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勇者のセーブデータが私の日記帳に上書きされるんですが  作者: 四宮 あおい
アナザーストーリー

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22/24

ティナ過去編 記録親和1

 追加でティナの過去に焦点をあてたアナザーストリーを書きました。ぜひ読んでもらえると嬉しいです。

 また、続編を創作が進行中で、二部の執筆はだいたい終わっています。ティナ過去編に次いで投稿予定なので楽しみにお待ちください!

 秋の夜は早い。


 ロッシュ辺境伯領の領主館では、日が落ちるとすぐに蝋燭の出番になる。石造りの壁に染みついた冷気を、暖炉の火だけでは追い出しきれないこの季節、八歳のティナ・ロッシュにとって一日で最も好きな時間は、母に髪を梳いてもらう夜のひとときだった。


「お母さん、明日は特別に編み込みにして」


「あら、編み込み? いつもは面倒がるのに」


「明日は鑑定の日です。ちゃんとした格好で行かないと」


 アネット・ロッシュは娘の亜麻色の髪に櫛を通しながら微笑んだ。まだ短い髪だ。編み込みにするには少し足りない。でも娘がせがむなら、工夫しよう。母の指先は器用だった。


「どんな恩寵が出るか、楽しみ?」


「火属性がいいです」


「あら、どうして?」


「薬草畑の毛虫を一匹ずつ手で取るのは非効率だからです。火でまとめて焼けたら、朝の巡回が三十分は短くなります」


 アネットの手が一瞬止まった。それから、小さく吹き出した。


「あなたらしいわね」


「合理的でしょう?」


「八歳の子から合理的という言葉が出てくるのは、たぶんこの辺境でうちだけね」


 ティナは「合理的」の意味を完全に理解しているわけではなかった。ただ、母が帳簿をつけるときに「合理的に考えましょう」と呟くのを聞いて覚えた言葉だ。使い心地がよかった。大人っぽい響きが気に入っていた。


 暖炉の前の椅子に座って、ティナの髪を梳くアネット。その横で、父ホルストが釣り竿の手入れをしていた。


「ふむ。父さんは釣り属性がほしかったなあ」


「釣り属性はありません、あなた」


「ないのか。残念だ。あったら毎日大漁だろうに」


「毎日大漁でも、この辺境で魚を誰に売るんですか」


「ふむ。売るのか。食べるのではなく」


「食べきれない量を釣ってくるのが問題だと、何度言えばわかるんですか」


 ティナは両親のやり取りを聞きながら、暖炉の火を眺めた。火はいい。温かくて、明るくて、便利だ。火属性なら、冬の薪割りも楽になるかもしれない。畑の雑草も燃やせる。暖炉の火をつけるのに火打石を使わなくていい。実用的だ。とても実用的だ。


「ねえ、お母さん」


「なあに」


「お母さんの恩寵は何?」


 アネットの櫛を持つ手が、ほんのわずかに間を置いた。ティナには気づけないほど短い間だった。


「記録親和よ。字が綺麗に書ける力」


「それは便利?」


「便利よ。とても」


 アネットは微笑んだ。嘘ではない。でも、全部でもない。ティナにはその微笑の奥が読めなかった。八歳の目には、母の笑顔はただ温かいだけだった。


「火属性のほうが便利だと思うけど」


「そうかもしれないわね。でも、どんな恩寵でも大丈夫よ」


「大丈夫って?」


「どんな力でも、使い方次第で大切なものになるってこと」


 ティナは首を傾げた。よくわからない。でもまあいい。明日になれば鑑定で、自分の恩寵がわかる。火属性がいい。治癒系でもいい。父の足の古い傷を治せるかもしれないから。


「さあ、もう寝なさい。明日は早いわよ」


「はい。――お母さん、編み込み、忘れないでね」


「もちろん、忘れないわよ」



 翌朝。


 約束通り、アネットはティナの髪を編み込みにしてくれた。短い髪を工夫して、左右に小さな三つ編みを作り、後ろでまとめる。いつもより三十分も早く起きて、丁寧に、丁寧に。


「お母さん、引っ張りすぎ」


「ごめんね。綺麗にしたくて」


「別に綺麗じゃなくても――」


「綺麗にさせて。今日くらい」


 アネットの声が少しだけ真剣だった。ティナは黙って大人しくした。母がこういう声を出すのは珍しい。


 編み込みが完成した。鏡を覗くと、普段よりずっとおめかしした自分がいた。悪くない。


 玄関に行くと、ホルストが釣り竿を持って立っていた。


「父上。今日は鑑定です。釣りではありません」


「わかっている。これは杖代わりだ」


「杖は書斎にあるでしょう」


「釣り竿のほうが手に馴染む」


「……好きにしてください」


 アネットがため息をついた。ティナもため息をついた。母と娘のため息の角度が、よく似ていた。


 三人で村の集会所に向かった。秋の朝の空気は冷たく、吐く息が白い。薬草畑の脇を通りかかると、ティナは足を止めて畑の状態を確認した。月影草の葉に朝露が光っている。霜竜胆はまだ蕾だ。問題なし。


