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勇者のセーブデータが私の日記帳に上書きされるんですが  作者: 四宮 あおい
聖女の遺書が私の日記帳に届くんですが

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第四章 文通、ふたたび1

 文通が始まって二週間が過ぎた。


 ティナの書斎には、いつの間にか三つの領域ができていた。机の左側がティナの帳簿スペース。右側が日記帳とコノハへの返事を書くスペース。そして机の端に積み上げられた紙束が、コノハの状況分析と王都行きの計画資料。


 整理整頓を信条とするティナにとって、机の上が三分割されている状態は本来なら許容しがたい。しかし優先順位というものがある。帳簿の赤字より、人の命が優先だ。帳簿の赤字はティナが目を離しても翌月までは悪化しない。コノハの体は、毎日悪化している。


 コノハとの文通は日に日に密度を増していた。


 最初の数日間は、コノハの状況把握のための質問と回答が中心だった。しかし二週間目に入ると、やり取りの質が変わってきた。状況報告の合間に、私的な会話が混じるようになったのだ。



「ティナさん。今日、浄化のサンプルがいつもと違う色でした。いつもは黒か紫なのに、今日は赤茶色でした。鉄錆みたいな匂いがしました。

 浄化したら、いつもより疲れました。三回目のあとに鼻血が出ました。初めてです。

 ……怖いことを書いてすみません。でも、記録しておいたほうがいいかと思って。ティナさんが数字で教えてほしいと言っていたので」



 ティナはこの報告を読んで、ペンを一度置いた。鼻血。浄化の負荷が新たな段階に入った可能性がある。赤茶色のサンプルが何なのかはわからないが、通常と異なる物質の浄化は通常以上の消耗を引き起こすのかもしれない。


 分析メモに追記した。「第十四日目:浄化サンプルの変質。鼻血(新規症状)。消耗度の上昇が見られる。推定残存期間を再計算する必要あり」


 しかし返事には、分析の結果だけを書くのではなかった。



「コノハさん。報告ありがとうございます。怖いことを書いても構いません。むしろ、怖いと感じたことは必ず書いてください。記録することは、状況を把握する第一歩です。

 鼻血が出たとのこと。横にならず、座ったまま少し前かがみになって、鼻の柔らかい部分を指でつまんでください。ゆっくり百数えるまでそのまま。水差しの水で濡らした布を鼻の付け根に当てると、なお止まりやすくなります。

 それと、赤茶色のサンプルについて。鉄錆の匂いがしたなら、鉱石の汚染物質かもしれません。次に同じものが来たら、可能であれば少量を残しておいてください。成分がわかれば対策が立てられます」



 返事を書きながら、ティナは自分の文面を読み返した。事実の確認、具体的な対処法、そして次への備え。領地経営で村人の相談に乗るときと同じ手順だ。相手が辺境の農夫であれ、幽閉された聖女であれ、ティナのやり方は変わらない。


 しかし最後に、もう一行だけ書き足した。



「あなたは一人で怖い思いをしています。それは事実です。でも、怖いと書けるということは、まだ戦えているということです。遺書を書いていた人は、怖いとは書きませんでした。諦めていたから。今のあなたは諦めていない。それだけで十分です」



 書き終えて、ティナは自分の手が微かに震えていることに気づいた。冷静な分析の裏で、感情が動いている。コノハが鼻血を出した。新しい症状が出た。悪化している。時間がない。


 ――焦るな。焦っても帳簿の数字は変わらない。


 ティナは深呼吸をして、帳簿に向き直った。



 コノハの人物像は、文通を重ねるごとに鮮明になっていった。


 彼女は絶望の中でも「誰かのために」という性質を失っていなかった。それはティナが日記帳の文面から読み取った、最も印象的な特徴だった。



「今日、管理者のユーリアさんが来たとき、ちょっとだけ咳をしていました。風邪でしょうか。この地下室は寒いから、体を壊しやすいと思います。

 私が浄化できるのは物質の穢れだけで、病気は治せないんですけど……何かできることはないかなって思いました。ユーリアさん、いつも疲れた顔をしているので」



 自分が幽閉され、消耗させられている管理者の体調を心配している。ティナはこの文面を読んで、深いため息をついた。


「コノハさん。あなたは自分の体調のほうを心配してください」


「でも、ユーリアさんも大変そうで……」


「あなたのほうが大変です。客観的に」


「……はい。でも、放っておけないんです。困っている人を見ると」


 ティナのペンが止まった。


 ――放っておけない。困っている人を見ると。


 それはティナ自身がずっと言われてきた言葉だった。村の老婆に「あなたは自分を使い過ぎている」と言われたとき、ティナは「他に誰がやるんですか」と答えた。コノハも同じだ。幽閉された地下室の中で、管理者の咳を心配している。自分のほうがよほど大変なのに。


