第二章 勇者の愚痴1
文通が始まって三日目。ティナは早くも後悔しかけていた。
原因は、日記帳の右ページを占領する文字の量だった。
「第3層。ボスがアイスゴーレムとかいうクソ硬い奴で物理耐性持ち。パーティメンバー全員脳筋だから魔法アタッカーゼロ。俺のビルドも近接特化だからMP振ってないし、完全に詰みかけた。結局3回ロードしてパターン覚えてゴリ押し。死に覚えゲーかよ。てか師団長が『物資は最低限で運用しろ』とか言ってきたんだけど、最低限の定義おかしくない? ポーション5本って最低限じゃなくて最低だろ。前世のバイト先のほうがまだ福利厚生マシだったわ」
ティナの日記帳が、得体の知れない愚痴で埋め尽くされていく。
右のページがルディのセーブデータ。左のページがティナの日記。本来なら自分の収支報告や天候記録、薬草の生育状況を書くはずのスペースが、日に日に圧迫されている。昨夜書いた「今月の支出見込み」の横に「アイスゴーレムのクソ硬さ」が並んでいるのは、控えめに言って異様な光景だ。
しかも内容の半分以上が意味不明だった。「びるど」「えむぴー振り」「ろーど」「死に覚えゲー」「ふくりこうせい」――何を言っているのかさっぱりわからない。文脈から推測しようにも、推測の足がかりになる知識がそもそもない。
ただし。
ティナは、ある変化に気づいていた。
日記帳の「副作用」とでも呼ぶべき現象が、文通を始めてから少しずつ現れていた。ルディのセーブデータを読むたびに、文章に含まれる概念が、断片的にティナの頭の中に流れ込んでくるのだ。
最初は、ただの違和感だった。頭の隅にうっすらと像が浮かぶ。輪郭のない、もやもやとした感覚。「何か」を知っている気がするが、言葉にはできない。
しかし日を追うごとに、それは鮮明になっていった。
「えいちぴー」は体力の数値化であること。この世界の住人が「元気」「疲れた」「瀕死」と感覚で捉えているものを、具体的な数字で表したもの。
「ろーど」はやり直しを意味すること。ある地点まで時間を巻き戻す行為。
そして――「3回ロードした」は、この人が3回死んだことを意味すること。
3回。
ティナはペンの軸を握りしめた。
3回死んだ。この人はそう書いている。しかもその事実を、まるで「残業が3時間あった」くらいの温度感で記録している。3回死ぬことが、日常の一部であるかのように。
ティナの中で、帳簿を前にしたときとは全く別の感情が動いた。帳簿の赤字は問題だが、解決策を考えればいい。しかし「3回死んだ」を平然と記録する人間に対して、何をすればいいのかわからなかった。
深呼吸をしてから、返事を書いた。
「お願いですから、私の日記帳を愚痴帳にしないでください。今日の収支報告を書くスペースがなくなります。あと、『3回ロードした』というのは、3回死んだという意味で合っていますか?」
翌朝の返事。
「ああ、合ってる。HPが0になるとセーブポイントに戻れるスキルがあるから、実質死んでも復活する。便利っちゃ便利だけど、死んだ記憶は残るから精神的にはキツい。まあ慣れたけど」
ティナはしばらく日記帳を見つめた。
慣れた、と彼は書いた。死ぬことに慣れた、と。
ティナは領地を経営する中で、数字の裏に潜む感情を読み取ることに長けていた。帳簿の赤字が続く家は、家族の誰かが病気だったり、畑が不作だったりする。数字は嘘をつかないが、数字の背景にある物語を読むには、数字以外のものを見る目が必要だ。
このセーブデータの「慣れた」という二文字の背景に、何があるか。ティナにはわかった。慣れたのではない。慣れなければ耐えられなかったのだ。
「死ぬことに慣れる人間はいないと思います。もしいるとすれば、それは慣れたのではなく、痛みに鈍くなっただけです。――それと、収支報告のスペースの件はどうなりましたか」
自分でも、最後の一文を付け加えた意図はわかっていた。深刻な話だけで終わらせたくなかったのだ。重い言葉のあとに、日常的な苦情を添える。それは会話を「続ける」ための、ティナなりの技術だった。
「お前、心配してるのか怒ってるのかどっちだよ」
「両方です」
「……すまん。でも他に吐き出す場所がないんだよ。こっちの世界に友達いないし、軍の奴らに弱音なんか見せられないし」
ティナはペンを止めた。
――他に吐き出す場所がない。
その言葉が、ティナの胸に思いのほか深く刺さった。
ティナ自身、この日記帳に本音を書き続けてきたのは同じ理由だった。領主代行として常に冷静でいなければならない。村人の前で弱音は吐けない。父には心配をかけたくない。だから日記帳だけが、ティナの唯一の吐き出し場所だった。
その日記帳を、今、見ず知らずの勇者と共有している。
ティナの中で、二つの感情がせめぎ合った。一つは、自分の大切な場所を勝手に占領されている苛立ち。もう一つは――この人の愚痴を毎晩読むことが、ほんの少しだけ楽しみになっている自分自身への戸惑い。
後者の感情を、ティナは断じて認めたくなかった。
