第十一章 帰還と日常
凍牙の迷宮から帰還した三人を、アンドレイの率いる支援部隊が迎えた。
ルディは担架に乗せられ(本人は「歩ける」と主張したが、HP3の人間の主張は却下された)、ティナは自分の足で歩いた(本人は「平気です」と主張したが、明らかに足がふらついていた)。シーラは元気だった。「論文のネタが山ほどあるので、興奮で疲れを感じません」と言い張った。
ロッシュ辺境伯領に戻ると、ホルストが領主館の玄関で待っていた。
「ふむ。帰ったか」
「ただいま帰りました、父上」
「おかえり。――スープ、作っておいた。たぶん薄いが」
「ありがとうございます。今は、薄いスープが一番美味しいです」
ホルストはティナの頭をぽんと撫でた。十八歳の娘の頭を撫でるのは久しぶりだった。ティナは少しだけ目を潤ませたが、すぐに「スープを温め直しますね」と厨房に向かった。
ホルストは担架に乗ったルディを見下ろし、穏やかに言った。
「勇者殿。娘を無事に連れて帰ってくれたな」
「約束しましたから」
「ふむ。約束を守る男は好きだ。――ところで、娘とはいつ正式に話をしてくれるのかね」
「え?」
「いやなに、父として一応確認しておきたくてな。ふむ」
「ま、待ってください。今はHP3なので――」
「えいちぴーが回復したら、ということだな。了解した。楽しみにしている」
ホルストはのんびりと去っていった。ルディは担架の上で天井を見つめ、マフラーに顔を埋めた。
迷宮攻略から数週間が経った。
氷皇竜フリージアの再封印は王国中に伝えられ、ルディは英雄として叙勲を申し渡された。王都で盛大な式典を開き、勇者の功績を称えるという計画だった。
ルディは辞退した。
「長期休暇を取ります」
アンドレイは書類を受け取り、署名した。以前とは違う穏やかな笑みを浮かべていた。仮面ではない、素の表情だ。
「行き先は聞くまでもないな。――ルディ君、私の部下で休暇を申請したのは、君が初めてだよ」
「師団長こそ、たまには休んでください。猫と一緒に」
アンドレイの微笑が凍った。
「……猫のことは、軍に報告しないでくれたまえ」
「セーブデータに書きました。ティナは知ってます」
「……ロッシュ嬢は口が堅いと信じたいが」
「口は堅いですけど、記録親和なので忘れません」
アンドレイは深いため息をついた。「休暇、承認する。さっさと行きたまえ」
シーラは論文を書き上げた。
正式タイトルは「異属性間の魔力共鳴と記録媒体の情報定着に関する理論的考察」。通称――「勇者と令嬢のラブレター論文」。
学会では学術的評価と野次馬的関心の両方で大きな話題になった。「記録親和とセーブデータの共鳴は、つまり二人の魔力が無意識に惹かれ合った結果であるという結論は、学術的に妥当か」という真面目な議論と、「通称が最高すぎる」というコメントが同時に飛び交った。
ティナは手紙で抗議した。「タイトルを変えてください。ラブレターではありません。添削です」。シーラの返事は「却下します。学術的に正確な通称です」だった。
ルディがロッシュ辺境伯領に到着したのは、晴れた朝だった。
珍しく、空が青かった。辺境の秋に、こんな晴天は滅多にない。
ティナは薬草畑にいた。いつものエプロンドレス姿で、黙々と草むしりをしている。英雄の凱旋を迎える空気は皆無だった。日常が、ただそこにあった。
「……来たんですか」
ティナは振り返らずに言った。手は土に汚れ、エプロンの裾に泥がはねている。
「ああ。お前の薬草茶が飲みたくなった」
「日記帳に書いてくだされば、送りましたのに」
「直接会わないと言えないこともある」
ティナの手が止まった。
立ち上がり、泥のついた手を井戸水で洗い、ルディの方を向いた。琥珀色の瞳が、ルディの鋼灰色の瞳を見つめた。
二人の間を、秋の風が吹き抜けた。薬草畑の草が揺れ、月影草の白い花弁が舞った。
ルディは相変わらず、面と向かうと言葉が下手だった。日記帳には何行でも書けるのに。セーブデータには感情を吐き出せるのに。目の前にティナがいると、言葉が喉の奥で渋滞する。
「俺のセーブポイントは、たぶんもうずっとここだ」
「……はい」
「魔力の都合じゃなく……俺が、ここにいたいから」
「……はい」
「お前の……隣に……」
尻すぼみになった。声が小さくなり、最後のほうはマフラーに吸い込まれていった。鋼灰色の目が泳いでいる。耳が赤い。勇者の威厳は完全に消失していた。
ティナは最後まで聞いた。聞き終えてから、エプロンのポケットからペンを取り出した。
ルディの手を取った。
手のひらを上に向けさせ、その上に一行だけ書いた。記録親和の魔力を込めて。消えない文字で。
「許可します。――ただし薬草畑の水やりは毎朝お願いします」
ルディは自分の手のひらに書かれた文字を読んだ。それから、顔を上げた。ティナは少しだけ赤い顔をしていたが、目は真っ直ぐだった。
「ティナ、手のひらに書くな。ステータス画面に残る」
「いいじゃないですか。記録するのが、私の仕事ですから」
「ステータス画面の備考欄に『許可します。薬草畑の水やりは毎朝』って出てるんだぞ。誰かにステータス見られたらどうすんだ」
「見えるのはあなただけでしょう。――それに、見られても困りません。事実ですから」
ルディは観念したように笑った。マフラーの下で、口元が緩んでいた。
「……了解。毎朝水やりする。約束する」
「約束ですよ。破ったら添削します」
「何を添削するんだよ」
「あなたの人生設計をです」
「重いな……」
領主館の二階の窓から、ホルストが二人を眺めていた。
白髪交じりの髭を撫で、穏やかに微笑んだ。横には、誰もいない。しかしホルストは、隣に誰かがいるように呟いた。
「やっと婿が来たな、アネット。……お前が遺した日記帳のおかげだ。見てるか」
窓の外では、薬草畑の中で二人が並んで歩いている。ティナが何か説明をしていて、ルディが頷いている。たぶん薬草の種類と水やりの手順を教えているのだろう。およそ恋人同士とは思えない地味な光景だが、ホルストにはそれがとても幸せそうに見えた。
「ふむ。いい天気だ」
ホルストは窓を閉め――閉めかけて、やっぱり少しだけ開けておいた。昔からの癖だ。




