第十章 氷皇竜と最後の記録
第50層。最深部。
扉を抜けた先に広がっていたのは、空洞だった。
天井が見えないほど高い、巨大な氷の空洞。壁も床も天井も、すべてが透き通った蒼い氷で構成されている。氷の内部に光源があるのか、空間全体が淡い青白い光に満ちていた。吐く息が白く凍り、まつげの先に霜が降りる。
空洞の中心に、それはいた。
氷皇竜フリージア。
完全に目覚めてはいない。巨大な竜の体が、氷の檻に閉じ込められるように蹲っている。全長は優に三十メートルを超えるだろう。鱗は銀と蒼の中間色で、一枚一枚が精密な結晶構造を持っているのが遠目にもわかる。閉じた瞼の下で、巨大な眼球がゆっくりと動いている。夢を見ているのだ。二百年の眠りの中で。
しかし――封印は確かに綻んでいた。竜の体を覆っていたはずの氷の檻に、無数のひびが走っている。ひびの隙間から冷気が漏れ出し、空洞全体の温度を極限まで下げている。三人の装備に、見る間に霜が降りた。
シーラが水晶のレンズで魔力を測定し、声を低くした。
「封印の残存率、推定十二パーセント。完全崩壊まで――六時間。いえ、五時間を切っているかもしれません」
五時間。
ティナは空洞を見渡した。中心に蹲る竜。その足元に見える、石の台座のようなもの。台座の表面に、かすかに光る古代文字が刻まれている。あれが封印の核だ。母が辿り着こうとして、辿り着けなかった場所。
「計画を確認します」ティナは声を落として言った。「ルディさんが氷皇竜の意識を引きつけている間に、私が封印の核に到達して、日記帳で封印記録を書き込む。シーラさんは魔力のモニタリングと、必要に応じた支援魔法を担当」
「了解」
「了解です」
「所要時間は――封印記録の書き込みに、最低でも三十分。その間、ルディさんは竜の注意を引き続けなければなりません」
「三十分か。――長いな」
「長いです。でも、あなたの攻略記録にある通り、半覚醒状態の竜の攻撃パターンは五種類。予兆と回避方法はすべて記録済みです。パターンを守れば――」
「死なずに済む」
「はい。死なずに済みます」
ルディは剣を抜いた。氷の空気の中で、刃が青白く光った。
ティナに背を向ける。広い背中。擦り切れたマフラーが鎧の下から覗いている。前世の姉にもらったマフラー。この人の、たった一つの帰る場所だったもの――今は、もう一つある。
「ティナ」
「はい」
「俺がいつもセーブデータに書いてるだろ。『状態、良好』って」
「はい。毎回嘘だなと思って読んでいました」
ルディは振り返らずに、笑った。声だけで笑うのが聞こえた。
「今日だけは本当だ。――お前が隣にいるから」
ティナは目を伏せた。まつげに降りた霜が、瞬きで落ちた。それから、ペンを握り直した。日記帳を胸に抱く手に、力を込める。
「終わったら、タルトを焼きます。蜂蜜と木の実の。三時間かかりますけど。――だから、帰ってきてください」
「ああ。必ず」
ルディが走り出した。
氷の床を蹴り、竜に向かって真っ直ぐに。剣を構え、声を上げる。勇者としての、全力の咆哮。
氷皇竜の瞼が、震えた。
竜が目を開けた。
蒼い瞳。太陽のように巨大な瞳孔が、ルディの姿を捉えた。完全な覚醒ではない。半覚醒――夢と現実の境界にいる竜は、理性を持たない。本能だけが動いている。
最初の攻撃は尾だった。
巨大な尾が、空洞の壁を叩くほどの速度で薙ぎ払われた。ルディは事前に読んでいた。攻略記録の第50層ボスデータ。「第一攻撃:尾薙ぎ払い。予兆――右後肢が二度踏み鳴らされる。発動まで1.5秒。回避方法――前方へ跳躍し、腹部の下に潜り込む」
ルディは右後肢の動きを見た瞬間、前へ跳んだ。尾が頭上を通過する風圧が、髪を乱す。腹部の下に滑り込み、そのまま剣を振り上げる。鱗に刃が食い込む――浅い。半覚醒でも竜の防御力は凄まじい。
「硬っ……!」
二番目の攻撃はブレス。氷の吐息が、空洞の半分を凍結させた。ルディは攻略記録通りに右側面へ回避。ブレスの射線を予測し、死角に入る。三番目の攻撃、前肢の叩きつけ。予兆は肩甲骨の隆起。回避はタイミングを合わせて横転。
ルディのHPが削られていく。直撃は受けていないが、竜の冷気そのものがダメージになる。近くにいるだけで体力が奪われる。ステータス画面の数値が、じりじりと下がっていく。
