もなかったかのように。


 しかしティナは知っている。日記帳を通じて。この人の「死んだ記憶は残る」という言葉を。体は全回復しても、死んだときの痛みと恐怖は消えない。


 男が目を開けた。


 鋼灰色の瞳が、天井を見つめ、それからゆっくりとティナの顔に焦点を結んだ。瞳は揺れていた。死の直後の混乱が、まだ消えきっていない。


「っ……どこだ、ここ……」


 かすれた声。体は全回復しているはずなのに、声は掠れていた。精神の消耗は、肉体の回復では補えないのだ。


 ティナは男の顔を観察した。黒髪を無造作に後ろへ流した、精悍な顔立ち。目の下に深い隈。首元には擦り切れたマフラーが巻かれている。長身で体格がよく、鍛え上げられた筋肉の輪郭が鎧越しにもわかる。年齢はティナより少し上――二十代前半というところか。


 日記帳の書き込みで知っていた特徴と、すべて一致する。


「……ルディさん?」


 ティナは自分でも驚くほど冷静な声でそう呼びかけた。声は冷静だったが、心臓は暴れ回っていた。日記帳で一ヶ月以上やり取りしてきた相手が、目の前にいる。文字でしか知らなかった人間が、血肉を持って床に転がっている。


 男の目が見開かれた。


「ティナ? ……え、嘘、ここ……ステータス確認――」


 ルディは跳ね起きようとして、鎧の重さにバランスを崩し、片膝をついた。目の前の虚空を凝視しながら、唇が動く。ティナには見えないが、彼の目にはステータス画面が表示されているのだろう。


「――セーブポイントの座標が……は? なんでロッシュ辺境伯領の座標になってる? ダンジョン入口に設定したはずなのに――バグか? いやバグとかあるのかこのスキルに――」


「ルディさん」


「――もしかしてお前の日記帳に引っ張られて座標がズレた? だとしたらこの世界のスキルシステム、ガバすぎ――」


「ルディさん」


「――ていうか俺いまどういう格好してる? 鎧は着てる? 着てるな、よし。いや、よくない、状況がよくない――」


「――ルディさん」


 ティナは、会話が成立しない相手に対する十年の経験――主に父ホルストとの生活で培われた技術――を遺憾なく発揮し、的確な音量とタイミングで名前を呼んだ。三度目の呼びかけには、わずかに声の温度を下げた。これは「聞こえていますか」ではなく「黙りなさい」の合図である。


 ルディがようやく黙った。ステータス画面を見ていた視線がティナに戻る。


「……はい」


「落ち着いてください」


「落ち着いてる」


「落ち着いている人は、一息に五つも文を並べません」


「…………」


「座ってください。椅子はそこです。薬草茶を淹れますから」


 ティナは既に棚から茶葉の瓶を取り出していた。体が先に動いている。十年間、突発的な事態に対処し続けてきた経験が、こういうときに発揮される。心臓は暴れているが、手は動く。思考は乱れているが、やるべきことは見える。


 まず状況を安定させる。混乱している人間には、温かい飲み物と座る場所を提供する。それから話を聞く。順序を間違えてはいけない。




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