だから対処法を変えた。これは好意でも同情でもない。ただの「添削」だ。日記帳に汚い文章を書かれるのが不快だから、文法を正してやるだけ。それ以上でもそれ以下でもない。そう自分に言い聞かせた。合理的だ。完全に合理的だ。
「仕方ありません。吐き出す場所がないのは気の毒ですので、当面は黙認します。ただし条件があります。第一に、疑問符は二つまで。第二に、主語を省略しないこと。第三に、意味不明な単語にはできるだけ説明をつけること。読みにくいので」
「なんで俺のセーブデータに添削が入るんだ……」
「添削ではありません。最低限の文章作法です」
こうして、奇妙な文通のルールが定まった。
ルディはセーブデータに戦闘ログを記録する。ティナはそれを読み、文法の乱れを指摘し、内容に対して実務的なコメントを返す。「ボスの攻撃パターンは何種類ですか」「属性相性を考えたことはありますか」「補給が不足しているなら、上申書を出すべきでは」――ティナの返事は常に実務的で、感傷の入る余地がなかった。
ルディにとって、それは新鮮だった。宮廷でも軍でも、人々は彼を「勇者様」として扱った。敬い、称え、そして成果を要求する。「大丈夫ですか」と聞く人間はいたが、それは社交辞令であり、答えを期待していない質問だった。ティナの「疑問符が多すぎます」は、社交辞令の対極にあった。
五日目。
「第5層。ボスはアイスヴァーム(巨大な氷の蛇)。こいつブレス攻撃のあとに隙ができるから、そこを突けばいけるんだが、ブレスの範囲がクソ広くて避けきれない。パーティの盾役(タンク=前衛で攻撃を受ける役)が2回吹っ飛ばされた。俺も1回死んだ。ポーション残り1。つーか不味い」
「ブレス攻撃の後に隙ができるのであれば、ブレスの射線を事前に把握して退避ルートを確保するべきでは? 正面から受けるのではなく、横方向に退避して射線の外に出れば、攻撃後の隙を安全に突けるはずです。あと、ポーションが不味いと何度も書いていますが、薬草の配合で味は改善できます。うちの領地では薬草の栽培が盛んなので、煎じ方を書いておきます。材料が手に入るなら試してみてください」
ティナは日記帳の空白スペースに、三種類の薬草茶のレシピを丁寧な字で書き添えた。胃腸を整える「霜竜胆の煎じ湯」、体力を回復する「月影草の温茶」、そして鎮痛効果のある「白鈴蘭の冷水出し」。分量、水温、蒸らし時間まで正確に記した。これは善意ではない。ポーションが不味いという愚痴を毎晩読まされるのが不快だから、解決策を提示しているだけだ。――少なくとも、ティナは自分にそう言い聞かせた。
翌朝の返事。
「攻略のアドバイスもらったの初めてなんだが。的確すぎないか? あとレシピありがとう。この世界の薬草の名前ぜんぜん知らなかったから助かる。……知らなかったっていうのはちょっと語弊があるんだけど、その話はまた今度」
「この世界の薬草の名前を知らなかった」。ティナはその表現に引っかかりを覚えた。「知らなかった」ではなく「知らなかったっていうのは語弊がある」。知らないのではなく、知る機会がなかった。あるいは――そもそも、この世界の出身ではない。
気になったが、深くは追及しなかった。日記帳の向こうの相手は、まだ見ず知らずの人間だ。踏み込みすぎるのは礼を失する。
七日目。
「第7層クリア。今日は死ななかった。お前のアドバイス通りブレスの射線を予測してみたらマジで避けれた。あとレシピの薬草茶、作ってみた。支給品のポーションと味が天と地の差。俺の中でお前の好感度がいま急上昇してる」
ティナはペンを持ったまま、一度目を閉じた。
――今日は死ななかった。
その一文だけで、胸の奥にある何かがほどけるのを感じた。よかった。死ななかったんだ。
――いけない。これは合理的な反応ではない。
ティナは気持ちを引き締め、添削モードに戻った。
「『避けれた』ではなく『避けられた』です。ら抜き言葉はやめてください。それと、『好感度』が何かは存じませんが、お礼には及びません。ポーションが不味いと毎晩日記帳に書かれるのが不快だっただけです」
「ら抜き言葉を指摘されたの前世以来だわ……」
「前世?」
「あー……いや、なんでもない。口癖みたいなもんだ」
ルディが「前世」という単語を出したのは、これが最初だった。ティナは追及しなかったが、日記帳の「副作用」で流れ込む断片的なイメージが、ここ数日でやけに鮮明になっていることには気づいていた。
「コンビニ」――何でも売っている不思議な店。昼夜を問わず開いていて、食べ物も飲み物も日用品もある。
「電車」――鉄の箱が線路の上を走る乗り物。大勢の人間が詰め込まれて移動する。
「エナジードリンク」――不味いが眠気を飛ばす液体。体に悪いが手放せない。
どれもこの世界には存在しないもので、しかしティナの頭の中では妙にリアルな質感を伴って理解できるようになっていた。まるで夢の中で見た光景を覚えているような、奇妙な既視感。