380。350。310。
――まだ大丈夫だ。パターン通りだ。ティナの記録を信じろ。
一方、ティナは封印の核に向かって走っていた。
竜の注意がルディに向いている隙に、台座まで駆ける。足元が滑る。氷の床が冷たい。しかし足を止めない。薬草畑を毎日走り回った足が、今この瞬間のためにある。
台座に辿り着いた。古代文字が刻まれた石の表面に、ひびが走っている。ここが封印の核。母が辿り着こうとした場所。
ティナは日記帳を台座の上に置いた。ページを開く。白紙のページ。ここに、封印記録を書く。
ペンを構えた瞬間――日記帳が光った。
いつもの青白い光ではない。金色の光。母アネットの魔力が、日記帳の奥底から湧き上がってくる。
文字が浮かんだ。ティナの手が書いたのではない。日記帳そのものが、記憶していた文字を解放した。母が生前に刻んだ、未完の封印術式。
「ティナ」
母の声が――聞こえた気がした。文字を通じて。記録を通じて。
「あなたなら、きっとここまで来られると信じていたわ」
金色の文字が次々と浮かぶ。封印術式の前半部分。母が病に倒れる前に書き上げていた部分だ。精緻で、力強く、そして――優しい文字。
ティナの目から涙が溢れた。
十年前に亡くなった母が、ここにいる。文字の中に。記録の中に。ティナがこの場所に辿り着くことを信じて、術式を遺してくれた。
「怒ってもいいし、泣いてもいい。でもね、記録する力というのは――誰かの痛みも、喜びも、『なかったこと』にしない力なのよ」
ティナは泣きながらペンを走らせた。母の未完の術式を引き継ぎ、後半部分を自分の手で書く。涙が日記帳に落ちても、記録親和の魔力が文字を正確に定着させる。滲まない。歪まない。記録は、感情に左右されない。それがこの力の本質だ。
しかし――記録を支えているのは、感情だ。母の愛情。ティナの決意。ルディの信頼。それらすべてが、ペンの先に乗っている。
背後で、轟音が響いた。竜の咆哮。半覚醒から、さらに意識が浮上している。攻撃が激しくなる。
「ティナ! あとどのくらいだ!」
ルディの声が遠くから聞こえた。切迫した声。息が荒い。
「あと十分!」
「十分か――了解!」
ルディのHPは150を切っていた。冷気のダメージが蓄積し続けている。回避は完璧だが、空間そのものが敵だ。ここにいるだけで削られる。
120。100。80。
四番目の攻撃パターン。翼の一撃。予兆は――攻略記録にある。翼の付け根の筋肉が収縮してから0.8秒。回避は――。
ルディは横に跳んだ。翼の先端が鎧を掠め、金属が悲鳴を上げた。直撃ではない。掠っただけ。しかしHPが一気に削られる。
50。
「くそ……」
五番目のパターン。氷の棘が地面から突き上げる。予兆は床の氷にひびが走ること。回避は――。
ルディは攻略記録を頭の中で反復した。ティナの文字が脳裏に浮かぶ。丁寧な筆跡。正確な数値。そしてその数値の一つ一つが、自分が死んで覚えた情報だ。自分の痛みを、彼女は一行も読み飛ばさなかった。全部覚えていてくれた。
――だから、死なない。
氷の棘を跳んで避ける。着地と同時に前方へ転がり、竜の腹部の死角に入る。HPは30。残りわずか。
「ティナ!」
「あと五分!」
五分。300秒。HPが30で、冷気のダメージが毎秒約0.5。単純計算で――60秒後にHPが0になる。足りない。全然足りない。
ルディは歯を食いしばった。ステータス画面に赤い警告が点滅している。HP低下警報。あと少しで、セーブ&ロードが発動する。死ぬ。ここで死ねば、ティナの書斎に戻る。封印の書き込みは未完了のまま。ティナは一人で竜の前に取り残される。
――それだけは、絶対に駄目だ。
「シーラさん!」
ルディが叫んだ。
「はい!」
「回復魔法、ある?」
「あります! 微弱ですが! 射程内に入ってください!」
シーラが空洞の壁際から手を伸ばした。回復魔法の光がルディに届く。HPが――5だけ回復した。35。微弱だ。しかし60秒が72秒に延びた。
「もう一発!」
「詠唱中です! 待って――」
竜が咆哮した。空洞全体が震える。氷の天井から破片が降り注ぐ。シーラが魔法陣を維持しながら破片を避ける。二発目の回復がルディに届く。HP40。