「……この人は、私に似ている」


 ティナは声に出して呟いた。書斎にはルディがいた。簡易寝台に横になりながら、天井を見つめていた。


「似てるよな。お前とコノハ」


「何がですか」


「自分のことは後回しにして、他人の心配ばっかりするとこ」


「合理的な判断です。コノハさんの場合、管理者であるユーリアさんの体調はコノハさん自身の処遇に影響し得ますから」


「合理的な判断じゃないだろ。お前も俺のとき、同じこと言ってたけど」


 ティナは返事をしなかった。代わりに日記帳に向き直り、コノハへの返事を続けた。


「コノハさん。ユーリアさんを気にかけるのは、あなたの良いところだと思います。でもまず自分の体を大事にしてください。自分を大事にできない人は、他の人も大事にできません。

 ――これは誰かに言われた言葉の受け売りですが」


 ルディが横で小さく笑った。「それ、俺がお前に言ったセリフじゃないか」


「言われた覚えはありませんが、もし言っていたなら正しいと思います」


「言ったよ。……書斎でタルト食ってたときに」


「あのときはタルトの話をしていたでしょう。文脈が違います」


「文脈じゃなくて気持ちの話だよ」


 ティナは頬がわずかに熱くなるのを感じたが、無視した。棚に乗せる。棚は何度崩壊しても再建する。



 文通の中で、日記帳の「副作用」も加速していた。


 ルディのときは、セーブデータを読むたびに、彼の前世知識がティナの頭に流れ込んできた。第二部では、コノハの記録を読むことで、コノハの記憶の断片も流入し始めている。しかもルディの転生時とコノハの転移時では、流入する情報の質が異なっていた。


 ルディからは「ゲーム」「ステータス」「レベル」といった概念が中心だった。彼の脳がこの世界をゲーム的に認識していたからだ。


 コノハからは「福祉」「ケア」「権利」「尊厳」といった概念が流れ込んでくる。社会福祉を学んでいた大学生の知識が、ティナの中に少しずつ根を下ろしている。


 ある日、ティナは帳簿をつけながら、ふと口にした。


「父上、村の老人たちへの生活支援の仕組み、見直すべきかもしれません。いわゆる……『ふくし』の観点から」


 ホルストはスープの匙を止めた。


「ふくし、とは何かね」


「……正確にはわかりません。でも、『弱い立場の人を社会全体で支える仕組み』のことだと思います。副作用で流れ込んできました」


「ふむ。良い言葉だな。母さんも似たようなことを言っていた。『辺境だからこそ、みんなで助け合わなければ』と」


「母上が……」


「ふむ。もっとも、母さんの場合は『ふくし』という言葉は知らなかったがね。やっていたことは同じだ」


 ティナは黙って帳簿に戻った。母もまた、名前を知らないまま「福祉」をしていた。ティナもまた、名前を知らないまま領地の人々を支えてきた。コノハから流れ込んできた概念は、ティナが既にやっていたことに名前を与えてくれた。


 そしてその概念は、コノハの状況を考える上でも重要だった。「尊厳」。人間が人間として扱われる権利。コノハは「聖女」としか呼ばれていない。名前を奪われ、自由を奪われ、身体を消耗させられている。それは「尊厳」の否定だ。


 ティナの中で、怒りの質が変わりつつあった。ルディの「47回死ぬ計画」に怒ったときは、目の前の一人の人間の痛みに対する怒りだった。今回は、それに加えて「構造」への怒りが芽生えている。コノハ一人の問題ではない。百年間にわたって繰り返されてきた、異世界から人間を召喚し使い捨てる制度の問題だ。


 ――記録は嘘をつかない。


 ティナの中で、まだ言葉にならない確信が形を取り始めていた。




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