「ティナ、鑑定に遅れるわよ」


「はい。――畑は大丈夫でした」


「八歳の子の台詞じゃないわね、それ」


 アネットが苦笑する横で、ホルストが「ふむ、立派な畑番だ」と頷いた。褒めているのか呆れているのか判然としないが、ホルストの「ふむ」はたいてい好意的だ。たぶん。



 ~~~ 



 村の集会所は、年に一度の恩寵鑑定の日だけ特別な空気をまとう。


 普段は村人の寄り合いや雨の日の作業場として使われるだけの石造りの建物が、今日だけは幟旗で飾り立てられ、正面に鑑定用の台が据えられている。台の上には拳大の水晶球。王都から派遣された鑑定士が、水晶球の横に腰を下ろしている。白髪の老齢の魔導士で、疲れた顔をしていた。辺境まで馬車で三日。移動だけで疲労が溜まるのだろう。年に一度とはいえ、辺国中を巡回する仕事は楽ではあるまい。


 集会所には村人が詰めかけていた。辺境の娯楽は少ない。子どもの恩寵鑑定は、村にとって一大行事だ。誰がどんな力を持って生まれたか。それは子どもの将来だけでなく、村の労働力や防衛力にも関わる。火属性が出れば猟師として期待され、治癒系なら薬師の道が開け、風属性なら長距離の使い走りに重宝される。実用的な力ほど歓迎される。辺境とはそういう場所だ。


 八歳の子どもが五人、台の前に並んでいた。ティナは三番目。前に二人、後ろに二人。


 一番手の女の子が水属性を引き当てた。水晶から青い光が溢れ、女の子の掌の上に小さな水の玉が浮かんだ。集会所から拍手が上がる。「おお、水だ」「井戸掘りの仕事に向いてるな」。女の子は嬉しそうに母親のもとに駆け戻った。


 二番手。クルトという名の男の子だ。猟師の息子で、ティナと同い年。日に焼けた肌と、泥だらけの短い髪。落ち着きがなく、並んでいる間もずっと足を動かしていた。ティナは隣でその貧乏揺すりを二十分間耐えた。二十分は長い。


 クルトが水晶に手を触れた瞬間、赤い光が弾けた。


 それは「光った」という表現では足りなかった。水晶が真紅に燃え上がり、衝撃波のように熱気が広がった。クルトの手のひらから炎が噴き出し――台の上の松明に火が飛び移った。


 集会所が沸騰した。


「おお、火が出たぞ!」


「火属性だ! しかも強い!」


「いやあ、将来が楽しみだ!」


 クルトは目を輝かせた。自分の手から火が出た。八歳の男の子にとって、これ以上の興奮があるだろうか。


「もう一回やっていい!?」


「やめなさい」


 鑑定士が即座に制止した。しかしクルトは興奮しすぎていた。松明を掴んで振り回し――集会所の入り口に吊るされた幟旗に火が移りかけた。


「こら! やめろ!」


 大人が三人がかりでクルトを取り押さえた。鑑定士が小さな消火魔法で幟旗の端を消し止める。集会所は笑いと歓声に包まれていた。クルトの父親が「すまん、すまん」と頭を掻きながらも、息子の恩寵に頬を緩めている。


 賑やかだった。温かかった。火属性は辺境では花形だ。猟師としても、鍛冶の手伝いとしても、冬の暮らしの中でも、火はいつだって歓迎される。


 ティナはクルトの背中を見ながら、ぎゅっと拳を握った。


 次は自分の番だ。



「次の方、どうぞ」


 鑑定士の声は淡泊だった。クルトの騒動で少し疲れた顔をしている。ティナは台の前に進み出た。


 集会所の後方に、母アネットと父ホルストの姿が見えた。アネットは穏やかな表情で立っている。ホルストは釣り竿を壁に立てかけ、腕を組んでいた。二人とも微笑んでいる。


 大丈夫。どんな恩寵でも大丈夫。母がそう言った。


 ティナは水晶球に手を触れた。


 クルトのときは真紅。最初の女の子のときは青。


 ティナの水晶は――淡く、光った。


 光った、と表現していいのかすらためらわれるほどの、控えめな光だった。蝋燭の炎が風に揺れるような、頼りない明滅。色は……白に近い金。しかし金と呼ぶには薄すぎた。火は出ない。水も出ない。風も吹かない。何も起きない。水晶がほんのりと光っているだけ。


 集会所が静かになった。


 クルトのときの歓声の残響が、まだ耳に残っていた。その残響と比べると、今の静けさは際立っていた。


