第二章 勇者の愚痴2
十日目。ルディの書き込みに、初めて戦闘以外の話題が混じった。
「第10層の中継地点で小休止中。ダンジョン内の食事がマジで終わってる。干し肉と固パンしかない。こんなこと言ったら贅沢って怒られるかもだけど、甘いもの食べたい。前世はコンビニのプリンとか気軽に食えたのに。この世界にコンビニスイーツがないの人権侵害では」
ティナは、思わず小さく笑ってしまった。
口元を押さえ、きょろきょろと書斎を見回したが、当然誰もいない。父は二階で眠っている。安心して、もう一度だけ笑った。
この人は勇者で、ダンジョンで命を懸けて戦っていて、何度も死んでいて――それなのに、プリンが食べたいと嘆いている。そのギャップが、どうしようもなくおかしかった。
そして同時に、少しだけ胸が締めつけられた。甘いものを気軽に食べられる日常が、この人にはないのだ。ダンジョンの中で干し肉を噛みながら、「前世」の甘いものを思い出している。その情景を想像すると、笑ったあとに来る感情は、やはり心配だった。
「プリンが何かは正確にはわかりませんが、甘い菓子のようなものですか? 卵と乳と砂糖を使った、柔らかいものでしょうか(日記帳の副作用で、うっすらとした印象が流れ込んできます)。うちの領地では乳製品も薬草の蜂蜜もありますので、似たようなものは作れるかもしれません。――お送りする手段がないのが残念ですが」
「え、作れるの? マジで? お前すごくないか? いやそもそも辺境伯令嬢が菓子を手作りするものなのか?」
「うちは辺境の田舎ですので、料理人を雇う余裕はありません。菓子も食事も私が作ります。あなたこそ、勇者が甘いもの好きというのは意外ですが」
「これは極秘事項なんだが、甘いもの好きなのは軍の誰にも言ってない。勇者のイメージに関わるから。お前だけだぞ知ってるの」
「光栄なのかどうかわかりませんが、秘密は守ります」
ペンを置いてから、ティナは自分が少し笑っていることに気づいた。勇者の秘密を知っている。甘いものが好きだという、たったそれだけの秘密を。たったそれだけの秘密なのに、胸の奥がくすぐったい。
――駄目だ。これは合理的ではない。全く合理的ではない。
「――ところで、軍の方には愚痴を言える相手はいないのですか」
書いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。しかし取り消すことはできない。日記帳のインクは消せない。ティナの記録親和の魔力が、文字を正確に定着させてしまうからだ。
長い沈黙。翌朝の返事はこうだった。
「いない。俺は『勇者様』だから。みんな敬うか、成果を要求するかのどっちかだ。たまにどっちもやる奴もいる(師団長、お前のことだ)。弱音なんか見せたら『勇者なのに情けない』って空気になるの、わかるだろ? だから愚痴はセーブデータのログにだけ書いてた。誰にも読めないはずの場所だったんだ、本来なら」
ティナは日記帳をゆっくりと閉じた。
机に頬杖をつき、窓の外の鉛色の空を眺めた。
大勢の兵に囲まれ、「勇者様」と呼ばれ、国の命運を背負わされている。それなのに、愚痴を言える相手が一人もいない。本音を書ける場所が、自分のステータス画面のログ欄しかなかった。誰にも見せないはずの独白。それが、巡り巡ってティナの日記帳に届いた。
ティナもまた、似たような孤独を知っていた。領主代行として常に判断を求められ、弱みを見せられない立場。父は優しいが頼りにならず、村人たちの前では強くあらねばならない。日記帳だけが本音を預けられる場所だった。
同じだ。この人と自分は、手段は違えど、同じことをしていた。
ティナはペンを手に取った。
「……わかります。私もこの日記帳にしか本音を書けませんでしたから。――添削は続けますが、愚痴を書くこと自体は、もう止めません。ただし、文法は守ってください」
「お前って優しいのか厳しいのかわかんないな」
「どちらでもありません。合理的なだけです」
合理的。そうだ、これは合理的な判断だ。日記帳に毎晩書き込まれる文章の質が悪いのは不快だから、改善を指導している。ついでに戦闘のアドバイスをするのは、この人が怪我をすると日記帳に痛々しい記録が残って読む側の精神衛生に悪いからだ。ポーションの代替レシピを書いたのは、不味いという愚痴を読みたくないからだ。
すべて合理的。何一つ感情的な要素はない。
――嘘だ。
ティナはペンを置き、椅子の背にもたれかかった。窓の外は相変わらず鉛色だったが、胸の奥にはほんの少しだけ、暖かいものが灯っていた。
その温もりの正体を、ティナは「気のせい」と分類して棚に上げた。今はまだ、それでいい。認めるには早すぎる。
二週間目。文通はすっかり日常になっていた。
ルディの書き込みは変化していた。戦闘データの羅列だったものに、私的な感想が混じるようになった。ダンジョン内の風景の描写。氷の壁に光が反射して虹色に見える瞬間。出会ったモンスターの妙な生態――スライムが仲間の上に積み重なってタワーを作っていた話。パーティメンバーの珍行動――盾役の兵士が戦闘中に松明を落としてパニックになった話。そして時折、ぽつりと漏れる本音。
「今日で通算15回死んだ。あー、書くとリアルだな。15回。普通に考えてヤバい数字だよな。でもまだ20層にも届いてないし、先は長い。終わりが見えないっていうのは前世の就活と同じ気分だ。就活……懐かしいな。っていうかこの世界に転生してからの方がブラックなのどういうこと」
ティナはこの書き込みを読んで、初めて「転生」という言葉の意味を正面から受け止めた。日記帳の副作用で、その概念は既に理解できていた。死んだ後に別の世界で生まれ変わること。ルディは元々この世界の人間ではなく、別の世界――彼が「前世」と呼ぶ場所――から来た人間なのだ。
それを知っても、ティナの返事は変わらなかった。変える必要がなかった。相手がどこの世界の出身であろうと、疲弊している人間への対応は同じだ。
「15回は確かに多いです。でも15回生き延びた、とも言えます。――それと、就活も転生も私にはわかりませんが、あなたの文章が日に日に読みやすくなっていることは評価します。添削の成果です」
「添削の成果って言うな。俺が自発的に改善したんだぞ」
「では、自発的な改善を評価します。――明日もご無事で」
「……ああ。お前もな」
ティナは日記帳を閉じ、灯りを消して寝台に入った。
暗闇の中で、天井を見つめる。
――明日もご無事で、と書いた。なんてことのない挨拶だ。
でもルディにとって「無事」は当たり前ではない。明日死ぬかもしれない。また死んで、また戻って、また死ぬかもしれない。15回死んだという記録を読んで、16回目がないことを祈っている自分がいる。
ティナは毛布を頭まで引き上げた。
――困った。心配している。明らかに。
この感情はもう「合理的判断の棚」には収まらない。棚はとっくに満杯で、感情は足元に散乱している。
ティナは目を閉じた。明日もあの人のセーブデータが届くだろう。死ななかったという記録か、死んだという記録か。どちらであっても、ティナは読む。読んで、添削して、薬草のレシピを書き足して、「疑問符が多すぎます」と叱って――そうやって、日記帳越しのこの距離を保ち続ける。
それでいい。今は、それでいい。




