第三章 勇者の勘
第10層を越えたあたりで、ナディアがルディに単独で話しかけてきた。
パーティーの野営中だった。氷の壁に囲まれた中継地点。蝋燭の灯りが揺れている。フィンは寝袋の中で眠っていて、ベルントは少し離れた場所で記録の整理をしている。
ナディアが音もなくルディの隣に座った。傭兵の足音は、聞かせたいときにしか聞こえない。
「ねえ、ルディ」
「なんだ」
「あんた、何回やり直してる?」
ルディの手が止まった。干し肉を噛む顎が固まるのを、暗がりの中でもナディアは見逃さなかったのだろう。
「何の話だ」
「第7層のボス。初見のはずなのに、攻撃パターンを全部知ってた。第9層の罠、一度も引っかからなかった。第10層の分岐路、迷いなく正解を選んだ。――全部"勇者の勘"で済ませてきたけどさ。あたしは十年傭兵やってる。勘じゃ説明つかないことくらい、わかるよ」
碧眼が蝋燭の光を反射していた。ルディは視線を逸らした。嘘をつくのは簡単だ。しかしこの女に嘘は通じない。
「……お前は、何だと思ってる」
「さあ。予知能力か、時間操作か、それとも――死に戻り系のスキルか。どれでもいいけど」
核心に触れている。ルディの左手が無意識に動いた。マフラーの端を握る癖。嘘をつくとき、あるいは本音を飲み込むときに出る癖だ。
「答えなくていいよ。あたしは傭兵だ。雇い主の秘密を暴くのが仕事じゃない」
ナディアの声が、少しだけ柔らかくなった。
「ただ、一個だけ聞かせて。――あんた、辛くないの」
ルディは答えなかった。
辛いに決まっている。何度も死んでいる。死ぬたびに痛みと恐怖の記憶が残る。しかし「辛い」と言ったら、「勇者」が崩れる。崩れたら、この三人は不安になる。不安になったら戦闘に支障が出る。支障が出たら、こいつらが死ぬかもしれない。こいつらの死は巻き戻らない。ルディが巻き戻るのは自分だけだ。
「……俺は大丈夫だ」
「嘘つくとき左手が動くの、知ってるよ」
ルディは自分の左手を見た。マフラーの端を握りしめていた。
ナディアはそれ以上追及しなかった。立ち上がり、自分の寝袋に向かう途中で、背中越しに言った。
「あんたが何を隠してても、あたしは逃げない。盾はフィンが持ってるけど、背中くらいは守れるからさ」
――この人に嘘をつくのは、前世の姉に嘘をつくのと同じくらい居心地が悪い。
ルディはしばらく蝋燭の炎を見つめていた。炎が揺れるたびに、壁に映る影も揺れた。自分の影が、少しだけ小さく見えた。
フィンに対する罪悪感は、日に日に膨らんでいた。
フィンはルディの「超直感」を純粋に信じている。ボスの攻撃パターンを最初から知っているのも、罠を一度も踏まないのも、すべて「勇者だから」で説明がつく。フィンにとっての「勇者殿」は完璧な存在だ。
「勇者殿のように、いつか自分も仲間を守れる騎士になりたいです」
休憩中にフィンがそう言ったとき、ルディは返す言葉に詰まった。
――こいつは俺を「完璧な勇者」だと思ってる。でも俺は完璧じゃない。ただの死に覚えゲーのプレイヤーだ。何回もコンティニューして、ようやくクリアできる凡人だ。
――でも、それを言ったら、こいつの目の中の輝きが消える。
――だから言えない。
一方、ベルントの記録帳には「報告書に書くべきか判断できない」項目が蓄積し始めていた。
「勇者殿、第12層攻略後に独り言。『今日のティナの添削きつかったな……でも的確なんだよな……』。ティナとは何者か不明。記録の要否――保留」
「勇者殿、夜間に何もない空間に向かって指を動かす動作を確認。表情が穏やか。通常の独り言時とは明らかに異なる。記録の要否――保留」
「勇者殿、薬草茶を淹れる際の手つきが素人のそれではない。誰かに教わった形跡あり。情報源不明。記録の要否――保留」
記録帳は「保留」だらけになりつつあった。記録官としては、すべて報告すべきだ。しかし報告すれば、ルディの「人間としての部分」が軍のデータに変換され、アンドレイの作戦計画の材料にされる。ベルントは銀縁の眼鏡の奥で、静かに葛藤していた。
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ダンジョン攻略は第20層に到達した。
ここまでの死亡回数は15回。ルディだけが知っている数字だ。15回死んで、15回の痛みと恐怖を記憶している。15回分の「死んだ瞬間」が、脳の奥底に堆積物のように溜まっている。
第20層のボスは、巨大な氷の騎士だった。
全身が氷の結晶で構成された人型の魔物。手にした大剣も氷でできている。身長は五メートルを超え、通路を塞ぐように立ちはだかっていた。ステータス画面にはHP:8500と表示されている。これまでのボスとは桁が違った。
パーティー総力戦。フィンが盾で攻撃を受け止め、ナディアが死角から急所を狙い、ベルントが後方で指示を飛ばす。ルディは主火力として剣を振るった。
――硬い。パターンが読めない。新しいフェーズだ。
ボスの攻撃パターンが変化した。一定のHPを削ると、新しい攻撃が追加される。ここまでのデータでは対処できない未知の動き。ルディの判断が一瞬遅れた。
氷の大剣がルディの胴を薙ぎ払った。
痛みが走った。視界が白く飛ぶ。体が宙を飛ぶ。壁に叩きつけられる衝撃。HPが急速にゼロに向かっていく。最後に見えたのは、フィンの顔だった。