 鑑定士が眉をひそめた。水晶球をティナの手から一度離し、もう一度触れさせた。同じ結果。淡い光。変化なし。


 鑑定士は水晶球の台座に刻まれた目盛りを読み、手元の記録用紙にペンを走らせた。


「記録親和……」


 集会所の村人たちには聞き慣れない言葉のようだった。村人たちの間に、困惑のさざ波が広がった。火属性や水属性は誰でも知っている。風属性も、治癒系も聞いたことがある。しかし「記録親和」は、この辺境では耳にしたことがない。


 鑑定士は記録用紙から顔を上げ、善意に満ちた声で補足した。


「珍しい恩寵ですな。文字や記録媒体と魔力的に共鳴する力です。実用性は低いですが、まあ、字が綺麗に書けるようになるでしょう」


 字が、綺麗に、書ける。


 それが、ティナ・ロッシュの恩寵だった。


 拍手はあった。村人は礼儀正しい。辺境の人間は、子どもに対して残酷にはならない。しかし――「おおっ」という歓声はなかった。クルトの火属性のときに集会所を揺るがした熱狂は、どこにもなかった。拍手はあった。しかし、拍手と拍手の間の沈黙が、ティナには聞こえた。


 台を降りたティナの周りに、同い年の子どもたちが集まった。


「ねえティナ、記録親和って何ができるの?」


 クルトだった。悪意はない。まっすぐな目。純粋な好奇心。火を出して幟旗を焦がしかけた男の子が、ティナの恩寵について素朴に聞いている。


「字が綺麗に書けるって」


 別の子が答えた。鑑定士の説明をそのまま繰り返しただけだ。


「字が綺麗に書けるだけ?」


「それって恩寵なの?」


「火は出ないの?」


 悪意はない。八歳の子どもの純粋な疑問。火が出るほうが面白い。水が出るほうが便利。字が綺麗に書けるのは――すごくない。八歳の価値観では、それは残酷なほど明白な序列だった。


 ティナは答えようとした。口を開いた。しかし言葉が出てこなかった。


 字が綺麗に書ける。それ以外に何と言えばいいのかわからない。火は出ない。水も出ない。毛虫は手で一匹ずつ取り続けるしかない。父の足の傷も治せない。


 唇を噛んだ。泣きそうになったが、泣かなかった。


 泣いても恩寵は変わらない。泣いても毛虫は減らない。泣いても帳簿の数字は合わない。泣くのは非効率だ。八歳のティナは、そこまで明確に言語化はできなかったが、感覚としてそれを理解していた。泣かないほうがいい。泣いたら、もっと惨めになる。


「日記が上手につけられます」


 しばらく黙ってから、ティナはそう答えた。


 クルトは「へえー」と言った。それ以上は聞かなかった。興味がないのだ。八歳の子どもにとって帳簿は世界で最も退屈なもので、火は世界で最も面白いものだ。


 ティナは拳をぎゅっと握ったまま、母のもとに戻った。


 アネットの表情は穏やかだった。微笑んでいた。しかしティナが近づくと、母の膝の上で両手がきつく組まれているのが見えた。指の関節が白くなるほど、強く。


「お母さん」


「おかえり、ティナ」


「記録親和だった」


「……ええ。聞いていたわ」


「お母さんと同じだって」


「ええ。同じよ」


 アネットの声は変わらなかった。穏やかで、温かかった。しかし組まれた手だけが、別のことを語っていた。ティナはその手を見たが、意味は読み取れなかった。母がなぜこんなに強く手を組んでいるのか、八歳のティナにはわからなかった。


 同じ恩寵。同じ「役立たず」の評価。同じ痛みを、娘にも味わわせてしまった。


 アネットの目の奥に浮かんだ感情は複雑だった。喜び――自分と同じ力を持つ存在が、自分の娘だということ。そしてそれと同じ深さの申し訳なさ――この力がどれだけ軽んじられるか、自分が一番よく知っていること。いずれこの力が背負わせるかもしれない重荷のこと。


 しかしアネットは泣かなかった。娘が泣かなかったのだ。母が泣くわけにはいかない。


 ロッシュ家の女は、人前では泣かない。




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