ルディはHPの一桁台と二桁台を行き来しながら、竜の攻撃を避け続けた。攻略記録のパターンを反復する。一番、尾。二番、ブレス。三番、前肢。四番、翼。五番、棘。そしてまた一番に戻る。パターンは五種類。覚えている。ティナが書いてくれた。自分が死んで覚えたことを、彼女が文字にしてくれた。
HP15。10。7。5。
「ティナ!」
「――あと、一行!」
ティナの声が響いた。ペンが走る。最後の一行。封印術式の完成。母が遺した前半と、ティナが書いた後半が一つになる。記録親和の魔力が日記帳から溢れ出し、台座の古代文字と共鳴する。金色の光が空洞全体を満たしていく。
最後の一文字を――書いた。
世界が、光に包まれた。
封印が、完成した。
氷皇竜の巨体が、ゆっくりと沈んでいく。蒼い瞳が閉じられていく。意識が、再び深い眠りに落ちていく。封印の檻が修復され、新しい氷が竜の体を包み込む。ひびが消え、綻びが塞がり、二百年前と同じ――いや、それ以上に堅固な封印が完成する。
冷気が止んだ。空洞の温度がゆっくりと上がっていく。氷の壁から滴が落ちる。静寂が戻った。
ルディはHP3の状態で、膝をついていた。
全身が凍傷と切り傷だらけだった。鎧のあちこちが砕け、マフラーの端が凍りついている。立ち上がる力が残っていない。しかし――生きていた。一度もセーブ&ロードを使わずに。一度も死なずに。
「セーブデータ記録――」
ルディはかすれた声で呟いた。ステータス画面に向かって。誰にも見えない、自分だけの画面に。
「現在地、第50層。最深部。状態……最悪。HP3。全身凍傷。鎧大破。ポーション残り0」
視界の隅で、ティナが日記帳を抱えてへたり込んでいるのが見えた。台座の前で膝を折り、日記帳を胸に押し当てている。肩が震えていた。泣いているのだ。しかし顔を上げたとき、その表情は――泣き笑いだった。涙を流しながら、笑っている。
ルディは最後の力でステータス画面に一言だけ追記した。
「――でも。状態、最高。お前がここにいるから」
シーラは空洞の壁際で、感動のあまり涙を流していた。丸眼鏡が曇っている。しかし学者の矜持は捨てなかった。鼻を啜りながら、震える声で聞いた。
「この瞬間のセーブデータ……記録させてもらっていいですか……」
ルディは氷の床に大の字に寝転がったまま、力なく笑った。
「……好きにしろ」
シーラはメモ帳を取り出し、涙でインクを滲ませながら、猛烈な速さで書き始めた。
ティナは日記帳を閉じ、ルディの隣まで這うように移動した。ルディの横に座り、自分の薬草ポーチから軟膏を取り出し、彼の凍傷の手当を始めた。
「……動かないでください。凍傷が広がります」
「お前こそ泣いてるだろ。大丈夫か」
「大丈夫です。泣きながら手当できます」
「器用だな……」
「辺境伯令嬢ですから」
ティナの手が、ルディの傷に軟膏を塗る。冷たい指先。しかしその冷たさの奥に、確かな温もりがある。
ルディはティナの顔を見上げた。涙の跡が頬に光っている。目の下に隈がある。髪は乱れ、旅装は汚れている。エプロンドレスで帳簿をつけていた辺境伯令嬢の面影はほとんどない。
――でも、綺麗だと思った。
思ったことをセーブデータに書こうかと考えて、やめた。書いたらティナに読まれる。読まれたら「記録しますね」と言われる。
代わりに、声に出して言った。
「ティナ」
「はい」
「ありがとう。――全部」
ティナの手が止まった。軟膏の瓶を持ったまま、ルディの目を見た。
「……全部、ですか」
「全部。日記帳に返事を書いてくれたことも。添削してくれたことも。薬草茶を淹れてくれたことも。攻略記録を作ってくれたことも。ここまで一緒に来てくれたことも。俺を消耗品じゃないって言ってくれたことも。――全部」
ティナは瓶の蓋を閉め、ポーチに戻した。それから、日記帳を開いた。
最後に書いた封印術式の、その次のページ。白紙。
ペンを取り出し、一行だけ書いた。
「記録完了。封印修復、成功。――添削の必要なし」
ルディは笑った。HP3で、全身凍傷で、鎧が大破した状態で、笑った。
「添削の必要なし、か。お前に添削不要って言われたの、初めてだぞ」
「これからも言うかどうかはわかりません。文法が乱れたら添削します」
「……はいはい」
シーラが三歩離れた場所で、全てを記録していた。涙は止まっていたが、メモ帳は既に三ページ分埋まっていた。




