第一章 日記帳2
その夜。
就寝前に日記帳を開くと、心臓が一つ余分に脈打った。
自分の問いかけの下に、返事が書かれていた。明らかに動揺した筆跡で、文字が右に傾いている。
「は????? なんで読めるのこれ????? ていうかここステータス画面のログ欄なんだけど????? バグ???」
ティナは首を傾げた。
「ばぐ」が何かはわからない。「すてーたす画面」も「ろぐ欄」も意味不明だ。しかし、相手もこの状況に困惑していることだけは痛いほど伝わった。疑問符の奔流がそれを雄弁に物語っている。
返事が来た。つまり、相手がいる。この日記帳の向こうに、確かに誰かがいて、ティナの文字を読んで、返事を書いた。それだけで十分だった。
ティナは冷静にペンを走らせた。
「落ち着いてください。疑問符が多すぎます。状況を整理しましょう。まず、あなたは誰ですか。そしてなぜ、私の日記帳にあなたの文章が現れるのですか」
書きながら、自分が「困っている相手への対応モード」に入っていることに気づいた。村人が揉め事を持ち込んできたときと同じ手順だ。まず落ち着かせ、状況を聞き取り、事実関係を整理する。日記帳の怪奇現象であっても、手順は変わらない。
翌朝。日記帳を開くと、今度は少しだけ落ち着いた――しかし依然として困惑に満ちた――文面が返されていた。
「……すまん、取り乱した。俺はルディ・グラヴナー。この国の勇者をやってる。お前の日記帳に俺のデータが飛んでる理由は俺にもわからん。つーかお前こそ誰だよ。なんで俺のステータス画面が読めるんだ」
勇者。
ティナはその単語に眉を上げた。王国が正規に任命する討伐の英雄――「勇者」の存在は辺境にも伝え聞いている。確か最近、北方のダンジョン「凍牙の迷宮」の攻略のために派遣されたという話があった。村の男たちが酒場で噂していたのを聞いた覚えがある。「勇者が来たらしい」「じゃあ魔物の心配もなくなるな」と楽観的に語る声。当事者がどんな思いでダンジョンに挑んでいるかなど、辺境の住人にとっては酒の肴以上の関心事ではなかった。
ルディ・グラヴナー。聞いたことのない名前だが、辺境にいれば王都の人事に疎くなるのは当然だ。
「ティナ・ロッシュと申します。ロッシュ辺境伯領の領主代行です。あなたの文章が私の日記帳に勝手に書き込まれる理由は私にもわかりませんが、日記帳は母の形見ですので、大切に扱ってください。それと、昨夜の書き込みを改めて読みましたが、『えいちぴー残り12』で『左肩に裂傷』というのは心配です。医師にはかかりましたか」
自分でも感心するほど冷静な文面だ、とティナは思った。内心では「勇者? 本物の?」という動揺が渦巻いていたが、文面にそれを出す必要はない。十年間、領地のあらゆるトラブルに冷静な顔で対処してきた経験が、ここで活きている。
返事は夜に届いた。
「え、なに、辺境伯の娘? マジで? 貴族じゃん。やべえ失礼な文面送ってたわ……。あー、HPってのはまあ体力みたいなもんだ。12ってのは確かにやばかったけど、今はもう回復してるから大丈夫。心配してくれてありがとう。……っていうか、俺のセーブデータ読んで心配してくるの、お前が初めてだわ」
ティナはその最後の一文を読んで、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
セーブデータ――それが何を意味するかはまだ正確にはわからない。しかし、この人の「体力みたいなもの」が残り12まで削られた記録を読んで、「大丈夫ですか」と聞く人間が今までいなかったということだけは理解できた。
困っている人を放置できない――それはティナ・ロッシュの美点であると同時に、最大の弱点でもあった。村の井戸が壊れれば直し、父が風邪をひけば看病し、畑の作物が不作なら対策を練り、商人と値段交渉で揉めれば仲裁に入る。自分の手の届く範囲の問題は、すべて自分で解決する。「あなたは自分を使い過ぎている」と村の老婆に言われたことがあるが、ティナは笑って「他に誰がやるんですか」と答えた。それは自己犠牲ではなく、単なる事実認識のつもりだった。
だから、日記帳の向こうで疲弊している見ず知らずの勇者に対しても、同じことをした。
「心配するのは当然です。体力が残り12で大丈夫な人間はいません。それと、あなたの文章は文法が乱れすぎています。疑問符の連続使用は二つまでにしてください。読みにくいので」
長い沈黙のあと――たぶん、半日ほどの時間が経ってから――返ってきたのは短い一行だった。
「お前、誰だよ……俺の国語の先生?」
「先生ではありません。ただの辺境伯令嬢です。あと、国語が何かは存じませんが、文章は丁寧に書くものです」
これが、ティナ・ロッシュとルディ・グラヴナーの「文通」の始まりだった。
二人はまだ、互いの顔も、声も、年齢も知らない。ただ日記帳を介した文字だけが、北の辺境とダンジョンの闇を繋いでいた。
その夜、ティナはいつもの日記を書いた。
「日記帳に謎の文通相手ができた。勇者を名乗っている。本物かどうかは不明。文法は壊滅的。疑問符を二つまでにするよう指導した。――母上、あなたの形見がこんなことになるとは、きっと想像もしなかったでしょうね。でも、安心してください。日記帳は大切にしています。勝手に書き込まれる分は、まあ……仕方ないとします」
書き終えてペンを置いたとき、ティナは日記帳の表紙をそっと撫でた。革の手触りは温かく、かすかに古い紙の匂いがした。
母がこの日記帳を使っていた頃、何を書いていたのだろう。ティナは母の書き込みを見たことがない。日記帳を受け継いだとき、母が使っていたページはすべて白紙に戻っていた。まるで記録が役目を終えて消えたかのように。
記録親和の魔力には、まだ知らない側面があるのかもしれない。この日記帳がルディのセーブデータを受信したのも、ティナには説明のつかない現象だ。
しかし、説明がつかないからといって、無視するわけにはいかない。日記帳の向こうに、確かに誰かがいる。疲弊して、孤独で、疑問符を乱発する人が。
ティナは灯りを消した。暗い寝室の天井を見つめながら、思った。
――明日も、あの人のセーブデータは届くだろうか。
それが楽しみかどうか、ティナはまだ自分に問わないことにした。