「勇者殿!!」
フィンが叫んでいた。盾を手に駆け寄ろうとしている。そばかすの散った童顔が、恐怖と必死さで歪んでいる。
暗転。
――16回目。
ルディはセーブポイントに立っていた。ダンジョン入口。全回復。パーティーメンバーは傍にいる。フィンは「これから第20層のボスに挑みます」という顔をしている。さっきの叫び声を、フィンは覚えていない。
「行くぞ」
表情を変えず、ルディは言った。
16回目、17回目、18回目。第20層のボスは強敵だった。攻撃パターンを覚え、弱点を探り、最適な攻撃タイミングを割り出す。そのたびに死ぬ。そのたびにフィンの叫び声を聞く。
「勇者殿!!」
毎回同じ声。毎回同じ顔。毎回同じ恐怖と必死さ。フィンは知らない。自分が何度もルディの死を目撃して、そのたびに記憶を消されていることを。ルディだけが、フィンのあの顔を何回も覚えている。
――ごめんなフィン。
死ぬこと自体よりも、「仲間の叫び声を何回も聞く」ことのほうがずっと辛かった。
20回目の死亡。
セーブ&ロードが発動した。暗転から復帰する。全回復の感覚が体を駆け抜ける。死の痛みが消え、肉体が元に戻る。
しかし――目を開けた場所が、おかしかった。
ダンジョンの入口ではない。氷の壁がない。冷気がない。代わりに、石造りの天井が見える。温かい空気。蝋燭の灯り。本棚。机の上に帳簿が広がっている。インクの匂い。古い紙の匂い。そして――薬草の匂い。
ルディは床に仰向けに転がっていた。全回復した体は無傷だが、頭の中は大混乱だった。
――ここどこだ。セーブポイントはダンジョン入口に設定したはずだ。座標が――ステータス確認――
視界にステータス画面を呼び出した。セーブポイントの座標表示が、あり得ない数値を示していた。凍牙の迷宮の座標ではない。遥か南東――ロッシュ辺境伯領の座標になっている。
――は? なんでロッシュ辺境伯領――
日記帳。ティナの日記帳がある場所。セーブデータがリンクしている日記帳の物理的な所在地。セーブポイントが、日記帳に引き寄せられた?
そこまで考えたとき、ルディはようやく周囲を認識した。
目の前に人がいた。
亜麻色のゆるく波打つ髪をハーフアップにまとめた、小柄な令嬢。淡い琥珀色の瞳が大きく見開かれている。実用的なエプロンドレス姿。手に持った紅茶のカップが宙に浮いて――落ちた。帳簿の上に紅茶が盛大にかかった。
数秒間、二人は互いを見つめた。
「……もしかして、ルディさん?」
声で呼ばれた。あの文面の人の声だ。
想像していたよりも、ずっと静かで、ずっと落ち着いていた。目の前から見知らぬ男が出現したのに、悲鳴も上げずに名前を確認している。この人は一体どういう神経をしているのだろう。
「ティナ? え、嘘、ここどこ――ステータス確認――セーブポイントの座標が――は? なんでロッシュ辺境伯領――バグか? いやバグとかあるのかこのスキルに――」
「ルディさん」
「もしかして日記帳に引っ張られて座標がズレた? だとしたらこの世界のスキルシステム、ガバすぎ――」
「ルディさん」
「ていうか俺いまどういう状況――」
「――ルディさん」
三度目の呼びかけで、声の温度が下がった。「黙りなさい」の合図だ。ルディは本能的に口を閉じた。文面で鍛えられた条件反射だった。一ヶ月以上の添削で、この声色が「これ以上続けると怒ります」のサインだとなんとなくわかった。
「座ってください。椅子はそこです。薬草茶を淹れますから」
「あ……すまん、鎧が――」
「構いません。それより、状況を説明していただけますか。なぜ私の書斎に出現したんですか」
ティナは振り返らずに棚から茶葉の瓶を取り出していた。振り返らない理由がルディにはわからなかった。背中は完璧に事務的だ。
「あなたが出現した衝撃でカップが飛びましたので。今月の収支報告書がやり直しです」
――初対面の会話で帳簿の被害報告をされるとは思わなかった。
ルディが内心で想像していた「ティナ像」が音を立てて崩壊した。文面の的確さと厳格さから、もっと屈強で威圧的な女性を想像していた。領主代行というくらいだから、がっしりした体格で、鋭い目つきで、低い声で命令を下すような――
目の前にいるのは、エプロンドレスの小柄な令嬢だった。土仕事で日に焼けた手。華奢な肩。しかし声の冷静さと、帳簿の被害への苦情の優先順位の高さは、文面通り――いや、文面以上だった。
――文面通りの人だ。いや、文面より怖い。
ティナが薬草茶を差し出した。温かいカップを受け取り、一口すすった。
――うまい。
自分で淹れた薬草茶より、格段にうまかった。蒸らし時間を間違えていたのだと直感した。ティナのレシピに「十秒多く蒸らすこと」と書いてあったのを、ルディはいつも待ちきれずに注いでいた。
しかし、味覚を超えた何かが胸に沁みた。この茶は自分のために淹れられたものではない。帳簿作業のお供だった紅茶が駄目になったから代わりに出されただけだ。それでも――温かい。人の暮らしの温度がある。ダンジョンの野営で飲む冷たい水とは違う。
――帰る場所ができた。
その思考が浮かんだ瞬間、ルディは自分で自分に驚いた。たかが一杯の茶で何を大げさな。




